BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『シング・ストリート 未来へのうた』-190624。

原題:Sing Street
ジョン・カーニー監督
2016年、アイルランド・英・米

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www.youtube.com


この監督の作品を立て続けに観ている。

アイルランドでスマッシュヒットを飛ばしたことによって
(『ONCE ダブリンの街角で(2007)』)
音楽映画の名手として期待されてアメリカに呼ばれ
(『はじまりのうた(2015)』)、
同じようなの もう1本作りませんかと言われ、
・・・本作製作にいたった流れは 素人でもわかる。
監督そろそろ「音楽映画」じゃないやつ
撮りたいんじゃないですかねと
思えてくるのはどうしようもない。
商業映画なんだから 自分が撮りたいとかなんとか以前に
撮ってくれって言われて初めて仕事になるわけで、
そこはまあ大人の事情ってやつで。

だが、
「大人の事情」のなかで 若干あっぷあっぷしながら
撮りあげた作品であることが容易に想像できる反面

本作は それでも、まだ、驚くほどちゃんとしてた。
「やっつけでないもの」を感じた。
監督のなにか・・・
個人的なことを少しでも実現しようとして
作った映画であることが伝わった。

本作の主人公は思春期の男の子だ。
時代は80年代、おそらく監督自身が
少年時代であった頃に設定されている。
つまり監督は自分自身を描こうとした。
生きてきたなかで一番熱くて、一番いろいろなことを感じて
そして、最悪に恥ずかしかったであろう時代の自分のことを。
表現をする人はみんな、その表現活動のどこかの段階で
こうした作業をしたい/しなくちゃ と考えるもんなんだろう。
自分とまったく無関係の誰かについて 表現し続けるなんてことは 
人はできないし やはり表現とは 自分なのだという結論に
至るものなのだと思う。

ジョン・カーニー監督は・・・
「俺もいつかは自分自身を語る物語を作らなくちゃと
思うんだろうけど、まあ、もうちょっと先かな」
と考えていたんじゃないかと。なんとなくだが。
なのにそれが「今」になったことについて 
監督には監督の思いがあるのかも。
表現者であるかぎり また何度でも
同じ挑戦をすることになるだろうし、できるだろう。

これまで2作、ジョン・カーニー監督作品を観た。
安心して観てた。
登場人物たちに 決定的なひどいことが起こらなかったから。
わたしが想定する決定的なひどいこととは 
搾取される 虐待を受ける 子どもが不慮の事故に遭う
暴力にさらされてしかも誰にも助けてもらえない
心身に二度と癒えないたぐいの傷を負う そういうのだ。
その手のことが起こってもおかしくはない環境に
置かれている登場人物でも、不思議なほど安全であり、
その暮らしは、幸運と、周囲の人びとの良心に守られていた。
2作観て、一番ひどいできごとでも 
「浮気される」くらいがせいぜいだった。
浮気されることがひどくないというつもりはないが。
それだって、浮気された登場人物をなぐさめてくれる人がすぐに現れた。
あーひどいことが起こらなくっていいなーと思ってた。
やっぱり、主人公がつらい目に遭うのは観ててもつらいので。

それが、本作では ひどいことがかなり起こった。
正直言って驚いた。
ここまですると思ってなかった。
主人公の少年たちは 程度の差こそあれ搾取されており、
虐待を受けており、恒常的に傷ついていた。
暴力にさらされ、誰にも助けてもらえない。
詳細には描かれなかったが、癒えない傷を負っていると見られる子もいた。
よくこれだけのことを 逃げないで、しかも映像で、描写したものだと思った、
言わば自伝的な作品、自分自身の物語にも関わらず。
苦しい作業だったんじゃないか。
主人公の少年が 学校で教師による虐待を受け
トイレの床にへたり込んで一人泣くシーンを観て
監督はこの「音楽映画」3作目 においてさえ 
ちゃんと、まじめだったんだなと 感じた。
あの子は、それまでの人生でおそらく遭遇したことのなかった
理不尽な暴力に、文字通り圧倒されていた。

だけど、彼が
「わたしはママに比べたら全然 美人じゃないのに
どうしてパパはわたしに執着したの? 親の愛って複雑よね」
そう無邪気を装うヒロインの そばにいることを許された、
そのわけは、
トイレで一人泣いたあの体験を
乗り越えることができた子だったから、と言えるだろう。

本作全体がまだ「ジョン・カーニーのもの」でありえたのも、
あのシーンを撮ることができたから
そう言ってもいいような気がする。

GUIROが新しいアルバムを出すらしい-190621。

GUIROが新しいアルバムを出すらしい。その記念ライブがきのう東京であったことを、今になって知った。アルバムが出るの、すごく久しぶりだ。もう活動自体してないのかなとさえ思っていて、公式サイトをずっと訪れていなかったので、こんな重大な情報を取り落とした。アルバム、絶対購入したい。それにしてもわたし なんで GUIROを知っているんだっけなあ。きっかけが思い出せない。音楽は、わたしが知ってるほかのどのミュージシャンとも、まったく似ていない。

髪の毛を切る/薦めた本が読まれるとうれしい/真藤順丈「宝島」-190621。

美容院で髪の毛を切ってもらった。
髪の毛が多い。
それに伸びるのが早い。
どこの美容師さんにも驚かれる。
たった1ヶ月で、いつも「思ったより」増える。
アシスタントさんも動員のうえ
ふたりがかりで髪の毛を梳いてもらうこともある。
1ヶ月どころか
26~28日周期くらいで切っていかないと
重く感じて、ものすごく気持ちが悪い。

いまお願いしている美容師さんは、
中学・高校時代の同級生だ。
この前 お願いしたとき、
「本を読むように努めている。
経営やビジネス関連本を中心に選んでいるが
実は難しくて最後まで読めたためしがあまりなく
小説なんかはさらに読めてない」・・・ということを聞いた。
沖縄が大好き、ということも言っていたので
では真藤順丈の「宝島」はどうか、と薦めておいた。

大長編だからどうかなとは思った。
それに心配なことはもうひとつあった。
本作は終戦直後~70年代くらいまでの
沖縄の激動の時代を描く物語なのだ。
美容師さんは 沖縄は大好きだけど あの土地の
暗い歴史の部分は かなしいからあんまり積極的に
触れたいとおもわない、と言っていた。
何度となく沖縄に旅行に行ったことがあるが
戦時の歴史をたどる史跡や記念館のたぐいには
足を運んだことがないそうだった。
だからそういうのが読みたくないなら
この小説は向かないのかなと思った。
でも、 なんとなく・・・これだったら
彼は最後まで楽しめるんじゃないかなと感じたのだ。
なんとなくとしか言いようがないのだが。

真藤順丈「宝島」講談社

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舞台は、終戦直後の沖縄はコザ。
この頃、米軍基地に夜な夜な忍び込んで
物資を盗み出し、貧しい家や病院や学校に届けて回る
若者たち(「戦果アギヤー」)が もてはやされていた。
いつもとくに大きな「戦果」をあげて帰ってくるのは
オンちゃん・レイ・グスクの3人の少年グループ。
リーダーで最年長のオンちゃんは、地元の英雄、みんなの憧れの的だ。
しかし、他の地域の戦果アギヤーたちと合同で臨んだ大仕事の夜、
米警護兵の追跡を受け、合同グループは壊滅的な打撃をこうむる。
「生きて帰ってくること」を最優先事項に据え、
常に慎重に練られてきたオンちゃんの計画にあって、
そもそも計画実行中に警護兵に見つかってしまうこと自体がめずらしく、
ましてメンバーが死傷するなど、これまでになかったことだった。
この夜、レイとグスクは生還したが、オンちゃんが行方知れずとなる。
やがて、レイは地元のゴロツキ集団に仲間入り。グスクは警察官に。
そしてオンちゃんの恋人ヤマコは小学校の教師となって、
日々の暮らしを営みつつも、オンちゃんの面影を追い求める。
彼らはそれぞれに工夫してオンちゃんの消息を調べようとする。
どうもあの大計画の夜、オンちゃんたちの仕事を
阻もうとする動きがあったらしいのだが・・・。

・・・

今日、1ヶ月ぶりにお店に行ったら美容師さんが
「『宝島』読んだよ!!」と教えてくれた。
おれはあのシーンであいつが※※したのであやしいと思ったよ。
あの場面はこうこうこうで、すごく感動した!
と積極的に感想を語ってくれた。

薦めた本を読んでもらえると とてもうれしいものだ。

相手の「読んだよ!」をあまり真に受けないように
心がけている。
「読んだよ!」と言われて あんまり喜んで
目をキラキラさせてしまうと 
相手を困らせることになると
経験上 知っているからだ。

たまに、「あの小説読んだよ」とか言ってもらえたとき
ついうれしくなって 
え、え、読んでくれたの? どうだった?
おもしろかった?
どんなところがおもしろかった?
あの場面のあのセリフどう思った?
最後ああいうふうになったのってどう解釈する?
と ぐいぐいいってしまう。
すると、たちどころに
「じつは読んでくれてなかった(途中でやめた)」
ことが判明することがある。
相手は、薦められた手前 気を遣って
少なくとも薦められたことを忘れてないよ、と示すために
「読んだよ」と言ってくれているだけなのだ。
最初の方だけ読んでやめてしまった場合は
感想も最初の方についてのことしか語ってもらえないので
すぐにそれとわかる。
中盤のあのシーンがどうとか
最後の方に出てくる登場人物のことなんかを持ち出すと
途端に相手の目が泳ぎだすので
あ、これは、読んでいないか、途中まで読んでやめたなと
わかる。
でも、気を遣ってもらっていることが伝わるので
わたしもまさか「さては読んでないでしょ!」とか言わない。

最近は「読んだよ」と言ってもらえたとしても
「そうなんだ!読んでくれたんだね!」といった
簡単なリアクションにとどめるようにしている。
ただし、相手が本の内容について話したいかもしれないので
その気持ちをフイにしないために
「読んでくれたんだね!」は わたしのうれしい気持ちが
伝わるように、明るい感じで言うことを意識している(笑)
ともかくこっちの気持ちを押し付けすぎないことが大事だと。
本の内容とか、解釈とか、あんまりつっこんだところに
こちらの都合で相手をひきずりこまないように気をつけている。

まあ 正直に言えば 
まだ読んでない、途中で読まなくなってしまった、
あるいは読む気がない、・・・は
厳密には「読んだ」とは言えないと わたしは思う。
その場合は、
「読んだよ!」じゃなくて、
「買ったよ」「図書館でかりたから今度読むよ」
「最初すこし読んだけどやめちゃった」
そういう風に普通に状況を伝えてくれれば 
いいのになと ちょっと思う・・・
読んだよ!と言われると 
(全部)読んだんだ!と思ってしまうから。

人に薦められた本を読むことは普通、まれなのかもしれない。

でも美容師さんは、ちゃんと「宝島」を読んでくれた。
しかも大変気に入ってくれたようだ。

「今までは悲しいことを知りたくなかったけど、
この本を読んで、知れてよかったと思った。
沖縄の人たちのあったかさや
なんくるないさ』っていう感じは、
つらい時代を乗り越えてきたからこそのものなんだと思った」
と。

薦めて良かった。

・・・

真藤順丈の作品はいままでどれも個人的には
そんなにハマらなかった。
多作なところ、いろんなスタイル・ジャンルに挑むところから、
東野圭吾の二番煎じみたいに正直思っていた。
だが、
「宝島」は著者畢生の傑作になったと率直に思う。
源氏物語のように、
「時も場も次元も超えてできごとを俯瞰する語り部
の視座に 全体を統括させつつ
立場のちがうメインキャラそれぞれに、あくまで主体的に行動させ
ひとつのものごとを、立体的・多角的に見つめるやりかたが 
成功している。
この作品には、そのやりかたがきわめて似つかわしいのだ。
長大な物語だが、この分量でなくてはだめだった、ということが
よくわかるので、長すぎるとは思わない。
言葉では表現しきれないことを、その本質を損なうことなく
まじめに描き出そうとしているのもいいところだ。

なまなましさや、徹底して描こうとする姿勢は
ちょっと三島由紀夫っぽい。
切れ味は三島由紀夫の方が鋭いとは思うが。

「余剰人員」というキーワード-190620。

学生時代、アルバイト先の上長に、
こう言われたことがあった。

「おまえは余剰人員のひとり」

このような発言がでた流れとか背景は詳述しないが。

これを上長に言われたときに、
「余剰人員」という言葉にわたしは内心
「あー!それだ」と。

いかんともしがたい いたたまれなさ、

「他のみんなができることが 自分だけできない」

「自分が『なにがしかであること』を証明し続けない限り
この社会に存在することを許されない
(自分以外のみんなはそんな手続きを踏まなくても
社会に存在することを当たり前に許されているが、
自分だけはこの条件をクリアし続けたうえでの
条件付き認可である)」

「わたしは人の3倍やって、ようやく一人前」

でっかくて、重くて、
あせるような、泣きたいような、
一言ではとても表現できないような観念が
わたしには、物心ついたときから
ずっとずっとある。
そういうのを総括する、名前が付いたように感じた。
「わたしはつまり余剰人員なのだ」。

わたしは、だけど、人の3倍なんて、できる人間じゃない。
どんなジャンルのことにおいてもムリだ。
才覚も技能もフィジカルも全然ない。

「だったらほんとうに人の3倍やって
この社会への存在認可をとり続けてやる!」
歯をくいしばって頑張ろう、という
気持ちさえもつことができない、弱い人間だ。

この「余剰人員」て言葉は 
あんまり自分の感覚にピッタリすぎた。
積極的にこのレッテルを引き受けてしまった。

がんばれないことのいいわけとして完璧すぎた。

レッテルか・・・

わたしは みじめな存在であるのだろうか。

まあ思っちゃうものはしょうがないし
自分でそう思うのはわたしの勝手かもしれないのだが。

でもそのわたしの 
能力を買ってくれる人や
優しくしてくれる人が いることを
忘れてはならないだろう。

わたしがわたしをどう思うかはどうでもいい。

人がわたしのすることに使い道を見出してくれるかぎりは
それを一生懸命やることの先に光があると信じてみたい。

マグリットか???-190620。

この前、近所のお宅の玄関先が
とてもすてきな風情で、
光の感じが
「ジョルジュ・ド・ラ・トゥールみたいだなー」
と思ったんだけど
あとで画集を確認してもラ・トゥールには
それらしき作品がまったくなかった。

いったい誰の絵を自分は想像したのかと。

マグリットだったかもしんない。

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「光の帝国 Ⅱ」
うーん・・・・・・
でもなんか・・・
もっと灯りのオレンジが鮮烈だったんだよな・・・
だからラ・トゥールみたいだなと思ったんだもん

それにこれ 空が昼間だし(←根源的なテーマ・・・)・・・

映画の感想-『はじまりのうた』-190618。

原題:Begin Again
ジョン・カーニー監督
2013年、米

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www.youtube.com


この前観た『ONCE ダブリンの街角で』の監督が
舞台をニューヨークに移して製作した音楽映画
ということのようだ。
あまりひどいことが起こらないので安心して観られる。

人の心や、人と音楽のかかわりの、微妙なところを 
あんまりうるさくなく、描くのがうまいな。

ヒロインのものの考えかたや、音楽への取り組みかたは
最初から最後まで、あまり変わらないなと思った。
でも、自分の音楽が他者の手でさまざまに扱われる、
という体験を通して、
自分の望む生きかたをもう一度確認し、
そこに腰を落ち着けることを決めた、という風に見えた。

彼女が学んだことは、
「ただ信じて待っているだけじゃダメなこともある」
でも、
「信じてちゃんとやっていれば受け取ってくれる人もいる」
ということだろう。

スマートフォンをそろそろと使ってみる-190617。

スマートフォンSafariブラウザで
ブログ編集画面を開くと
フォントが明朝体になるのが気持ち悪い。
入力するとき、なにか、自分でなく他人が
作業を行っているような感じがする。

わたしはスマートフォンでのネットブラウジングには
おもにChromeを使っているが
Chromeで開いたページをショートカット化して
スマートフォンのホーム画面に
配置することはできないんだろうか。
Safariで開いたページはショートカットにできるのに。

友だちにすすめられたのをきっかけに
Amazon prime music」を活用するようになった。
ネットラジオアプリも入れた。
このふたつが、自分の意思で導入した初めてのスマホアプリだ。
結論としては もっと早く入れとけばよかったなと。

クラシックやジャズの古い盤が好きで
それらの多くは著作権が切れているから、というのもあるのか、
手持ちのCDの6割か7割がたは、すでにprimeで発見できている。
CDは今までずっと聴いてきたし
わたしはいまでもカセットテープでだって普通に音楽を聴くが
移動中に聴く分には
スマートフォンでprimeかけておけば十分だとわかった。
でもイヴリー・ギトリスが聴けないことや
B’zが聴けないことには不満が残る。
アンリミテッドバージョンに移行するかちょっと迷ってる。

ラジオはネットラジオなので どこにいても
音が切れることがまずなくて、とてもいい。

ラジオで思い出したけど、このまえ
近所のライブハウスにひとりでライブ聴きにいったとき
宇多丸さんの「アフターシックスジャンクション」の
ロゴが入ったサコッシュ提げている男の人 見たな。
去年の夏、野外公開生放送が開催されたときの
公式グッズと記憶している。
期間限定での販売だったはずだから
相当なファンなんだろうな・・・
「アトロク好きなんですか?」
とか つい話しかけそうになったが
「だからなんだよ」感もあるし やめといた。

ラジオって、聴いている人けっこういるもんだよね。
先月までバイトしていた職場には
別所哲也さんの朝の番組が好きっていう
パートさんいたな。