BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

読書感想-吉田修一「さよなら渓谷」-190711。

「さよなら渓谷」
吉田修一
2008年6月 単行本発行
2010年12月 文庫発行

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www.shinchosha.co.jp

文庫版の表紙デザインも確認したけど、

www.shinchosha.co.jp単行本のデザインの方が、良いな。
作品の雰囲気と、合っている。
文庫版のデザインには品がない。
「慟哭の谷」(文春文庫)の表紙みたいだ。

books.bunshun.jpこういう感じじゃないでしょ~。
タイトルに「谷」が入ってる点が共通してるから
頭のなかのおんなじ引き出しから出てきたんだけど。
100年前の人食いクマ事件の
ノンフィクションだったな
「慟哭の谷」は。
クマが人を襲う事件は
「熊害(ゆうがい)」と言うんだって。
怖かったな~
同じ事件を取り扱った吉村昭
「熊嵐」(新潮文庫)も
家のなかとか狭い場所とか見晴らしの悪い場所に
ずっといるのを避けたくなるくらい
怖かったけどな。
著者の苗字に「吉」がある点が
吉田修一と共通してるから
引き出しから出てきてしまったんだけど。
こういうののあとに
ゴールデンカムイ」のクマバトルシーン読んだら

youngjump.jp「クマと出くわしたらどうしよう」妄想に
とりつかれて 数ヶ月は まいらされた。
あのかどを曲がったらクマがいるんじゃないかとか・・・
妄想は、この本を読むまで解消できなかった。

www.chikumashobo.co.jp

・・・
話がそれまくった。なぜクマの話が出てきたんだろう。
・・・
「さよなら渓谷」の話をしたいのだった。

映画を先に観た。
読み終えた直後は、映画の方が、良かったなという気が
していたんだけど、
少し考えてみて、今はなんとなく、
原作小説にもまた違った良さがあるなと思っている。

映画を観たとき、
俊介はできることなら
「幸せをつかむために一緒にいる」ように
妻との関係を進展させたいのだ、と感じた。
「不幸になるために一緒に」・・・
それで彼女の気が済むなら、いつまででもそうしよう、
最初は本当にそう考えていたんだろうけど、
やっぱり、彼女に心の平穏や幸福を感じて欲しかった。
そして、もしかしたら、そうできるかも、という気が
してきていたんだろう。
ウソの通報をした張本人が彼女と知ってから
その通報内容を事実と認めるまでの 
長い長い時間と 俊介のあの苦渋の表情は
「彼女はあくまでも、幸せになることを拒むのだ」
という事実を呑みくだすまでの 苦心と観た。

原作小説を読んでも、やはりその部分は
自分の解釈で間違いないなと思った。
というのも俊介自身にも 
「本当は、俺には、後悔と不幸の日々こそ妥当」
という気持ちがあったことが 確認できたからだ。
つまり
俺だって幸せなんて高望みは許されない男なんだから
彼女の言うとおりずっと不幸でいるべきだ、と。
彼女のかたくなな態度を「やっぱりそうだよな」と
納得できるだけのわけが、俊介の方にもあったのだ。
以下は、俊介の述懐。
「あんな事件を起こした俺を、世間は許してくれるんですよ。
 驚くほどあっさりと許してくれるんです。
 もちろん嫌な顔をする男たちもいます。
 でも、心のどこかで、俺がやってしまったことを
 許しているというか、
 理解しているのが分かるんです。
 許すことで自分が男だってことを改めて確認するみたいに。
 だから、俺も自分で自分を許そうとしました。
 許さなければ、許してくれる男たちの中に
 入れなかったんです。
 そこにしか、生きていける場所がなかったんです」
 (単行本 P175)
だが俊介は、そうやってなんとなく許されてしまう
空気感のなかに、自分を置き続けることができなかった。

この小説は 繰り返し繰り返し
男女間の、ものごとの感じかたの温度差について
また、ホモソーシャル問題について
描き出そうとしてたな。
性犯罪、子ども虐待、子ども殺しの
犯人、または被害者に対して
どんな感想を抱くかは
男性と女性で かなり差があるということ。
個人差はもちろんあるだろうが傾向として。
以下は、俊介とその妻の過去を追う
雑誌記者・渡辺のセリフだ。
「・・・取材相手が男なら、なんとなく分かるんだよ。
 <中略>自分と同じ男だって気を許してるところがあってさ、
 手加減ってわけじゃないけど、相手が何も答えなくても、
 うまい嘘ついても、どっかでそいつが何考えてんのか
 分かるような気がするんだよ。
 <中略>でも、これが女相手となると、
 本当に分かんないんだよ。なんで何も答えないのか。
 なんでそんな見え透いた嘘をつくのか。
 だから男のとき以上に、マイクを強く突っ込んじゃうんだよ。
 大勢で取り囲んでさ。男の犯罪者が謝る以上に、
 謝ってほしくなるんだよ。
 本当に苛々してくるんだ。
 殴りたいのに絶対に殴れないときみたいに」
「・・・怖かったと思うよ。そんな男たちに、
 そこで囲まれてたんだから」
 (単行本 P142~143)

これら、
男社会だとなんとなく、許してもらえる感じがあった
という俊介の述懐や
同じ男だったらなんとなくわかる部分があるんだけど
女相手だとわかんないから、わかんなくて、乱暴に
迫ってしまうんだ・・・という
渡辺のセリフは
映画にはなかった。
文章で表現する小説だからこそ書けたことだ。
このセリフを映画で役者に言わせたら
説明じみるというか 言い訳じみるというか、
とにかく映画でこれが再現されてたら・・・
セリフ聞いててうんざりしただろうな。
小説じゃないと表現できなかったであろうこの部分を 
バッサリ割愛しただけに
映画は、観るほうが想像をふくらませなくっちゃ
いけないように なったけれども、
映画「さよなら渓谷」は、それで成功していた。

記者の渡辺が、この件の真相をつきとめていくなかで
自分と妻の関係をも見つめ直すという展開は 
逆に、映画だけのものだった。
小説にはなかった。
それで良かったんじゃないかな。
なぜそうなったのかは観る者それぞれが
想像できるようになっていた。
それがしやすいようにちゃんと構成されていた。

渡辺の部下の小林(若い女性)が
「渡辺さんが加害者のことばっかり調べているから
わたしは被害者のこと調べてきましたよ」と言って
俊介の妻の過去を洗ってきたりとか。
女性の小林に、過去の事件の感想を語らせる
シーンをきちんと確保したりとか。
同じひとつのできごとを男性キャラ・女性キャラ
両方の視点で見つめる構成をキープすることで
お互いに、わからないから、わかろうとして
不器用だけど近づこうとする。そんな感じを
強調していたと思う。


渡辺の同僚は、
自分の息子が、性犯罪事件起こしたら、どう思う?
と聞かれてこう答える。
「そんなバカなことで、息子の一生がさ、
 台無しになると思うと、がっかりするよ。親としては」
(単行本 P166)
だが、
自分の娘が、性犯罪被害に遭ったら、どう思う?
との問いかけには、
「そ、そんなの、相手の男、ぶっ殺すよ」
(単行本 P166)

隣家の子どもが殺された事件が
「話の発端である」ということ以外に
この物語にとってどんな意味があるのか
映画を観ても、わからなかった。
それが わたしが原作を読むことにした理由だった。
映画でも、原作でも、結局
「母親の里美が本当に子どもを殺したのか」どうかは
厳密には、明らかにされないままだった。
「母親に殺された子」であるという属性で
あの子、「萌(めぐむ)くん」を見ることは
できないと思う。
でも、
「殺された子」であり
「死んだ子」であり
「もういない子」であり
「本来ならまだまだもっと生きられた子」であり
「目をかけられ慈しまれるべきだった存在」
・・・と
そのへんで見ることは、できるだろう。
以下は、確か映画にはなかった、俊介のセリフだ。
「・・・俺、あの子に何かしてあげられたのかな?」
「なぁ、俺たち、あの子に何かしてあげられたんじゃ
 ないかな?」
(単行本 P190)
妻は、これに答えない。

「何かしてあげられたんじゃないかな」
は、
「何かしたはずだと思うよ」ではなくて
「何かしてあげられたはずなのに、
 俺たちはできなかった/しなかったよね」
のニュアンスだとわたしは取った。
つまり、さらに言うなら
「いつかは、何かできるはず/してあげたい」だ。
先に述べたように俊介は
できることなら「幸せをつかむために一緒にいる」ように
妻との関係を進展させたかった。
でも、彼女はそう思ってないってことを知っていたから、
未来、明るい可能性、発展性を思わせるこうした言葉は
厳重に慎むべきタブーであったと思う。
映画でも、炊飯器買い替えよっか、と提案するだけで
彼女は心を閉ざしちゃうんだから。
ましてや「子ども」に関することなんて。
物語も終盤において 俊介のこのセリフは
すっごく勇気が要ったものだろうな。
一度は伝えることをあきらめたことに
思い切ってもう一度トライした。
俊介は、こう言ったのだ。

「子どもに何かしてあげようよ!」
「子どもを作ろうよ!」
家族になろうよ!」
幸せになろうよ!」

だが、妻は応えない。

もういない子どもであるところの「萌」くんは、
かき消された「春の萌し」、
立ち消えた可能性、未来、発展の象徴だ。
適切なネーミングであったのだ。