BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-「野火 Fires on the plain(2015)」-190307。

「野火 Fires on the plain」
塚本晋也 監督・製作・主演
2015年、日本

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movie.walkerplus.com


大岡昇平の小説の映画化だけど
原作を読まないで観ても
とくに問題はない。
もちろん 原作は原作でぜひ
どなたさまにも一読を
おすすめしたい。

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www.shinchosha.co.jp


本作を鑑賞したあと
原作をわたしも読み直した。
田村一等兵は戦地で病を得て
中隊から追い出されて以降、
どこの集団にも
けっきょく最後まで
所属することができない。
病院は破壊されてもういられない
一歩も歩けないというほど体は悪くない
気の弱い者を下僕のごとく使うような
イヤな人間にもなりたくない。
食べ物を誰かと奪い合うような
はずかしいことをしたくない
自分の靴がやぶれても
死体から靴をはいで失敬することは
できれば最後までしたくない
人をできれば殺したくないし
もちろん自分も死にたくない・・・
態度を決めかね ぐずぐずした結果
荒野を彷徨う羊となる。
田村はたったひとりだ。
どこにも落ち着いていられない
行けそうな場所もどこにもない
でも、死ぬこともできない・・・
しかも圧倒的な極限状況におかれたすえに、
「人間」と「人とは定義しがたい何か」との 
はざまの生き物に、決定的なかたちで、変容してしまった。
というとき
人が、はたしてどう生きていくのかという、
小説なのかもしれない。

・・・

「賛否 まっぷたつだろうな」
が 鑑賞直後の感想だった。
わたしは、すきだった。

塚本晋也監督作品が
自分はけっこう
好みなのかもしれない。

お金がなかったらしく
安っぽく見えるところが
ちょいちょい見受けられはしたが
夜の闇と光と音をつかって
かなり上手にやっていた。

「極限状況下の人肉食など
平時の環境下で紡がれた倫理によって
どうこういえる問題じゃない。それに
生きるためにやむなくしたのを
だれも責めはしない。
なのにことさらそれを扱って
戦争はむごいねとか語るのは
おおげさであり わざとらしい」
「過激なグロやスプラッタで
描写する反戦映画なんて
いまさら感があり、古い」
「きもちわるい」
「救いがない」
「ハードすぎてかえって喜劇」
市川崑版のほうがよかった」
「田村の心の変遷が描かれない」
・・・
まあ 公開当時
だいたいこんなことをいわれて
けなされたであろうことは
想像できる。
それはそれでわかるな。
わかる。
わかるけど・・・

わたし
この映画、よかった!!

映画というよりも、
「野火」の映像化というよりも、
モザイク画、
写真集、画集をながめるような
感覚で観た。
それに、「野火」というタイトルなのだが、
この映画が 原作小説と同様に
太平洋戦争末期のフィリピンを舞台とする
物語であることを示すものは
映画を観ていても、どこにもない。
いつの、どこの、何の物語なのか、
厳密には、映画を観ていてもほとんどわからないのだ。

いや、本作は
ストーリーとしては、かなり忠実に
原作を なぞっており、
この映画が、小説「野火」の映画化作品であることは
もちろんたしかだ。
このシーンは原作のあの場面だな、
あの場面を映画では入れてないんだな、
あのセリフが映画ではこうなってるんだな、
・・・ちゃんと全部わかる。
まちがいなくこの映画は、「野火」だ。

だけど描写のひとつひとつに
小説のそれとはあきらかにことなる
特異な熱がこもっていた。
映画をとおしてにじみでる
原作の熱ではなかった。
「野火」の原作はその点でいくと
また まったく別個の
ものをもっているのだ。

連続性、一貫性が多少欠けても、
ほかに(わたしのわからない)
何かの要素が足りてなくても
すべてのシーンを
今できるせいいっぱいでもって
撮りきろうとした。
それは
誠実さのようなもの
いったんとにかく絶対に
自分の手で形にするんだ、との
強い意志をつらぬいた、
そんなようなことを、
「熱」としてわたしは受け取った。

監督が感じたとおりの、
「このまま」を
焼き付けるのには今しかない
その衝動が
苛烈で爆発的な
非連続性の描写の
つみかさねとなって
あらわれたのではないだろうか。

語るべきものを胸に秘めていても、
伝える手段、効果的な言葉を持たない、
そういう人はたくさんいる。
もう年をとっていて、
伝えたくても時間も体力もないとか。
太平洋戦争の体験者などは
まさにそうだろう。
でも他者がそれを受け取って
代わりに伝える、という
やりかたがありえる。
そのときは
受け取ったことがらに
対する姿勢としてなにより
誠実であるべきだ と
わたしはおもう。
どんなに努力しても 
結果 足りなかったり
やりすぎたり、そういうことは
さして問題にならない。
罪悪なのは
「不誠実であること」
に、ほかならないのではないかな。



頭蓋骨がこなごなに砕け、
そこからあふれた脳みそが
機銃掃射からにげまどう
兵士たちによって
踏みつけられ
バシャッ、という音がする。

顔の皮膚の左半分が
眼球もろとも べろんとはがれ
アゴの下で
まさに皮一枚でつながっている。

露出した腸があふれだし
垂れ下がって地面につく。
はやくもそこにハエがたかる。
でも本人はまだ生きていて
アワアワ言っている。

けもの道の両脇に
死体や死体や死体や死体や
行軍できなくなった兵士たちが
ぎょうぎよく並んで寝ている。
歩ける兵士たちは
もうそのようなものには目もくれず
ほとんど無意識に
当たらないよう避けながら
とぼとぼと歩を進める。

「あのー、良い日になってよかったです」
のんびりとした口調で言い残し、
若い兵士が、手榴弾で自決する。

米軍の捕虜捜索のジープに
現地女性が乗せられている。
道中で発見されて、
米軍に保護されたのだろうが、
彼女はそれまでに、
なかば暴徒と化した日本兵によって
よほどの目にあわされたと見える。
白旗ふって車に走り寄る日本兵
人間ともおもえないような声で
ギャーギャー叫びながら
機関銃でハチの巣に。
米兵が「NO!」と叫んで
必死に制止しようとしている。

廃墟と化した教会堂で
現地の恋人たちが愛しあう。
その外には
何十もの日本兵の死体が
つみあげられている。

人差し指ほどもない
たった1本のちいさなイモを、
上官と部下とが血眼で奪い合う。

餓鬼さながらにやせた
田村と永松が
岩場につきさした銃剣を
相手よりも一瞬でも早く
とりにいこうと走る姿は 
命の奪い合いにもかかわらず
「ビーチフラッグ」ゲーム
のようだ。

これらのエピソードはどれも
前後で連続などはしてない。
メッセージを持たされている
わけでもおそらくない。
一貫していることが何かあるとすれば
花も雨も沢の水も、砂も樹々も
風景は常に美しいのに
人間だけがきたならしくて、
しかも激しく損なわれていく
ということだけだった。
だけど、鮮烈だ。
描写として、すさまじいまでに。

それ以上に、でも、
何が必要だろうか。


原作小説において
田村はクリスチャン(棄教者)だ。
抑えがたく暴れる生存本能と
あわい信仰のうずき
飢餓と理知とのはざまで
彼は激しく葛藤することになる。
だけど、映画では
田村の心の動きはほとんど描かれない。
そもそもキリスト教を信仰しているのかどうか、
それを示す描写さえも排されている。
田村の思考や感情を
説明しているシーンが
ほとんどないので
彼の心のうつりかわりを
おしはかることは
普通に観ていたらかなりむずかしい。
しかしながら、
朽ちた教会にしのびこむ
シーンはよかった。
彼は 
まるで「悪さ」をしたことが
(神さまに)バレないか内心びくびくしつつ
必死につっぱって平静をよそおう 
少年のようだった。
祭壇との距離感が 絶妙なのだ。

耳や首のところに巨大なウジがわいた
死体を見下ろして
「やはり(自分も)こうなる運命か・・・」
とつぶやく田村。
しかし
死んでいるとおもわれたその兵士が
「ああ??」と凄んできたので
田村はおもわずたじろぐ。
このシーンはわたしに
田村の精神の危機を知らせてきた気がする。
狂い始めている。
ちょうどこのあたりから、田村のなかで
現実と幻想の区別がぼやけてくることが
あとで考えるとよくわかる。

兵士はやっぱり
死んでいたかもしれない。


※もっとも、たしか原作小説では
このシーンにあたる場面は
水たまりにつっぷして倒れている兵卒をみて
「おれもそのうちこうなるのかな」と
誰かが言ったところ
てっきり死んでいると思われたその兵が
「何っ!!」と怒って起き上がる、という
流れだったおぼえがある。
「おれもそのうちこうなるのかな」は
田村の言葉ではなかった。



田村は 復員し
妻との平穏な生活をとりもどす。
しかし、その心に
安息のときがおとずれることは
もうない。
彼は変わってしまった。
もう元には戻れないのだ。

田村にとって、いまや
「食事」の時間は
苦しいものでしかないようだ。
彼は食事をする姿を
どうも、妻にも見せたがらないらしい。
妻は、何しろ、見せてもらえないので、
なぜ夫がそんなにも見られることを嫌がるのか、
一人で何をしているのか、
はっきりとは知らないでいる。
しかし、ある日、妻は、夫の「食事」を
目撃してしまう。

田村は、体を激しく
上下、前後に振りたてる。
一般的な、人間の日常の動作の
何にもそれは似ていないが
あえてなにかにたとえるなら、
呪術、祈祷・・・とか。
そう、田村は、食事に箸をつけるまえに、
拝んでいた。
何十回と 狂おしく、
なにものかに届けようとして。
上半身全体を力いっぱいこわばらせ、
臍にむかって集約させるように
ちぢこまらせている。
組んだ両手をシェイカーのように振る。
手を上下に振るときの、きぬずれと
両の手をあわせてさするような音が
ちいさく 交互に響く。
キリスト教式に手のひらを組むか
仏式に合掌してこすりあわせるか
しているのだろう。
つまり宗教的な行為だとしても
拝む神なんかは 何でもいいのだ。
この動作は
不安神経症のように
いつまでもとめどなくつづく。

田村は、そうしてからでなければ
食事をすることができないようなのだ。

やがて、なんとか箸をとる田村。
しかし、
ものすごい速さで
かきこんで おしまいだ。
食事という作業を
「だれにも(神にも?)
知られないうちに
一刻も早く終わらせたい」
とでもいうかのように。

田村のようすを見つめる妻の
微妙な表情の変化が美しいとおもう。
推測だけれども
この映画の設定において 
おそらく田村は普段から、
食事する姿を見られたがらないどころか
食べることそれ自体をしぶっているのかも。
だとすれば妻は、夫がちっとも食べないので、
心配に違いない。

だから妻は 夫の食事を盗み見し始めた時、
まず、夫がお膳を引き寄せたのを見て
かすかに安堵した表情をうかべる。
「あ、食べようとしているわ、よかった」
というかんじだろうか。
すこし目元がゆるんだように見える。
微笑のように見えなくもない。

しかし、夫は、先述したような
およそこれから食事をしようという時に
人がするものとは言いがたい奇矯な行動を取る。
妻の表情は、またたくまに凍り付く。
※そもそもお膳を引き寄せるとき
位置的に彼は体を横に向けたので
背後にあたる部屋の入口に
妻が立ってみていることに
気づいてもよかったはずなのだ。
見られたくない姿を
いままさに見られようとしているのに
田村はそれでも、妻の存在に気づかない。
彼はこれから 
(本当はできればやりたくない一方で)
どうしてもやらざるをえない、「食事」に
精神のすべてを集中している、
だから背後に妻がいて見ていても、気づかない、
ということなんだろう。

田村のおかしな行為を目撃した妻は、
かなり動揺した表情をみせる。
だが、さすがというのか
「この人、精神を病んでいるのかもしれない。
病院に連れて行かなくちゃ」
とか言ったような解釈を、すべて、
いったんすばやく脇におく。
夫の心の中に、ああでもしなければ
とても生きていられない、というような、
「何か」が巣食っているらしい・・・
そう 直感したのかもしれない。
ひそめていた眉をひらき
「見てしまったからには、見とどけなくては」と
覚悟を決めたようすをうかがわせるのだ。

田村の「食前の儀式」は
このわたしにも
彼の心に開いた巨大な穴の
深さ暗さをつたえてくる。