小学校2年生のときのこと、体育の授業で、跳び箱・・・5段だったか4段だったかの・・・にトライして失敗。
跳び箱から転落、右ヒジを骨折した。
骨が一部、外に出ちゃってたと聞いている。
いたた!
子どものことであるし、ショックすぎたためか、記憶がゴッソリとんでしまっている。
どんな痛みだったかも、血がでてたかどうかも、周囲の状況も、病院にどうやって行ったのかも、病院でどのような処置をうけてどんなきもちで入院生活をすごしていたかも、あれに関することで実感のある記憶はひとつとてない。
あとあとになって思いが至ったことがある。
わたしなどよりも、あの場でいっしょにいた同級生たちのほうが、よほどこわいもの、忘れたくても忘れられないようなものをみただろうということだ。
かわいそうなことをした。
久しぶりに登校したとき、教室でみんなのまえであいさつした。
まだ自分でできないことがあるとおもうからそういうときは手伝ってねとみんなにあいさつしなさいと、事前に親からいわれていた。
わたしははずかしがって実際にみんなのまえに立ったらそれすらまともに言えなかった。
だができないことがあったら手伝ってね・・・なんて、ゴミほどどうでもいい。
そんなことよりなによりも、みんなにわびるべきだった。
あの体育の授業ではびっくりさせてほんとうにごめんね、このとおり元気になったからもう心配しないで、できれば忘れてしまってねと、いいたかった。
こわいものを見せといて自分はなにも覚えてないのだ。
同級生たちにわるいことをした。当時は気づいてなかった。わたしはかんがえなしだ。
もう、でも大人になった。
同級生がすっかり忘れてくれているといいのだが。
中学校にあがった時点では、まだ、当時のことを忘れてない元同級生がいた。
野球部の男の子だった。
「あのときはマジでびびった。すごい音がして、みたらおまえが倒れてて、わんわん泣いてて、先生がまっさおな顔しておまえのことおんぶして走っていって、おれら体育館に置いてかれて、マットが血だらけ」と克明に話してた。
あの子も忘れているといいのだが。
あと担任の先生も。
どんくさい生徒をうけもったばっかりにとんだ災難だ。
男の先生で、のちに家に来て、わたしと両親に泣きながら土下座してくれたのをおぼえている。
学校に行ける程度まで治るのにたしか1ヶ月か、もうちょっとか、かかった。
骨が皮膚をつきやぶって露出しちゃうなんて、すごく重大なケガ、時間がかかるケガというかんじがするが、
イメージほどじゃないようだ。
そんなにずっと入院したり学校をやすんだりした覚えはない。
記憶違いがあったとしてもせいぜい学校を休んだのは2ヶ月ってところだ。
考えてみれば、どうするといったって、血がでてたら止めて、骨をついで、破れたところや切れたところを縫い合わせて閉じて、動かないように固めて、あとはおとなしくしているだけだ。
命に別状はない。
ところで、
骨折は、治りかけ、つながりかけでも、もう意外と、ちょっと動かしたりできる。
わたしはそれを知ってしまったために失敗した。
骨を傷めた場合、いまはいろんな固定のしかたがあるみたいだが、
わたしのときは
石膏みたいなもののギブスでガチガチに塗り固めるやつだった(はずすときは電ノコみたいなすごい音がでる刃物をじかに当てて切り分ける。おっかないとか、ちびるとか、そんななまやさしいもんじゃない。麻酔で眠らせてもらえるわけでもない。たまったものじゃない。ギブス除去のときの記憶も、完全にとんでいる。)。
石膏のギブスのなかは、こんな話をするのはどうかとはおもうが、
・・・すごくかゆかった。
はずせないから、洗えないのだ。
これにはまいった。
1週間で、イヤになった。
20日くらいも経つと、ギブスをつけたままモジモジと中身を動かすようになった。
もし治ってなかったら、動かしたら痛いだろうな。治ってるかどうかはお医者さんが判断することだ。動かすことでせっかく治ってきていたのがだいなしになるかもしれない。そんなことを考えて、最初は動かすのを思い止まろうとした。
だが、腕がほんとにかゆくて。
ちょっとだけピクッと動かしてみた。すると、ジンジンするようなかんじはあったが痛みはなかった。
それに気づくと味をしめた。
モジモジやっても腕はギブスのなかであるから、かゆいところをかくことはできない。だが動かすことですこし気がまぎれたかなという覚えがある。
かゆかった。すごくだ。
回復への過程で、密閉タイプのギブスから、上半分が開放されたギブスに交換された(竹筒を割ったようなかんじの細長いトレイのうえに腕を置くようなスタイルになった)。
通気がよくなったが、
これでもやっぱり、かゆかった。
ギブスに接しているところがあいかわらずかゆいし気持ち悪い。
モジモジ、ごそごそと、ずっとやってた。
やがてちょっと動かすだけでなく鉛筆がもてるようになり字が書けるようになった。
着替えもトイレもなんとかひとりでできるようになった。
骨が折れてる腕を、動かすことによって。
最初はそれをみて親も怒った。お医者さんがいいというまで動かすなといわれただろう、と。
でもじきにうるさくいわれなくなった。
動かすなというのに動かすのは動かせるからであり、つまり元気になってきた証拠だからと、親にしてみれば安心できたのだろう。
身の回りの介助をするのもたいへんだったろうし。
わたしもいちいち頼んでやってもらうのはほんとうにたまらなくいやだった。
かゆかった。そして人に世話をたのむのがしんどかった。
とどのつまり治りかけの腕を動かしまくった理由はそれだ。
はたして腕は治った。
だがギプスをはずして みてみると
変なふうに曲がったかたちでつながってしまってた。
使ってなかったぶん、左腕にくらべて枯れ枝よろしく細くなっていた。じつにわれながら、言いようもなく気持ち悪い右腕がそこにあった。
衝撃をうけた。
ふつうにしているぶんには、見た目にはわからない。腕をまっすぐのばしてみると、わかる。
ヒジを境に、腕がかなりヤバイ方向に、異形といえなくもない角度をつけて、曲がっている。
治りかけのときに調子にのって動かしてはいけない理由はこういうことだったわけだ。
でもなんともない。
ふつうに使える。
ふつう以上には使えない。
筋肉や腱も仲良く変なふうに曲がっている。
するとどうなるかというと、いかなるシステムの不具合か知らないが、「脱力」がむずかしい。
意識するとひきつれるような違和感がでて、つらい。
力をぬくとはどういうことか、右腕だけが忘れたかんじがする。
脱力に難があるとどういうときこまるかというと、
スネアドラムを叩くときとかだ。
小太鼓だ。
打楽器の学習は、腕の力をぬくことを覚えることからはじまる。
中学生になり吹奏楽部にはいったわたしはスネアドラムにすごく憧れて打楽器担当を希望し、それはめでたくかなえられたんだけど
そんなわけだから打楽器はちょっとできない、と、わりとすぐに発覚した。
力がぬけないなんて考えたこともなかった。
ケガをするまでピアノをならってたが、
ピアノの先生に「あなたは脱力ができてない」なんて言われたことなかった。
腱や筋肉の連結がおかしなぐあいに仕上がったので「力を抜け」という頭からの指令が腕にうまくつたわらなくなったっぽい、とのちに判明した。
まあしょうがない
生来どんくさくて不器用だ。
腕が健康でも早晩お払い箱になった気がする。
吹奏楽における打楽器は、打楽器用のスペースにいろんな楽器を配置してあっちこっちいったりきたりして演奏する。演奏技術だけじゃなく、段取りを覚えて効率よく行動するとか、チームワークとかそういうこともとてもだいじだ。
あと、基本、ずっと立ってなきゃいけない。
それに、いくつもある大きな楽器をかぎりある時間のなかで運んだり組み立てたり解体したりといった作業も演奏者が自分でやる。体力もだいじだ。
腕が悪いうえにどんくさくてひ弱となると、もうお呼びでない。
打楽器の世界はきびしいのだ笑
話がそれた。
機能的にむずかしいとわかり、打楽器は断念せざるをえなくなった。
ちょうど部活動の顧問の先生から、管楽器への転向の要請があった。
腕のことなんか話したわけじゃないものの、ある意味タイミングというもので、転向(といっても打楽器がほんとうにすきだったからやめたくなくて、かなしかった)。
管楽器はしかしすばらしかった。さいわい、右腕が多少あれでも打楽器ほどには問題にならなかったから
大人になってもつづけることができた。
打楽器ならばつづけられなかった。むりしてやってもつらくなったろう。できないのだから。
腕が悪いんですとかいいわけしながらやるわけにいかないし意味がない。
自分がいくらやりたくても、どこの楽団でもものの役にたたなかったにちがいない。
転向の経緯をめぐって、いまや、なんの屈託もない。
ところで
腕にケガをして予後がわるかったことで
こまるようになったことがじつはほかにもある。
こっちのほうが根深い問題。
毎年数回はこまらされている。
荒天、おもに台風がくる前日からすぎさった翌々日くらいまで、ヒジから下がしくしくとひどく痛む。
雨の日には古傷がうずくとかよくいわれるが、あんなふうなものだ。
小太鼓はもういい。
だけど痛いのはすごくつらい。
こまっている。
もうずっとだ。
のたうちまわる系の激痛じゃない。心が萎える、陰惨で悲壮な痛みだ。
とてもいやなものだ。
でも、痛まないようにするための有効なてだては、
手術でもうけないことには、ないと、いわれてきた。
腕が台風のとき痛むようになったそもそものところについて、自分の過失を自覚しているもので
痛みを軽くできそうな手術があるみたいだからうけさせてくれとは、ちょっと言えなかった。
床をころげまわるくらいの痛みだったら誰の目にもあきらかであるし生活にも障る。手術うけたいと言えばききいれてもらえるかもと、おもったかもしれない。
だが結局わたしはこのことを、小学校2年の事故から長年にわたり治療をしてくださり、予後をみてくれた、大学病院のお医者さんはおろか
家族などにもいっさい話さなかった。
ま~そんなもんだろう。
高校生のとき、
痛みをやわらげる目的ではなかったのだが、
必要が生じて、かつて折った部分にまつわる手術をうけた。
これでうまいこと痛みも消えてくれないかなとひそかにおもったが、
はかない願いだった。
近所の接骨院の先生だけは事情を把握してくれている。
脱力ができないわけを解明してくれたのはこの先生だった。
痛みがでたら先生のところにかけこむ。いつも、薬をいれた「腕専用の超音波お風呂(そんなものがある!)」で腕をゆっくりあたためてかなりらくにしてくれる。
いまだったら医療がすすんでいるから手術をうけたらほんとうに楽になるかもよと、数年前から、すすめられるようになっている。
なおるもんならそりゃ治したい。が、うけたらぜったい治るわけじゃないらしい。だったらいいやともおもう。
いまは大人だし過去の失敗があるから手術後ちゃんとなおるまで意志の力で安静にしていられる、
とはおもわない。
たぶんしょうこりもなくムチャをしてしまうとおもう。
1日だってもたない。
性格が変わってないからだ、しんぼうがきかず、人を頼るのがドヘタという性格が。
まえより悪くなる予感しかしない。
ふつうに使うこともできなくなったらこまる。やめたほうがいいだろうなと。
ペンを持つことはできる。
打楽器はできないけど管楽器はできる。
それでいいんじゃないかとおもう。
見ため的に、よくみるとかなりヤバイ形状をしてることも、じつは言うほど気にしてない。よくみなければいいんだから。
痛むことさえなくなってくれれば最高なんだがなあ。台風がおおい季節などはとても気が重い。
2個も、台風がやってくる。
気晴らしに書いてみたものだ。
パソコンがシッカリとこわれた。
古い機種だからもう直せないから新しいの買ってくれと。
まあそうだろうな。
しかたがないとおもう。
パソコンを使わないとできないことはすべてできない。
スマホ持ってないし。
でもそんなに困ってない。
あれば便利なのになとはおもう。
たいしたことやってないくせにパソコンのまえにずいぶん長時間座ってたことに、いま気づかされている。
パソコンのまえに座ってた時間を、ほかのことに使ってみている。
紙の本で大森望さん責任編集のSF小説のアンソロジーを読んでみたり。
大森望さんの名前をどこかでみたなとおもってた。
テッド・チャンだとおもう。
「あなたの人生の物語」(「メッセージ」という邦題で映画化されている)の作者の。
テッド・チャンが、「ネイチャー」みたいな自然科学系雑誌にだけ発表した短編小説を翻訳したのがたしか大森望さんだった。
名前をみた覚えがある。
なにかをかんちがいしているかもしれないがテッド・チャンと大森望さんに関係があることはまちがいないとおもう。
「あなたの人生の物語」も「メッセージ」も傑作だった。
大森望さんの責任編集のアンソロジーはおもしろい。
小林泰三さんもだがほかの作家さんの収録作品もみんな傑作だ。
「サイエンスフィクション」の「サ」を聞いただけで生きた梅干しみたいな顔になるこのわたしでさえおもしろいと感じる。
作家さんたちもすごいが大森望さんもすごい。
ただ、この本1冊読むのにもう3日くらいかかっている。
読むのがすごく遅くなってかなしい。
こんなことになり、残念だ。
いちばんはやくたくさん読めていたときの半分程度でもいいから
とりもどしたい。