BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

2015年版アニメ-『うしおととら』。-180804。

アニメ『うしおととら』(2015年版)を
観てみている。
原作もアニメもきれいに完結している。
安心して観られる。
すごくたのしんでいる。

混沌としているところ
あっちこっちに手をだして
いろんなことをやりたがっているところが
まさに原作の印象そのままだ。

獣の槍が 
うしおの意思を読んだかのように 
ひとりでに動くところなど
描きかたによっては 
いくらでも劇的にできそうなシーンが
あまり深刻に扱われていない。
考えてみれば原作でもそうだった。
描きたいところは、(意外にも、そして「必ずしも」)
そこじゃない、ということなのだ。
だが うしおの怒りとそれに感応する槍のシーンが
原作よりもはるかに時間をつかって重く描かれるところが
逆にうまいと感じる。
わたしは原作を読んだときは、そういうことなんだと
いまひとつわかってなかったような気がする。
アニメを観て、かえって理解した。

アニメが放送されていた当時、
古いマンガを いまアニメ化するのにさいして生じる
いろんな問題・・・ 
つまり登場人物たちのファッションとか言葉遣い
連載当時はなかったけど いまのアニメにまったく
登場させないのは 不自然とおもわれるモノ
(携帯電話とか)をどう扱うか・・・について
いろいろ とりざたされていたことはおぼえている。

たしかに
うしおや真由子、麻子の服装はダサいというか古い。
制服のスカートは長すぎるし、
ワルどものリーゼント短ランボンタンは化石級だ。
うしおの言葉遣いもなんだかちょっとふるくさい。
というか うしおのような心映えの少年じたいが
いまどきおそらく 絶滅している。

だがファッションとかそういうのは、
全体からみると、些末も些末な問題だ。
きっとおおくの視聴者が、回をかさねるごとに
そうしたちっぽけなことを忘れ、
アニメにのめりこんで いったんじゃないだろうか。

携帯電話とかは しれっと取り入れられ 
けっこう活用されている。
スマホでなくフィーチャーフォンどまりな所に、
作り手側の人間らしい葛藤の痕跡が感じられる)
うしおの家に 液晶薄型テレビが
さりげなく標準導入されているところも
なかなか好ましい。
とらによってブラウン管テレビが破壊され
液晶薄型に買い替え・・・みたいなふうに
わざとらしく されなくてよかった。

うしおのような 少年は・・・
たしかにいないとおもうが
連載当時もおそらく いなかった。
いなかったけれども 求められたのだし、愛された。
いまでもそうだろう。
だから2015年にもなってアニメ化され、
しかも受け入れられたんだろう。

あのマンガは、ものすごかった。
いいたいこと、やりたいことが
いやというほどたくさん詰め込まれた物語だった。
でも、不思議なほど、
なにがなんだかわからなくは なっていなかった。
そこがすごかった。
ひとつのことを伝えたいだけなのにもかかわらず
力量不足とか編集部の圧力でとかそういうので 
なかなかうまく描けなかったんです
といったような、ものではなかった。
ほんとうに いいたいことやりたいことがたくさんあり、
それを全部心ゆくまで 
並大抵でない力あるマンガ家がやった結果
ああなった、というかんじだった。
どの要素も、捨てがたくぎらぎらと輝き、
小さなかけらもするどくとんがっていた。
情け容赦もなく心につきささった。
胸のなかにのこっているシーンがたくさんある。
あのようなマンガはなかなかない。

2015年版『うしおととら』の製作者陣は
あのマンガがどういうものであったかを
ちゃんとのみこんでいる。観ているとそれがわかる。
わたしはマンガからくらわされたあの痛みを、あの感動を
たぶんこのまま観ていけばアニメで
また しこたま 味わわされるとおもう。