足を傷めているし 天気もやや荒れていたから
ここ2日は遠出をせずにおいた。
本を読んですごした。
ゲド戦記で涙ぐんだ。
受講中の
シュタイナー講座のテキストになっている、
「教育の基礎としての一般人間学」「自由の哲学」にくわえて
「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」も
読んでみている。
たびたび意識がとおのく。
でもあきらめることじゃない。
自由の哲学だってあんなに意味不明だったのに
けっこう入ってくるようになった。
成長する。大人になる。ときを過ごす。
それだけで 読めなかった本が読めるようになることがある。
わからないのはバカだからじゃない。
成長してない。大人になってない。ときを過ごしてないからだ。
受け売りだけど。
↓
さいきんもそういうのがあった。北一輝。
学生時代、学習塾の先生がかしてくださった
「日本改造法案大綱」、理解できなかった。まったく。
先生は読めるとおもったからすすめてくれたのだろうに
「わかりませんでした・・・」と本をおかえしし はずかしかった。
何十回となくリトライし昨今、入ってきた。
北一輝が活動したころの世界情勢 米・英・中・印
政党政治 派閥の興亡 軍部と天皇
高校の社会科の資料集で 自分なりの感想をもてるくらいまで
(「二・ニ六事件は 将校さんたちみんなよかれとおもってがんばったのに
死刑になってかわいそう」とか(^^))
のみこみなおしてから読んでいったら 話がちがってきた。
書はわたしのためにあるのではない。
内容を理解するために努めて接近を試みる手もある。
言ってもしょせんは書ともいえ、気負うのもどうか・・・。
だがすくなくとも やる気をだすのは悪いことじゃない。
理解の方法はいくつもあり、さっき言ったように、
人としての成熟度やタイミングもおおきい。