BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

そもさん-3-180423。

「仕事と遊び」「働くことと余暇」
だれに教わったわけでもないのに、
そんなふうにセットでとらえる思考のありかたはおそらく、
仕事、働くことがまずあって、それから生まれたものではないか。
働くことがうまくいくように、
より生産できるように、より利益があげられるように、
心と体の疲れをおとし、パワーを充電するために、
遊び、余暇をちゃんととろう。そう考えられたからこそ
仕事と遊び、働くことと余暇という、セット思考が生まれた。
遊ぶため休息するために疲れることが必要だから働こう、
というふうには、どうしたってならない。不自然だ。

働くことがまず一番、働くことが生活の中心、
それが社会なんじゃないだろうか。
すくなくともわたしが住むこの社会は。
「遊び社会」ではどう考えてもない。
労働社会…労働至上社会?

でも、その考えかたはもう、案外古いのかなとおもう。

わたしにはワーカホリックの傾向がまちがいなくあった。
雑誌編集などという、電撃的な刺激にみちた仕事を、 
まえと同程度の重さで、もしももう一度始めたら、
きっとものの3時間で、ワーカホリック状態に逆戻りだろう。
(薬物依存みたいなこと言っているが。やりたいなあ。編集!)
危なさを感じるけれど、でも、そんな自分でもいまはわかる。
仕事があって余暇がある、いい仕事のためにいい余暇を。
とかいったような、両者をくっきりわける…
いや、仕事と余暇が対比するまったくべつのもの、
みたいに考えることはもう社会の実態に、案外あわない。
わたしでも気づいているから、そういうもんじゃないって。

その労働って意味あるの?
不利益をこそ積極的に生産してない?
みたいな労働がある一方で
なんにもしてないようにみえて
確実に何かを生んでる、
みたいな余暇もあるようにおもう。
編集の仕事は死ぬほどきついが心がわきたつほど楽しかった。
そこにいるだけでしんどい余暇が、うんざりするほど今はある。

わたしは働くことを…つまり生きることを?もっとゆるく、
もっとやわらかく考えることを自分に許すべきなのかも。
許すというか、いや…それはむしろ いままでよりももっと
ある意味でしんどいところにいくことなのかもしれないけど、
でも、求めるものはそこにこそあるのではないかと。

楽しいこと、向いていることだけやって暮らしたいと
考えることに、罪悪感をおぼえたくない。

楽しいことだけやって生きて、なにがいけない。
…能動的に主体的に生きて、その思いを体現している人は、
大変そうだけれど、すごくかっこいいではないか。

労働そして余暇、という単純で対比的なものの考えかたは
もうこのわたしにとってさえ、かなりジャマだ。
つらい仕事をがんばってるんだから、
(つらい仕事をがんばっているのでなければ、)
余暇くらい楽しまなければ。
(余暇をたのしむことはゆるされない。)
どっちをどうひっくり返しても
「でなければ」「しなければ」が、くっついてくる。
何かそのように感じられてならない。しんどい。

ときに、会社組織の一員としてする労働よりも、
子どもたちが縁日で大人に見守られてやる「お店やさん」のほうが
働くってこういうこと!という 原初的イメージに
きわめて近いものを生み出してはいないか。

昨年の暮れは病気だったこともあり行かなかったが
ここ数年、大みそかから元旦にかけて
山梨県のお寺に座禅をくませてもらいにいっている。
そのお寺は、地域によくひらかれている。
おまいりしに、お堂にやってくる信徒さんたちを相手に
お堂では、お寺の息子さんを含む近所の子どもたちが
「くじ屋さん」をやる。
お堂のまえで参詣者全員にもれなくくじが配られており、
お堂でそれを子どもたちに渡せば、くじの色に対応する
おみやげがもらえるのだ、メモ帳とか。
たあいのないものだ。アルバイトですらない。
小学生、せいぜい中学生だから。
でも、子どもたちは、目をきらきらさせてそれをやる。
例年、その日の朝からお寺にあつまって熱心に準備を始めるし
(お寺のなかにたえず たくさんの子どもたちがいて、
だれがどこの子だか わかったものではない。
もう何回もあのお寺におじゃましてるが、
お寺の息子はひとりだけで、
あとはみんな近所の子であると知ったのは、つい最近だ。)
ある子などは、「これはぼくの仕事なんだ!」
と、はっきり言っていた。
あ、「仕事」っておもっているんだなと、
わたしの「仕事」とずいぶんちがうもんだなあ、と
それを聞いて思ったのを、今でも覚えている。

彼らはくじ屋さんで、お金や利益を生み出さない。
でも…、では何も生み出してないのか、
だったら仕事じゃないのかというと
どうもそうとも言いたくないようななにかがあると
わたしはおもう。
べつにたいそうなことを言いたいわけじゃないけど。
彼らは全力であるし、おどろくほど楽しんでる。
信徒さんたちも、くじ屋さんでおみやげをもらって
うれしそうなのだ。
その光景をいま回想してみるにつけ、
うーん、と思わされる。