BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

『イワン・イリイチの死』考。

たしかトルストイの作家活動は、
アンナ・カレーニナ』『戦争と平和』を書いたころまでと、
イワン・イリイチの死』を書いたころからとで、
前期・後期と分けられると、学生時代に学んだ。

アンナ・カレーニナ』で
作家としての地位を確立してからしばらくたったころ、
つまり1870年代末くらいのことだが・・・、
すばらしく成功したにもかかわらず、心を深刻に病みはじめた。
この世の栄華をきわめた億万長者も 
あすの食事にことかく貧しい人も、
人もうらやむ絶世の美男美女も
生まれて死ぬまでだれにもかえりみられない路上生活者も、
みんないつかは死んで土にかえる、 
このむなしい真実に、心をわしづかみにされたようだ。
彼は、このままでは自殺するかもと、われながら危惧するほどの 
強烈なうつ状態におちいった。

トルストイは はたちになるかならないかというころに、
哲学と実生活の一致のために、との考えから 
大学をとつぜん辞めている。
東洋哲学専攻だしな。
まじめなところのある人だったからこそ、
ギチギチに思いつめてしまったのかも。

激烈に悩み苦しんだつらい時期を契機に、
トルストイは当時の社会のあらゆる 
ものの考えかた、既存の価値観を 
とにもかくにもなにもかも、まず疑ってかかるようになった。
人が・・・というか、たぶん彼自身が、
前をむいて生きていくための、
決してゆらぐことのない心の支え、真の価値・・・
そんなものを追い求め、
哲学から宗教から政治学から論理学から
ニヒリスティックな姿勢で研究しまくったという。
やがてトルストイがたどりついた(還ってきた?)のは
もともとの彼の敬虔かつ素朴な信仰・・・
神の国は心貧しい人のものとか、隣人を愛せよといったような、
シンプルなイエスさまの教えに立脚するもの、すなわち
なんの悪気もなく教会の権威をさらりと否定する、
そんな信仰であったのだ。
(だから教会や当局には彼の文学は嫌われた。
発禁になったものもあった、クロイツエルソナタとか。)
じっさいトルストイは一時、フィクションの小説を書くのを休み、
エスさまの教えの深奥に関する小論文や、 
一般民衆むけの教訓的な昔話集などを、書くのに夢中になった。
自身が獲得した宗教的真理を人びとに伝えるのに、
小説は手法としてちがうのかも、みたいなことを考えて、
より多くの人に刺さるスタイルを探ろうとしたのだろう。
こうしたトライアンドエラーのなかで、
トルストイ一流のキリスト教文学のかたちが
さだまっていったと言えるはずだ。

イワン・イリイチの死』は、
苦悩の体験や、あらゆる世俗の価値観への挑戦的な思考を経て
トルストイがひさしぶりに書いた小説だ。
それまでの彼の小説には、伏線が何本もはられ、
テーマがいくつも並立するような、複雑なつくりのものが多かったが、
後期からは、シンプルになった。
かわって、よりヘヴィーな主題と問題提起性、
読むとなぜだかおなかにこたえる重厚感
(単純にみえる描写のうちにアフォリズムやメタファーが
限界まで詰め込まれているために重厚、と感じるのだろう)
そんなものがでてきた、と評価されているようだ。

作家活動後期のトルストイがこのんであつかったのは
結婚、恋、愛、生、性、死、といった、普遍的なテーマだ。
しかし、どの作品も、目をみはるほど新しいスタイルで
でも正面切って、愚直に・・・、
そうしたテーマをくりかえしくりかえし、とりあげている。
病むほどまでに悩み苦しんだ時期はあった、
でも、何度も何度も似たことを書こうとしたのは
病的こだわりからというかんじでは決して、ない。
彼は悩みぬいたそのさきに、確実に何かをつかみ、
そして 確信して書いている。
つかんだものを人に伝えるためには 
このテーマで、このスタイルでなくちゃいけないと。

今週にはいってから3日ずっと、
イワン・イリイチの死』を読んでいた。
米川正夫版、木村彰一版、工藤精一郎版の3種類。

19世紀ロシアを舞台に、 
ひとりの裁判官の死をめぐるできごとが描かれる。

主人公のイワンは要職に就き、おもしろおかしくやっていたが、
病をえて、くるしい闘病のすえに死んでいく。

トルストイはこの物語をイワンの葬儀のところから始め、
つぎに彼の生い立ち、生きざま、そして死までの道筋をたどる、
というやりかたで書く。
主人公の死は当初、彼をみおくる同僚の視点から描かれるが、
後半からは、完全にイワン本人の視点にきりかわる。

なにがどうしてこんなことになったのかわからないが 
とにかく俺は確実に、もうすぐ死ぬ!・・・
残酷な運命とたちむかわざるをえなくなったイワンの心理が、
これでもかというほど克明に語られる。
死にゆく人の心の物語なのに、描写はぐんぐんと
疾走感を増していくようで、胸苦しい。
疾走感というと、すこしちがうのかも。
内側へ内側へ、いや、死へ、死へと、
なにか一点にギューッと凝縮していくかんじか。

死をテーマにトルストイが書いた小説は、
なにも『イワン・イリイチの死』だけではない。
しかし、ひとりの人間が死にゆくさまをこうまで一点突破的に
しかも多角的に、かつ総合的に、書いて書いて書きぬいた
(でも、みじかい。150ページもない。)
ものとして、本作は特徴的だとおもう。

今、読む側の立場でいえば、
100年以上も前の、外国が舞台の、
身分も立場も違う特定の、年上の男性の、
個人的なできごとの、物語にすぎない。
しかし、時も立場も性別もとびこえ、
重く心にうったえかけてくる作品だと、確実に言える。

本作で描かれる「死に臨む」という体験の、
圧倒的なリアリティに身ぶるいするにつけ、
作者の死生観て、いったいどんなものだったんだろうなと。
何を見てきたんだろうと。
彼の眼からは、世界はどのように見えたのかと。

ハイデガーか誰かが、
死は誰にも代われない固有の体験、
他者と完全に没交渉となる孤独な体験、
その向こうになにがあるのかがわからないいわば究極的な可能性、
でもいつ訪れるのか不明という意味で、未決定な可能性
そんなことを言っていた。
人は誰でも死ぬ、わかってはいた、
でも、このかけがえのない自分が失われる 
ということの意味を、やっぱり死に際して 
最初から考えないわけにいかない。
そんなイワンの体験を、客観的に解説するなら、
このハイデガーか誰かの言葉が近いだろう。
イワンは実際、世話をしてくれる家族やお手伝いさんがおり、
治療につぎ込める十分なお金もあり、その意味では
ちっとも孤独ではなかったんだけれど、
でも、こんなに気の毒な人がいるだろうかと
読んでいて途方にくれてしまうほど、孤独だ。

学生時代に、
『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』という映画をみた。

movie.walkerplus.com

 

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ジャクリーヌ・デュ・プレは実在した英国のチェリスト
英国ではパーセル以来の世界に誇れる天才などといわれた
すばらしい演奏家だったが、体が思うように動かなくなる病を
わずらって引退し、若くして亡くなった)
肉体的な苦痛のうえに、夫の裏切りにもなやまされ、
彼女を愛する人びとにかこまれながらも
激しい孤独のうちに死んでいった、という描かれかた。

最晩年のジャクリーヌが、
自身がかつて演奏したエルガーのコンチェルトを聴いて

www.youtube.com

ひとり号泣するシーンがあり、
それが死の床のイワンの胸の内と かさなって思い出され、
銀幕のむこうのジャクリーヌにたいしてと同様、
わたしはイワンに深く同情した。
もっとも、この映画を一緒に観に行った友人が
「ジャッキー、かわいそうだったね」と感想をのべたのに
なぜだかすなおに「うん、かわいそうだった」と言えなかった
自分のダサさも、同時に思い出されてしまうもので、 
この映画のことをふりかえるのはいつも、しんどいのだが(^^)

・・・話がそれた。
イワンは、彼が属する共同体(貴族社会)に、
事実所属している社会的な人間として、
なにひとつ困ってはいなかったし、
だれからも「お前のそれはだめだ」などとは
いわれない生活を保証されてきたはずだった。
しかし、いざ死ぬことになって、
その共同体からあっけないほどかんたんに
疎外されてしまったことを知る。
誰もほんとうには俺の恐怖や苦しみをわかってくれない。
それに、数か月前までは自身、ちょっと女の子と火遊びしたり
仲間とカードゲームをしたり、バリバリ働くことが楽しかったのに、
いまやそんなものは少しも。
ひとりぼっちで、だれとも通じ合えず、未来もない。
暗い井戸の底へと落ちていくように、死を体験するだけだ。

だが、さきほど思い出したハイデガー(?)の
言葉のように、死は、可能性でもある。
当人にとって理屈にあわぬ、苦しい「死」だけれど、
それはイワンの心のめざめの、きっかけになった。

イワンの内心の葛藤にすこしの共感もしめさず
診るだけ診てそそくさと帰る、デリカシー皆無の医師たちと
学のない、ただの下男ではあるが
素朴な親切心でイワンをいたわってくれるゲラーシム、
この対比構造は、
生きてなにげなく送る生活のなかでは
ごちゃごちゃになっている世俗的価値・・・
地位や技能、知的娯楽、セックスアピール、財産とか?
・・・が、死に臨んではじめて
いつくしみ、同情、愛といった精神的な価値と
シンプルに相対化されたさまを、表現しているのでは。

(結局こむずかしい書きかたしかできない
文章力のなさがかなしい。)つまり、
生きて元気なときには見えないたいせつなものが 
いざ死ぬときになって、ようやくきれいによりわけられ
みえてきた、といったようなこと(微妙にちがうけど)。

ゲラーシムに下の世話をしてもらったイワンが、
「おまえもこんなことをさせられるのは いやだろう、
悪いね・・、でも、自分ではできなくって」と
すなおに思いを吐露する場面は、泣ける。
死にゆくイワンのあわれな心のために、
ゲラーシムのような人物がいてくれたことは
よかった、と、つい心からほっとする。
死に際してイワンの心はかたくなで、
最後の最後になってもなかなか、すなおになれず、
それがまた彼を苦しめるのだから。

昨年暮れに入院したときのこと。
病室でいっしょになった 奥さんやおばあさんが
昼間は気丈にしていらしたのに 夜になるとしくしく泣いたり
少女のようにワガママになったりするさまを目撃し、
正直なところ引いたわたしだが、
のちに、ああして体と心の両面にわたり
子どもにかえり、人に甘えることが、癒しにつながるのかもと 
思い直したものだった。
イワンの場合、ゲラーシム相手に子どもにかえる、甘える行為をへて、
すこしずつ、ゲラーシム以外の人びとにも心を開くようになった。
自身の人生の欺瞞にきづいたショックで、
死を丸抱えにした状態でかたく心をとざしていたイワンが
いまわのきわに、「家族への思いやり」というスタイルで
めざめた心のさまを、見せてくれるのだ。

トルストイはこの物語のなかで、
「死」を想起させるシンボルと
「生(性?)」をおもわせるシンボルとを
意図してか否か、まぜこぜにちりばめているようだ。
イワンはみずからの死のプロセスを
「まるで黒い巨大な袋のなかを体ごと通過していくようだ」と
イメージしているが、これは出産か、母体回帰をおもわせるものだ。
先述の、ゲラーシムへの甘えや、身も世もなく泣く行為などは
幼児退行を連想させる。

死んでいく人の心のイメージにもかかわらず
どれも、生まれること、または原初に還っていくことを
おもわせるそれに、つうじている。
でも、基本的にトルストイには、人格的な意味での復活とか
来世みたいな感覚は、なかったらしいことがわかっている。
たぶんこれらは、イワンの心が生まれ変わるんだとか
その手のことを言いたくて提出したものではない。
書き分けがむずかしいが、
死に直面してはじめて、真の価値にきづく
その瞬間が、人生のあやまちを洗い清めてくれる、
そんなかんじのことを言いたかったのかも。
イワンは、自分の人生はどうもいろいろまちがいだったようだ、
でも自分はまもなく死ぬのだし、とりかえしがつかない、
そんなふうに嘆いていたし。

また、人との心のまじわりを避けて
ステマチックな生活を送ってきた、
むなしいイワンの半生がしつこく描かれることも特徴的だ。
イワンは、元気だったときは、そうした自分を
「俺は器用で、うまくやってる」と考えて満足していた。
でも、そんな生きかたを選んできたのは、
じつのところ怖かったからなのだ。
人との心のぶつかりあいに おのれの心をさらして傷つくのが。
あやまちをみとめるのが。
愛しているのにそういえないことを、みとめるのが。

イワンのこうした生きかたは、
誰も自分のことをわかってくれないと
心をかたく閉ざす彼の「死にかた」につうじたので、
見ていてつらかった。
しかし、イワンは最終的には心を解き放った。
恐怖や痛みのさなかにあって
こりかたまった心からめざめることこそが
たぶんトルストイの言おうとした「死を体験することの意味」だ。
死ぬときになって初めて、なんて、かなしいが。