BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

手記-其の拾漆(仮題)-パワーハラスメントを受けたと自覚するまで。自覚したわけ。

「上司にパワーハラスメントをうけた」と
自分が認識していることを 受け入れるのに 
けっこう時間がかかったほうだとおもう。
ぼーっとしてて あんまり自覚的に生きてないっていうのも
関係しているんだろうけれど(^^)。

どんな思考の道筋をたどって、その自覚をえるにいたったか、
はっきりと わかっているわけじゃない。が、
こういうことと、こういうこととがあり、
それがこんなかんじに結びついて、だんだん
パワーハラスメントを受けたのだ、と認めよう」
という考えに 仕上がっていったんじゃないかな、
的な 話くらいは、できそうだ。


約1か月間にわたった 上司の叱責が
いまでも 忘れられない。

退院後まもなく、
きかんしゃトーマスプラレールの走行音と似た音を聞くと、
つらかった11月の職場についての
短い「フラッシュバック」を体験したのち 
悪くすると失神、という
迷惑千万な「後遺症」に悩まされるようになり、
そして現在にいたる。
トーマス的な音を聞かずとも、
なんでもないときに突然(この場合、もっと大型で時間も長い)
「フラッシュバック」を体験することもある。

困っている。
目にみえるし肌にも感じる体験なのだが
なんだかわからないが 耳にいちばん、くる。
耳、音がいちばん気になる。
気になってしょうがない。
終わってもずっと耳に残る。
耳元で 上司の怒鳴り声が
臨場感たっぷりに響き 恐怖以外のなにものでもない。

フラッシュバックについてだが、
かつて初めて これに悩まされた時期に、
ネット上で自分なりに情報をあつめ、調べたことがあった。

それらの解説文やらを読んだだけだと、
「ふーん、そうなんだ~。
人間の心の動きってのはふしぎだね。
でも、これのなにが、そんなに大変なものだというのだろう。
ただ過去にひきもどされたようなきもちになって、怖いだけ。
しかも、これが現実じゃないってこと、頭ではわかっているんだよね。
それなら、なにがそんなに苦しいんだろう。」
という気持ちになる。
当事者のわたしでもだ。
だが、
じっさいに体験すると わかる。
追体験をしいられているときの わたしの心を みなさんに
どんな形でもお見せすることができないのが ほんとに残念だ。
見ればわかってもらえると、確信するのだけれど。

たかが上司に怒鳴られただけ。
たかが1か月間。
・・・ではあるのだが、
わたしにはそれは、
どうか笑わないでいただきたいのだけども、
生命の危機に直面したときに近い・・・いや、おなじくらいの
恐怖をともなうできごとだった。
死ぬんじゃないか、に ほぼ等しい、とてつもない恐怖感を
何度も何度も味わわされるというのは、
・・・うまくいえないんだけれど、
まったくひどいものだ。

人の怒声を浴びること、怒鳴られることを、
一般常識で考えられる程度をやや逸脱したレベルで
激しく「脅威」と感じる、このわたしの特質も、
すごくこのことに 悪く作用している気がする。

相手がわたしでさえなかったら、上司は、
パワーハラスメントだとかなんだとかまでは
言われずにすんだのかも。
わたしが、「怒鳴られることが大の苦手」という
性質の持ち主であったのが 
上司にとって不運だったとおもう。

あのすさまじい怒鳴り声を、
やめちまえ 死ね 消えろ などという
言葉をなげつけられたことを、
プリントアウトした原稿を叩きつけられたことを、
目の前でドアを力いっぱい閉められ、
そこに指がはさまって
左手親指の爪がつぶれたときの痛みを、
どうしても忘れられない。
だって、いまでもしょっちゅう「体験」しているんだから。

何度もくりかえされ、いつ終わるともしれない この
「フラッシュバック」は つらいものだ。
現実には、あのつらかった場所から とっくに
逃げおおせ 今やなんの心配もいらない場所に
身をおいているというのに、
心のなかでは、なにも終わってない。
まだ同じ目にあっている。
フラッシュバックを体験し、そこから戻ってくるたびに
心がどっと 老け込んだ?ようなかんじがする。

二度とあの11月のことを思い出したくない。
それさえかなえば別になにも いりはしない。
だが かなわない。
そんなつらさを、納得いかなさを感じることを、
何度も何度もくりかえすことは、
ほんとうに耐えがたい。

わたしは、じっさい、もう耐えられそうにない。

上司はすでにいないし わたしを怒鳴らない。
いまや わたしは安全なところにいる。
でも、すこしも 心がやすまらない。

また、これもまたよくないことに、
わたしは上司を尊敬していたのだ。
だからなのか このようなしうちをうけることとなったとき、
かなしかった。裏切られた、と感じた。
べつに わたしに尊敬されたからといって、
上司がそれにこたえる・・というか
わたしの敬意に見合う上司であろうと努力する義務とかは
ないとおもうのだが。
勝手に尊敬し、その幻想がやぶれたからといって勝手にかなしむ
わたしもわたしで ずいぶんだ(^^)。

・・・
心に、傷としてとくに深くきざみこまれたのは、

「自分が進行をやる本のときは
あんなに細かくいろいろやるくせに
他人の進行だと どうしてこんなにテキトーなんだ!」
という趣旨の発言(約1か月のうちで2回言われた・・)、
また
「死んじまえ」「信じられない」「やめちまえ」
「もうここにいなくていい」、

さらに
「毎回こうやって怒鳴りつけてやればいいの?」。

最後に、
これらを
「みんなが見ている前でされたこと」だ。

最初に挙げた 発言について。
わたしはこのセリフから、
「こうであってほしくなかったのに」と思うような
上司の心のなかの なにかを見たと感じ、
それにショックを受けた。
「こうであってほしくなかったのに」の
具体的な内容については 何日も考えてきた。
結果、今はわかってきている。
わたしはこの発言に、「妬み」みたいなものを
見たようにおもう。
上司が 部下であるわたしをねたむいわれなど
わたしに言わせれば ひとつもないので、
この考えにいたった自分に驚きもした。
でも、そうだと感じるのだから しかたがない。

※のちに、この考えが必ずしも間違ってたわけじゃ
なかったことが証明された。


「死んじまえ」
「信じられない」
「やめちまえ」
「もうここにいなくていい」
・・・検討するまでもない。
傷ついた。
仕事がすきであり、それだけに
全人格的に仕事に 傾注してきたのが、よくなかった。
(そういう働き方はするもんじゃないと わかってたつもりだが、
倒れるまで働いたってことは・・・やっぱりそういう
働き方をしてたのだ。)
それを 死んじまえなんて言われたものだから どうしても、
すごく 自分の存在というものにとってだいじなもの・・
おそらくは人格(または自尊心とか?)を
あたまから否定されたときの 
あのつらいきもちになってしまった。

まあ・・そうでなくても 
人格を否定するための言葉である、と考えて
ふつうにさしつかえないが。「死ね」とかは。
・・・

上司の心にひそむ ねたみみたいなものを
感じてしまったことで 上司に(勝手に)失望し、

さらに、「人格を否定された」ことによるショックで、
心がへし折れた。


「毎回こうやって怒鳴りつけてやればいいの?」。
・・・こういう言葉がでるということは つまり
部下をおもいどおりに動かす有効な手段として
「怒鳴る」を 数に入れている。
でも、「怒鳴る」は・・・「有効な手段」か?
ナシだ。あきらかだ。
現にわたしは 怒鳴られると 
心も体も動かすことができなくなる。
怒鳴られて・・それで
何がうまく 進められるようになるのか
わたしには見当もつかないよ。

怒鳴ればことが円滑に進む(から、いつもそうしよう)と
ふつうに考える上司が これからもあの職場にいつづける。
・・わたしは いなくなるからいいにしても、
職場に今もいる同僚たちは やっぱりこれからも
どうかすると怒鳴られることになるだろう、
わたしがされたように。
それを思うと 最低な気分になるよ。
なぜなら それだと 職場のことを
結局ああだこうだと 想像して案じてしまうではないか。
今も上司がだれかを怒鳴ってるとかなんとか
考えてしまうことを きっとやめられない。
それじゃあ、やっぱりわたしの苦痛は 
いつまでも消えないことになる。

上司は きわめて厳格な人物。
それに、すごく怒りっぽかった。でも、
「俺は人としてだれよりも優れてる。世界最高の男!」
とか根拠もなく思っているような人では けっしてなかった。
「しょせんは俺」
「極端な性格で コミュニケーションもうまいとは
言えない俺は この歳になったらもう 
他の会社とかではやっていけない」
・・たとえばそんなようなことを
「(ちゃんと)わかってる」フシがあった。
つまり それなりに常識的な、フツーの感覚を
持ち合わせているはずだと
信じていた、わたしは。
だから、まさか「人を従わせるのには恫喝が有効」なんて
そ~んなアナクロな考えの持ち主と 知ったときの
驚きと 失望たるや。

※「怒鳴っていいなら それが一番ラクで手っ取り早い。」
上司がほんとうにこう考えていたことも、のちに証明された。

そして最後に、
「みんなの前で怒鳴られた」。
屈辱的であった。
怒鳴られると恐怖のあまり身動きひとつとれず 口もきけなくなる
わたしであるから
怖い先生や近所のおっかないおじさんにカミナリを落とされて
ちっちゃくなってる小5男子みたいな 
みっともない自分を みんなに見られたことは・・・
言いようもなく はずかしかった。
どうしても怒鳴りたかったなら
なぜ わたしひとりのときに 思うさま 
やってくれなかったのか。
そうしてくれたら、恫喝がおわってから
わたしは だれにもみられることなく 
会社の外にでもちょっと出て、
そしてちょっと泣くなりなんなりしてから、
何食わぬ顔でまたオフィスに戻ってくる なんてことが 
もしかしたら できたんじゃないか。
イヤ、やっぱりむりだったか(^^)・・


・・・
くりかえし述べてきたことだが
たちのわるいことに わたしは
未熟者のくせして 仕事がすき。
(「バカがやる気だしても迷走しかしねえ!」は
まさにこの上司の言(^^))
そして、まずいことに 上司に敬意を抱いてた。
たぶん、だからこそ なにもかもが粉々に 打ち砕かれた。
砕かれてからの きもちの反動も 
それだけに大きかったのかも。

上司がやってないことまで やったとか 
言うつもりは ない。
上司は理由もなく怒る人じゃなかった。
わたしにはわたしの落ち度があった。
病気だったとはいえ 
報告も連絡も相談もろくろく成立させることがなく
進行であった上司の業務を滞らせた。
期日までに仕事を終えなかった。
指示を遂行しなかった。
編プロにおいて
進行に協力的でなく仕事も平気で遅れる編集者など
わたしが進行だったら チームから迷わずはずすだろう。

だが、
たとえなにを わたしがしたのだとしても、
「あそこまで言われる筋合いはなかった」。
「爪がつぶれた激痛で夜も眠れない日々を 
すごすいわれもなかった」。
それがわたしの結論だ。

時もところもかまわず失神するなどという後遺症や
「フラッシュバック」なんて くそくらえなものに
今でも悩まされるほどの 思いをさせられて、
それを「パワーハラスメントだった」と 
認識するのが まちがいだろうか?
わたしに落ち度があったら 
パワーハラスメントを受けたという認識を
持つことを あきらめなくてはならないだろうか?
ざんねんながら わたしはそうは 思わない。

もう怒鳴られたくない。
でも「フラッシュバック」で
今もくりかえし 耳元で怒鳴られ続けており、
「怒鳴られたくない」は、かなわない。
けど、せめて(自分が関知できない所の話ではあるが)
これ以上新しく、恫喝行為を 繰り返すことはやめてほしい。
過去の処理だけでも 手いっぱいなのに
今 現実に起こっている「かもしれない」ことまで 
想像して苦しみたくないのだ。
ならば、
上司に恫喝行為をやめてもらうしかない。
「怒鳴る」を 部下を従わせるための手段リストから外させる。
わたしにしたことは いけないことだったと
知ってもらわなくちゃいけない。
同じことをやれば、こうやってあとで訴えを起こされたりして
たいへんなことになるから もう決してやらない、
そう自分で決めてほしいものだ。

わたしが あんなしうちを受けて 楽しいと
おもうわけがないと、わかっていただろうに
それでも彼はやった。
ハラスメント(いやがらせ)と、わたしは受け止める。

わたしはつらいことを断ち切りたい。
これ以上はつらくなりたくない。
そのために上司に もうああいうことをしないと
言ってもらいたい。
「もうしないと約束させたんだし、今は怒鳴ってないはずだ」と
せめて 自分を納得させるくらいのことはしたい。
だから、
自分がされたことはハラスメントだったと
(あんまりそうはっきりと受け止めたくなかったが・・)
認めることにした、というのはあったと思う。
(思いたくなかったというのは 上司がそういうことをする人だと
認めたくなかったのと 上司に弓引くことになるのが
怖かった、のだろう)

信頼できるさまざまな人の意見に触れ
頭のなかに秩序なくちらばる これらの考えを
ちょっとずつ 自分なりに 整理していった。

わたしは、自分がパワーハラスメントを受けていた、
と自覚することを受け入れた。
たぶん、ただ単に
「怒鳴るのをやめてほしかった」からだ。

・・・・・・・・・・

会社をいずれ去ることを 決めるにあたって。

パワーハラスメント」=デメリット
と考えたとき
「それでもこの職場で仕事を続けたい」と
思えるほどのメリットが あるかどうかについては
入院中にも考えた。
それに類することを思えたからこそ
今までは 続けてこられた。
「激務で体を壊しがちになる」=デメリット 
「休みがとれない」=デメリット
だったのだが
それでもこのメリットは大きい、だから辞めない、
と おもえるものが、
あったのだ。
でも 心をへし折られてしまったいま
「それでもがんばりたい」なんて
考えてみたところで その意思は長続きしないと・・・
わかっていた。

この職場で働き続けることのメリットとして
唯一にして最大ともいえるのは
いつだって、
上司の文章表現能力を まぢかでみて 学べる、
ということだった。

わたしに 書く力的なものがあるとして
そいつを 上司と比べてみたとき
どの角度から検討しても わたしは彼にかなわない。
なんで自分はこういうふうに書けないのかな、
ほんとにすごいな と
何度感嘆したことか、上司の書いたものを読んで。

でも、わたしにはわたしの、
彼にはけっして書けない書き方というのが
あるんじゃないかな とおもったりする。
それに、
あの人と同じように書くことは
これからもできないにしても、
「こういうとき上司だったらどう書くだろうな~」と
考えるクセはついた。
・・・
それを獲得したから、
いまは、もうやっぱり、これでよかったのかなと。
・・・
このとおり
わたしの心のなかには、
上司にもらったものと 受けたしうち
失望と尊敬、
感謝と怒り
嫌悪と・・罪悪感
相反するきもちどうしが ふつうにいすわっていて・・
ともすれば ヤンヤヤンヤと さわぎたてる。