BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

伊藤整「文学入門」/味噌でにぎったおにぎり/時間やお金のつかいみち

先日 神保町で
伊藤整の有名な 「文学入門」の54年版が
ずいぶんお買い得におもわれるお値段で 出ていたため
購入しておいた。
つい数日前 講談社文芸文庫のを
図書館でかりてよみなおしたばかりだった。
それに、古書は 立ち読みするもので
そう気軽に 購入するものではないともおもっている。
でも、
何回も改訂されたということを きいたことがあったので
古いものも読んでみたくなった。

社会の構造や 社会でおこったできごとなどが
文学におよぼす影響、という考えかたはいいな。
そうした観点から文学を考えようとした人が
伊藤整がはじめてだったのかはわからず、
もしかしたら似たようなことを考えようとした人は
ほかにもいたのかもしれない。
しかし、理論をこれほどまでに手堅く破綻なく
構築することができたのは
伊藤整の図抜けた多読と明晰のたまものじゃないかな。

ヨーロッパなどの海外文学を積極的に引用しつつ
社会からみた文学 という相対的な視点から、
日本における、ゴリゴリの私小説の発達ぶりを 
さりげなく スマートに 擁護しているところも
おもしろいところだ。

ただ、よい意味でのアツさ、おしつけがましさみたいなものが
本作から感じられないのは 個人的にはいつもちょっとざんねんだ。
ひとことでいってしまえば、もっとグイグイきてほしい。
というかんじなのだけど(『入門』はたいていグイグイはこない
ものではあるけど。)。
社会学的な考えかたから文学の歴史を整理した 解説書、
という内容のものなのであって
文学とは畢竟どういうものか、についての
著者本人のみかた、考えかたがはっきりと論じられた
内容とはかならずしもいえないので
ちょっとものたりないのかもしれない。

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おととい、体と心のバランスがすっかりバカになった。
かなしいわけでも体調がわるいわけでも なんでもないのに
2時間あまりも 涙がながれでて止まらないという
一種の発作にちかいものにみまわれ つくづくまいった。
なんだかわからないが涙がとにかく出てしまうという
反応自体は 数か月前から続いていることのため
おどろきはしないが
これまではどんなに止まらないとおもっても数十分も
待てば 涙がひいてくれていた。
それなのに今回ばかりは・・・ほんとうにまいった。

こんなに泣くと さすがにものすごくつかれてしまう。
ようやく涙がとまったときには 全身くたくただった。
それに、ひどくかなしいきもちになった。
こんなふうにコントロールがきかないのでは
生きていけそうにない、このままやっていくことは
とてもできないと。
ずいぶん悲観的だったとはおもう、
いまはもうここまで思いつめてはいない。
が、
こんなことはもうないと いのりたい。
じつに苦しかったし みじめな気持ちだった。


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このまえ おいしいものを食べることがだいすきな友人と話していて
これまで生きてきたなかでも いちばんおいしかったとおもうものは
なにかという話題になった。
まあ話題になった、というか
この友人が おいしいものについて語るのを
聞くのがすきなので なんでもいいから話してみてほしくて
自分から話題をふってみたというわけなのだが。
これまででいちばんおいしかったとおもうもの。
わたし自身は・・・あんまりおもいつかなかったのだが
子どものころ 家で おやつによく出された
「味噌でにぎった おにぎり」がなつかしかった。あれだけは
はっきりおもいだせる、と感じた。

昨年11月と昨年暮れごろにそれぞれ病院に入院したときに
面会にきた母が なにか食べたいものがあれば作って
持ってきてやろうか というので
味噌でにぎったおにぎりを1個でいいから
作ってきてくれないかと よっぽど 頼んでみたかった。
でも、甘えているみたいでみっともないかなとおもって
やめた。
いまおもえば やっぱり頼んでみればよかったかなーと。
自分で作ればいいだろうと いうのはもっともなのだが
そういう話ではないんですよ(^^)

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だれかが 自分とすごすために 
その人生のたいせつな一部である時間を
3分でも10分でも4時間でも つかってくれる。
ほかの人とのことのために つかってもよかったはずの時間を
それでも自分をえらんで つかってくれる、
というのと、
だれかが 自分のために その人のたいせつなお金を
500円でも4000円でも20万円でもつかってくれる、
というのって似ているし、
似ているというか たぶん、同じこと。
自分の時間やお金をなににつかうか、について、
しっかりと考えている人は、きっとおおぜいいるだろう。
思慮深く賢明な人であるとおもう。
そういう人がもし 自分のために
かけがえのない時間やお金をつかってくれたなら
自分はしあわせだと 感じてよいはずだ。
その資格がある、ということについて。
思慮深い人のたいせつな人生の一部を もらいうける資格。
わたしもたぶん 
しあわせだと感じてもよかったときが
あったはずなのだが 
わからなかったし、
しあわせだと 感じることができなかった。
なぜなら、
わたしは 大人だけど、
自分の時間やお金を何にどうつかってよいか
まだ ちっともよくわからない。
人生をどうあつかえばいいかがわからないというのと
かなり似ているんじゃなかろうか。
この人生に意味があると信じることが
むずかしい。
意味がなくても生きていてよいと 
どうしても思いきることができない。
こんなふうに 無自覚に ぼーっと生きてきたら 
それがあたりまえかもしれないけど。

生きていくことが怖いと かなり強くおもっている。
「あしたもぜひ生きていたい」と 正直おもわない、
とくに、また、すくなくとも、今は。

その未熟さ、その蒙昧さ、その心のまずしさのために
ずいぶん 人にいやなおもいをさせ、その厚意を
ふみにじるようなこともした。
今さらちょっとずつではあるけれども、
自分の時間やお金をなににつかいたいのか、
この人生をどのようにあつかいたいのかを
わたしも考えていきたいとおもう。
でなければ 
人が懸命に時間やお金をつかっていることについて
きちんと理解することもできないことになるのではないか。
考えていきたい。
いやなおもいをさせたと もう思いたくない。