BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

手記-其の漆(仮題)-きかんしゃトーマスの話-2

ここから先は 書くのがすごく骨だ。

本音を言うと書きたくない。
これほどイヤだと感じるとは想像してなかった。

べつに誰に待たれているわけでもないのだし・・・
そう考えると もう 正直やめてしまいたい。
ほかの方法を探そうかなとか
考えるときも一度や二度じゃきかない。けど、
「ほかの方法を探す」ふりをするだけだ。
おもえば バカみたいな顔をして
電源の入ってないパソコンの前に
何十分も片ヒザたてて座り込んでるか
バカみたいな顔をして
真夜中に何周も何周も
自宅のまわりを歩いてみるとか
そのくらいのことしか じっさいにはしてない。
最悪だ。芸がなさすぎる。
書いてないと なんて無気力なんだわたしは。
ほっとくと 見る間に くずれていく。

そして それでは ちっともラクになれない。
わたしはラクになりたい。
もう 2017年11月に自分の心の半分を ごっそり
おきざりにしてるみたいな この 今がイヤだ。
過去なんてものはもう どこにもない。
ないものについて、ひとりいつまでも こだわっていたくない。
未来とかがないならないで、いっそそれでもいい。せめて
心のすべてを今ここにとりもどした、という感覚を得たい。
それが わたしが思う ラクになる、ということだ、
すくなくとも この件に関しては。

書くことをしないでいたら、
それがかなわないとしか なぜか思えない。
書きたいとはぜんぜんおもってないが
でも書かずにこの場所にいつづけることがもう できそうにない。
書いても 対外的には
害悪にしかならないことを わかってもいるんだけど。
苦しい。
最悪だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「やめちまえ」
「ツラもみたくねえ」
「クソが。」
「死んでほしい」
「消えろ。」
「『あなたたち』の仕事は、なにもかもがくだらない」
「言っておくけどこれは 叱ってるとか
注意してるとかじゃないから。ただ自分の
『あなたたち』みたいな存在へのいらだちを
ぶつけてるだけだから。これは ただのやつあたり。」
「どうして、これでいいとおもうの?」
「もうここにいなくていい。」
「てめーが進行をやるときはあれほど細かいとこまで
うるさく言ってるくせに なんで他人の進行だと
こんなふうになるの?」

・・・・・・・・・・・

2017年11月中旬・・・から下旬に入った頃あたりになると
こうした言葉、
・・・またはこれに準ずる言葉を投げつけられ
さすがに腕力にうったえられることはないものの
プリントアウトした原稿を投擲されたり
壁を蹴られたり
ドアを 目の前で突然力いっぱい閉められたすえに
そこに指がはさまって親指の爪が崩壊したりすると

本格的に こたえるようになってきていた。

・・・・・・・・・・・

職場でのことだ、
手帳を確認しても
始まりがいつだったか つまびらかでないのだが、
2017年10月末頃~11月初旬頃から、
わたしたちはある仕事にとりかかっていた。
これまでに一度も取り組んだことのない
種類のものであり、
そのプロジェクトのリーダーをうけもった上司も、
上司の下で仕事をするわたしたちも、
なにもかもが手探り、というかんじだった。
どうすればすこしでも効率的に作業を進めることができるか
だれにもわからなくて
とにかくやってみるしかない、とにかくただやるしかない
そんな日々がほんとうに最後まで続いたものだ。

本作りならこれまでにも何度もやってきた。
なのに
このときだけなぜ こんなにも 
苦しかったか。
そのわけとしては おそらく、

タスクが多すぎたこと、
制作期間が異様に長かったこと、
進行役の上司が説明責任を忌避しがちであったこと

が、あったかなと。

まず、「タスクが多すぎた」。

ごくごく原則的なところをいうと、
編集プロダクションの編集者は 
「誌面に掲載する商材の調達」と
「誌面に掲載する商材の撮影」については、
やらない。

「調達」は、発注元が行ってくれる場合が多い。
「撮影」は発注元が依頼するプロのカメラマンさんが
行ってくれる場合が多い。

ただし、これはほんとに原則だ。
じつにさまざまなジャンルの雑誌を手がけるし、
取り扱う話題も 記事の内容も 多種多様で、
とても十把ひとからげにはできない。
編集者が調達をすることはあるし、
撮影をしなくちゃいけないことだって、ある。

さて、くだんの仕事は、
調達と撮影 両方を編集者が 
やらなくてはならない案件だった。
それが このときの仕事がとにかくなんだか
大変で大変でどうしようもなかった理由の
ひとつだとわたしは考える。

どだい、
取り扱う商材の 点数が尋常でなく多かった。
雑誌全体で・・・
どうだろう 100ではきかない 200以上・・・
いや、数百くらいはふつうにあったとおもう。
手のひらサイズから 両手でかかえるくらいの品物まで
じつにいろんなものを紹介する必要のある雑誌だった。

わたしたち編集者は
1週間から10日ほどもかけて街を歩き回り
誌面構成に必要な 商材を買い集めていった。
(え、Amazonで買えば早いじゃない、というご意見はもっともだ。
だが仔細あって、このときはそれが ほぼ無効だった。)

そして、ひとつひとつの商材について、検証と撮影を行う。
検証とは、調達してきた品物をじっさいに使ってみて、
誌面で取り上げる価値のある
特徴的な機能などをチェックしていくことを指す。
また、
一定の条件下でテストを行ってみるなどの方法で 
競合メーカーの同種の商品と 比較し、
どちらがより優れているかなどを あぶりだしていくことだ。

口でいうのは簡単だけれど これをやるのもなかなかのこと。
なぜなら、「こういう検証を行ってください」という指示が
発注元からきているわけではない。
「どんな検証をするか、どういう誌面にするか」から
われわれ編集者が考えなくちゃならないし、
検証の内容によっては撮影の手法、
アングルなども変わってくる。
誌面の制作はお手のものでも
撮影については門外漢なのが編集者だ。
・・・だいたいおわかりいただけそうかな???

さきに「編集者は原則撮影はやらない」ともうしあげたことから
もしかしたら 想像がついたかたもいらっしゃるかもしれないが
わたしの職場には「スタジオ」がなかった。
応接室兼会議室を 一定期間 スタジオとして使うことに。
急遽、大判の白い布を用意し、ポールにつるして背景とした。
急遽、照明を購入して配置した。
職場にあるカメラといえば、
無線によるデータ転送管理にすら対応していない
旧式のコンパクトデジカメが2台。
これを、誌面制作を担当する編集者(10名弱)が交代で用い、
商材の検証と撮影を行っていった。

正味8畳くらいの広さしかない「スタジオ」に、
編集者たちが調達してきた商材が日々 山積・散乱していく。
(ごくちっちゃな品物も多々ある。ぜったい失くしそう・・・。)
背景用の白い布は、毎日たえずみんなが踏むし、
この上で作業をするので、たちまち薄汚れていった。
「カオス」という表現がぴったりというかんじの環境だった。

わたしが、自分のデスクがある部屋に行くには、間取り的に
かならずこの「スタジオ」を通過する必要があった。
この惨憺たる光景を目にすると 
出社そうそう 気分が暗くなったものだ。

・・・ここまで行ってきた説明はあんまり本筋には
関係ない気もするんだけれど、
自分が置かれていた状況、環境を
できるだけ克明に記録してみたく、
また、読んでくださるかたに できるだけ詳細に
想像してみていただきたく、
書いてみた。
そうすれば、
自分がなぜこのようなブログを書いているんだか、
わかってもらえるような気がしてきたからだ。
気のせいかもしれないけど。

つぎに、
「制作期間が異様に長かった」。
わたしがいた職場では
1冊の本の制作期間(のなかでも編集者が記事を書く期間)が
2日~どんなに長くとも5日間ほど。
短くかんじられるかもしれないが まあこんなものだ。
しかし、
くだんの案件は、事前準備(調達と撮影)
だけで1週間から10日くらいも たしかあった。
そしてラフ制作に5日くらい、
そのあと 正式な執筆用フォーマットが完成し
そこに記事を書いていく作業に
5日以上もあったような覚えがある。
もっとあったかなあ。
ともかく かなり長かった。長く感じた。
「いつまでにこれをやらなきゃいけない!」
と 激しくあせりながら
仕事をするのもほんとうに大変なことだけど
「いったいいつまでこんなことが続くのか」
と 感じながら 仕事をすることも
これはこれで・・・、と わかったしだい。

そして、
「進行役の上司が説明責任を忌避しがちであった」。
意味は、書いたとおりだ。
説明することが大嫌いだと公言する上司であり、
ときに「社内における作業の締切がいつか」という
すべての仕事の基本中の基本であるところの事項でさえ
言おうとしないことまであった。
(職場の実質的責任者である専務は、これを否定しているが。)
わたしは直接耳にしたことがないが
「とにかく機械的にやりたい。コミュニケーションをとりたくない」
「社員はみんな駒だから言うとおりに働けばそれでいい」
「意見してくる社員はいらない」
と 採用面接の場などではっきりと 口にすることもあったようだ。
そのくらい、説明やら、社員と連絡やらを したがらない。
まあたしかに 説明、連絡が
いかなるときにもぜったいに必要かといわれると
そうともいえない面もある。
口頭やメールなどでの説明が、仮になくても、
渡される執筆用フォーマットのデータがしっかりしていれば
書くことはできるし、
「何ページに〇〇について書け」と
台割(本の制作に用いられる、仕様書みたいなもの)などに
ある程度書いておいてくれれば
それを見て 言う通りにやれば すむものだ。
けど、
渡された 執筆用フォーマットのデータを見ても
「何がどれだか一目瞭然」には程遠かったし
制作においても なにを書いてほしいもこう書いてほしいも
なんら指定がなされない。
それでいて大変な「瞬間湯沸かし器」キャラであり
なんとかかんとか原稿を作って 見せたところで
それが気に入らないと烈火のごとく怒り狂う。
「説明はきらい」だから、怒る理由や改善点の説明はない。
・・・
その清明な頭脳のなかには すべての設計図、
完成ビジョンがちゃんと
あるのかもしれない。あるのだろう。
みんなが自分についてこない、
みんながバカだからだということに
なるみたいなのだが。
まあ、
バカかもしれない。たしかにわたしは。
だが言わせてほしい。
もうしわけないけど これじゃ 落ち着いて原稿作れないです。
社員は駒だから言うとおりに働けばそれでいい、ですって?
そうですか・・・とても傷つくなあ。
そんなことほんとにお思いなら たまらないな。
おひとりで仕事してくださいよ~。

「タスクが多すぎた」
「制作期間が異様に長かった」
「進行役の上司が説明責任を忌避しがちであった」

さらに言っておくと、
編集プロダクションの仕事というのはたぶん
これがデフォルトなのだが・・・
「この案件と同時進行で ほかの仕事も走っていた」。

どんなに手間をかける必要がある本でも
それだけをのんびりやるわけにはいかなかったのだ。

・・・

わたしは、
というかわたしだけでなく職場のみんなが、
軽度~中程度の 精神的な恐慌状態におかれつつ、
2017年11月を過ごしていたと 確信する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

はあ。
疲れた・・・(読者のみなさまがな!!!)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そんなこんなの状況のなか、
職場の雰囲気などは日に日に悪くなっていった。
みんなきわめてピリピリしていたし、
だれも だれかを助けることなんてできなかった。
自分の作業のことで頭がいっぱいの毎日であった。

わたしは、
メンバーのなかでおそらくもっとも肉体的に脆弱で
能力的に未熟な編集部員であった。
しかも11月初旬の段階ですでに
体調不良状態におちいっていた。
あとでわかったところによれば肺炎だったが
カゼと解釈して放置していた。
いったん病院に行かせてほしい、などと
言えたものではなかった。
なぜなら 仕事が全然進んでいなかったからだ。
体調の悪化から パフォーマンスが
低下の一途をたどっていた。
指示を聞いても頭にはいってこない。
頭にはいっても体が動かない。
できない、遅れますということを進行役の上司に
連絡することさえもできないような状態だった。
(イスから立ったら最後、倒れるんじゃないかという恐怖があったし、
わたしと上司との関係においては
「報告・連絡・相談」がもはや成立しないかんじになってた)

でも わたしはおもうんだけれど、
もし遅れます、とか
もうしわけないができそうにない、とか
伝えたとして、代替案がありえたんだろうか・・・
あの状況で???

代替案とはようするに
わたしができないぶんを誰かがやる、ということでしかない。
そんなことがはたして可能だったろうか。
わたしが退院して週明けに復帰したとき
上司に「きみの分 誰もやってないから まずそれやって」と
指示されたことからみても あきらかだ。
自分の分は自分で。
代替案などありえなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たびかさなり、しかもリカバリーできない 作業の遅れ。
遂行されない指示、
頻発するミス。
パフォーマンスが下がっていくのとちょうど 反比例するように
(ん?この表現て合っているのかな?)
上司のいらだち、怒りのボルテージはあがってゆき
(そりゃ当然と言えば当然だ。)
わたしは連日 職場のみんなのまえで
つるしあげのような形で
ひどい叱責をうけるようになっていった。
さきに挙げたセリフは それらのときに 言われたものだ。
文章にすると迫力が低減し、比較的読みやすくていいね。
じっさいにはこれらが
びっくりするくらい・・・いや 本職の・・その筋の方でも
裸足で逃げ出すくらいのすさまじい怒鳴り声で とんでくる。
あまりの恐ろしさに 新入社員のなかには
ものの数日で辞めてしまう人がいても
けっして驚くようなことではなかった。

わたし、
怒っている人と相対すること、
怒鳴り声を浴びること、
人と(おもに)負の感情をもって
ぶつかりあうことが もう、超絶、大の苦手。
そんなの誰だってイヤだよ、という話であろうが、
わたしは いい大人にしては、
苦手の程度が「正常」の範囲をやや逸脱してるように思う。
怒っている人と相対すると
怒声を浴びると どうなるか。
全身と 思考が硬直、
大量の冷汗、手指のふるえ、耳鳴り、
めまいもおこさんばかりの恐怖におぼれてしまう。
言葉をはっすることができなくなり、
(けど怒ってる人にかぎって
「言いたいことがあるなら言ってみろ!」とかいう・・)
だれかに肩をガクガクゆすってでも もらわなければ
微動だにできなくなることも。
2~3日は 体の こわばりがとれず、
精神的にも立ち直れない。

そんなわけなもので、
この状況が連日続いたことには やはりこたえた。
驚くほどのスピードで心の力が奪われていき
なにを考えることもむずかしくなっていった。

上司の発言でいちばんまいったのは
今ふりかえると なんだか意外な気がするんだけど、
「てめーが進行をやるときはあれほど細かいとこまで
うるさく言ってるくせに なんで他人の進行だと
こんなふうになるの?」
だった。
このセリフ、約1か月のうちで2回言われた・・・。
「やめちまえ」と言われたときよりも
これには強い衝撃を受けた。

というのも、わたしはこの上司を
優秀な・・・編集者としてどうかはちょっとわたしには
わからないけれども
少なくともライターとして、尊敬していた。
なにより 文章能力が卓越していた。
仕事で作った本の 見本誌が職場に届くと、
わたしはこの上司が執筆を担当したページだけを
こっそりコピーして 家に持ち帰り
何回も読み返したものだった。
「こういう言い方があった!」
「自分もこう書きたかった。なぜできなかったのか。」
スッキリと簡潔な論理 的確な表現 みちあふれる自信
想定ターゲットの属性にあわせて自在に変化する文体
いつも感動してた。
わたしの「書く力」は
どの角度から検討してみても
いまもって 上司の足もとにも およばない。
それだからこそ
あのようにいわれたのは なにかかなりショックを受けた。
たぶんだけれども、
そこに上司らしからぬ・・・ 
わたしがこの人にそうであってほしくないと思うような・・・
なにかの生の感情?みたいなものを感じたからかもしれない。
うまく説明が できないのだが。

「『あなたたちが』~」と複数形の主語で
わたしだけが叱責を受けたのもなかなかつらいことだった。
しかも おまえら、とか てめーらといった
言い方をしそうな人物であるのに
「『あなたたちが』~」と。
「『あなたたち』の仕事は、なにもかもがくだらない」
・・・
そういうふうに思われていたのかーと
ずいぶん かなしい思いがしたことを思い出す。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夜中に昏倒することとなった11月27日の昼間のこと、
わたしは友人とメッセージのやりとりをしてた。
(正直こんなやりとりをしてたことをまったく
覚えてない!!)

「もう消えたい」
「死んでしまいたい」
「何やっても怒られる」
「帰りたくても帰れない」

「そういうひどいこと言われ続けてると 心が萎縮して
〇〇(わたしの名前)自身がいなくなっちゃうよ」。

ほんとにそのとおりだ。
わたしってのは もともと主体性の弱い
ちっぽけで中身の貧弱な人間だが
いまや ちいさくなってほとんど みえなくなってた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

11月のあいだに制作にあたった雑誌では、
進行役の上司も何ページか担当していた。
そのなかで、「乾電池」の性能を検証する記事が組まれた。
どういうことかというと、
ノーブランド廉価版の乾電池4本と
パナソニックなどの大手メーカーのそれとを
「電池の持ち」の観点で比較検証するというものだった。
どの乾電池が一番「持つ」かを検証する。・・・
使ってみて、電池が切れるまでの時間を比べるしかない。
そこで導入されたのが
きかんしゃトーマス」のプラレールだった。
(でた・・・ やっと。トーマス。)
作業用デスクの天板に広げられるサイズで
シンプルな単線レールのものだった。
この子に乾電池を装填し、ただひたすらに走らせることとなったのだ。

雑誌の制作期間は ざっと2週間くらい。
その間、来る日も来る日もせっせと走るトーマス。
導入当初は「スタジオ」に置かれていたのが、
やがて上司の机の棚上に移動した。
電池が切れた瞬間を 上司がその目で確認できないと
困るからだろう。
でも、24時間無休でトーマスを監視することもできない。
上司は、出社したときにトーマスの電源をオンにし、
退社するときに オフにしていくようになった。
つまり、トーマスの走行音が聞こえる=上司が在席
トーマスの走行音が消える=上司が不在
ということになった。

「スタジオ」に隣接する部屋で仕事をしており、
何度となく上司に呼ばれてすさまじい叱責を受けたわたしは
どうなったか。

「トーマスの走行音」と「上司への恐怖心」が
完全にセットになって耳→頭にインプットされた。
ばかばかしくもなさけないことに
トーマスの走行音が聞こえるかどうかで
上司の机がある部屋に行くか行かないかを
判断したがるようになってしまい
仕事にかんしての連絡やら相談やらは
ますますとどこおるようになった。
連絡がとどこおるし 
そもそも仕事がとどこおっている。
いっそうのこと 上司の叱責はひどくなった。
(状況がなんとな~く想像していただけるかとおもう。)

上司のすさまじくエッジのきいた怒声を浴びる最中にも
トーマスは懸命に走り続けていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして11月27日のこと、わたしは職場で昏倒した。
この日はかなりめずらしいことに上司も遅くまで残って
仕事をしていた。
たしか21:15か・・・21:45くらいになってもまだ、
上司のいる部屋からトーマスの走行音が聞こえてきていたことを
覚えている。
わたしが 作り終えた原稿をいつまでたっても持ってこないので
もしかしたらそれをずっと待ちながら仕事をしてたのかもしれない。
しかしわたしは別室でその後倒れ、
次に上司と再会したのは12月に入ってからであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この2017年11月のあいだはとにかく
時間がいくらあってもたりなかった。
徹夜をしたり、職場の近所のインターネットカフェ
仮眠をしたりして 時間を捻出し、作業にあたったものだ。
しかし、疲れ切った中旬の頃、
わたしは職場から4駅ばかりのところにある友人夫妻に
助けをもとめた。

家に帰れる状態でない、
わるいけど寄宿させてくれないだろうか。

奥さんが臨月だった。
セキが運よく凪の時期にあったとはいえ絶不調の自分
よくもまあ あつかましいことをしたものだ。
これって、
道でのたれ死んだ方がよかったんじゃないか??

しかし、友人夫妻は こころよくお宅に迎え入れてくれ
川の字になって3人で眠るというあたたかい時間を提供してくれた。
家の床にねっころがってくつろぐなどということを
家族の前でしたことが 生まれてこのかた1回もないわたしは
夫妻と夜おそくまで 無意味な会話でもりあがりつつ
家族ってこういうことしていいものなんだなと
(家族じゃないんだけどわたし!)
新鮮な思いで いさせてもらったことだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

11月23日(祝日だった)には、
べつの友人夫妻に 撮影を手伝ってもらった。
あまり詳細なことを記すことができなく残念におもうが
会社の「スタジオ」ではできないたぐいの検証・撮影だったために、
都内のとある会議室をレンタルして
そこで作業を行った。
わたしはどちらかというと、
ふたりがいてくれるだけで心強いといったかんじでいたのだが、
いざやってみると とてもひとりでは完遂できない作業であり、
ふたりにはなにからなにまで手伝ってもらってしまった。
当日 会議室で集合し、
これからやろうとしていること、手伝ってほしいことの内容を
説明したとき、
奥さんのほうが「おもしろそう!はやくやろう!」と
ぴょんぴょん とびはねて満面の笑みをみせてくれた。
どれほどわたしの心がすくわれたことか。

撮影にもちいた食材があまったので
それをつかってだんなさんが 簡単なお料理を作ってくれ、
会議室のレンタル時間の残りで 
3人でお夕飯を楽しんだことが
思い出深い。
あのときはひさしぶりに
まともな固形の食事をとったことだった。

この4日後の夜にわたしの肉体はいったん強制終了した。
そうなるまでは いちおう 
できないなりに必死であった。
当時のわたしにはもうできなかったはずのことを
とりあえず精神力だけでやりきろうとしていた。
その選択は あきらかにまちがいだった。
まちがいだったということが、いまではよく理解できる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

退院した週の たしか土曜か日曜、
わたしは家の裏手のコインランドリーにでかけた。
これからしばらくはベッドで横になるときが
増えるかもしれないから
ふとんを乾燥機にかけようかなと 考えた。
稼働していた洗濯機が終了するときの音を耳にしたとき、
なにか気が遠くなるような感覚をおぼえた。
そして一瞬 眼前に職場の光景が見えた。
「あれっ。」と自分が つぶやいたことを覚えてる。
目の前がまっくら、
気づけば店内の床に倒れてた。
店内にいた父子づれがご親切に抱きかかえて起こしてくださり、
ご自分たちがすわっていたベンチをわたしにゆずってくれた。
倒れたようだった。
このことは家族には話してない。

このようなことが10日で4回ほど発生した。

病み上がりにしてはまあ かなりましなほうのつもりでいた。
ものすごく時間がかかるだろうというかんじはあったが
良くなっていかないはずがないと、
もう良くなる方向へとむかっていると おもってた。

だが家族がわたしの変化をいぶかしんだ。
なにもないところで転ぶ、
ふつうに歩いていてもあっちこっちにガツガツぶつかる、
なにか言っていることがふわふわとして、おかしい
「今??」ってところで突然寝入るかとおもえば、
夜中の3時、4時まで起きて自室でゴソゴソなにかやってる。
手洗いに立つ回数が異常、
手を洗う回数が異常。
おまえちょっと1回  医者にいけ、と。

わたしも 職場復帰するやいなや、
だめだこれは と わかるほど
自分の壊れっぷりを実感していた矢先だった。
これから仕事をまだ続けるにしても
お医者さまの診断書でももらっておけば
休みたいときに安心して休めるかもなとおもった、
よくすれば籍をおいたまま休職とか・・・。

そこで心療内科の お世話になり始めた。

カウンセラーの先生に
コインランドリーを かわぎりに
たまにきゅうに倒れるようになったと話した。

先生は、音、きかんしゃトーマスの走行音との関連を
すぐさま指摘してきた。
というのも、
本人はあんまりぴんときてないのだが
わたしはカウンセリングの最中、バカのひとつおぼえのごとく
しきりに「きかんしゃトーマスの思い出」について
話しているらしいのだ。
きかんしゃトーマスのあの音がとにかく「トラウマ」
トーマスの音が聞こえるときは上司の部屋にいきたくなかった
怒られるときトーマスの走行音が実音のなんの音かかんがえてた
電池がきれる4時間くらい前になると音が少しかわったから
もう4時間もすれば電池きれますよと上司に よほど
教えてあげようかとおもった
トーマスがうるさくってしょうがない
電源がきれてるときでも音が聞こえるような気がした

トーマス、トーマス。音、音、音。

音が記憶をゆりもどすカギになっちゃってるとのこと。

あーあ。

「これ、どうでしょう。治るっていうか・・・
いつか、倒れなくなるんでしょうかね。わたし。」

「トーマスの音にひもづけられた悪い記憶を 
なにかよい記憶で上書きすることが
できれば 変わるとおもうわ。」

あーあ。