BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

ゼンソク初心者

昨年の秋ごろからゼンソクがひどくなり

なかなかうまくコントロールできず

夜と 明け方が特にひどい。

というか昼間はウソみたいに

なんともない。

 

日によっては一睡だにできない。

 

気持ちも多分に関係してるのかなと

思う。

書いて何かを考えていると

比較的 体の苦しさを忘れていられる。

 

わたしはたしかに子どもの頃

ゼンソクがあった。

だか、とても軽いものだった。

成長するにつれ

それがもっと軽くなっていき

もう治ったと思ってた。

 

もう少しうまく付き合えるように

体調管理のしかたを学びたい。

 

まとまらない考え

考えがまとまらねえぜ・・・

今夜はあきらめて 明日仕切り直そう

最初から最後まで全部言おうとするからだめなんだ

やっぱり言いたいことはひとつに絞るしかない。

ほかのことを全部削っても
絞り込みのしかたと内容が正しければ
絞り込んだそのひとつのなかに
削ったほかのことも全部含まれると思う

寄席に行きたいんだが

今年に入ってから寄席に

めっきり行ってない

九代目雷門助六師匠は

高座の予定入ってるみたいだけど

70代だから今の状況だと 

心配だ、すごく。

寄席に行きたいけど 

ためらわれる。

師匠は無理しないで休んでいてくれても

良いと思う。

でもいつかまた必ず雷門助六師匠の落語聴きに行きたい。

元気でいて欲しい。

他ブログ更新中-『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』レビュー-200325。

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↑ 物語の核心に思いっきり触れて書いています。
読みにいらっしゃるなら、この映画を鑑賞してからか、
この映画を鑑賞する予定が今後まったくないか、の、
どちらかの時になさることをおすすめします。


わたしはこの映画が全然おもしろくなかった。
実のところ、そう感じたことを残念に思っている。
この映画になんとなく期待してたからだと思う。

今 自分が書いたこのリンク先の文章を読み返してみて、
気付いたんだけど
「時間軸の選択の誤り」と
「どの視点から語るか、の選択のまずさ」
に主要な問題を感じたんだな、つまるところ。
低俗な映画だったとか
悪質な映画だったとか言いたいのではなくて
不器用な出来だった、と言いたいのだ。
今になってやっとわかった。
マヌケだな わたし。

グザヴィエ・ドラン監督作品は
熱心なファンが多いと聞く。
この映画も・・・おそらくそうしたファンを中心に・・・
かなり好評のようだ。
だから批判するのちょっと怖気づいたことを告白する。
というか わたしもきっとこの映画のこと
良いと思うだろうなと思ってた。

もしかして自分の感覚が間違っていただけとか
観るべき所を自分が観ていなかっただけとか
物語上の事実をわたしが決定的に誤認しただけとか
いろいろなことを念のため自分なりに考えてみた。
けど やっぱ
たとえそれらの懸念が全部本当にその通りなのだとしても
わたしはこの映画が全然おもしろくなかった。
映画を観て抱いた自分の感想や 
今の自分の気持ちについてウソを書くことはしたくない。
それをやっちゃうとスっゴくあとで 自分がイヤになるんで。

ただグザヴィエ・ドラン監督の映画作品には
わたしもおおいに関心がある。
これから積極的に観ていきたい。

映画の感想-『ナイチンゲール』-200324。

ヒューマントラストシネマ渋谷に出かけて、
ナイチンゲール』という映画を観てきた。

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原題:The Nightingale
ジェニファー・ケント監督
2019年、オーストラリア

英国の植民地政策下にあった時代(19世紀)の
タスマニアを舞台に繰り広げられる物語だった。
アイルランド人のヒロインが、駐留イングランド軍の悪徳将校に
さんざん搾取され、夫と子どもまで奪われて、復讐を固く心に誓う。
だが、将校たちが立ち去ったので、
ヒロインは先住民アボリジニのビリーを案内人として雇い、
危険な原生林をかき分け進みながら、憎き仇の後を追う。

英国軍とアボリジニの人びととの間に
激しい戦争(ブラック・ウォー)が起こっていた頃の物語だ。
ヒロインが、復讐の旅の途中で、
炎上する家を見つめて泣く白人女性を目撃したり、
寝込みを襲われたらしい白人夫婦の死体を目撃したりする。
普通に歩いていてこんなにやたらと「死」に触れるのも
ヒロインが他殺死体を見ても意外と全然驚かないのも
物語の歴史的な背景をある程度知っておけば、
意味がわかってくるのだと思う。
彼らは英国軍とアボリジニの戦闘に巻き込まれたのであり
それはタスマニアに暮らす人びとにとって日常の一部に
なってしまっているのだ。
ブラック・ウォーは長きにわたって続き
争いのはてに、タスマニアアボリジニ
文字通り絶滅させられてしまったそうだ。
ナチスも、ユダヤの人びと(など)を
根絶やし目的で何百万人とも言われるほど殺したが、
ユダヤの人びと(など)は、絶滅していない。
アフリカやカンボジアなどでも大虐殺があったが、
一つの民族、思想集団、宗教的集団、社会集団が、
完全に滅びるということは起こっていない。
だがタスマニアアボリジニは本当に絶滅してしまった。

この映画の暴力描写は、質量とも過不足がないと感じた。
どこまでが、伝えるべきことを伝えるための暴力描写たりえるか、
どこからがトゥー・マッチか、
ちゃんと意識して、配分したんだろうな。
女性が強姦される場面とか容赦なく(しかも何回も)入れてきてた。
観るのがつらい場面だった。
けど、わたしは全部観た。
ドッグヴィル』(ラース・フォン・トリアー監督、2003年)や
『アレックス』(ギャスパー・ノエ監督、2003年)や
他にもいろいろな映画のなかで
女性が乱暴されたり性奴隷にされたりする場面を観てきて
どれも目を背けてしまうようなとこがあったのだが、
ナイチンゲール』に関しては
自分でも、何が違ったか良くわからないけど、ともかく全部観た。

今思うに、性暴力の内容、そのヘビーさ、
その性暴力がのちのちに及ぼす影響という意味で
『灼熱の魂』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2010年)
あたりのほうが、『ナイチンゲール』よりも
ずっとしんどかった、という感覚が心のどこかにあった気がする。
(『ナイチンゲール』が生ぬるかったと言いたいのではない。)

でも、
話が行ったり来たりしてアレなんだけど、
ナイチンゲール』の暴力描写、性暴力描写については、
「いくらなんでも、やりすぎだ」と思う人がいても、
わたしは驚かない。ひかえめに言っても、相当なものだった。
実際、わたしが観た時も、
映画がまだ続いているのに、途中で席を立って、
そのまま戻ってこなかった人が、
把握した限りでは、確か2人いた。
本人に聞いてみなくちゃ、出て行った本当の理由は
もちろんわからないけど、
暴力描写があまりにキツイのでつらくなったのかなと、
思いはした。そのくらいのものだった。
ヴァイオレンス、虐待を描写した場面という意味では
さらにさらにキツイ場面が、そのあともいっぱいあったので
途中で帰って正解だったかも。

思えばわたしも、あまりに凄惨な暴力描写のために
映画を終わりまで観ずに帰ったことが、ある。
何本かあるが、特に、今思い出すのは
三池崇史監督の『13人の刺客』(2010年)。
恐ろしくてとってもじゃないが耐えられなかった。
稲垣吾郎が、サイコな殿さまを好演しすぎていて
心底震え上がった。
「山猿の骨は硬いのう」。
四肢を切断されて舌を抜かれた上に輪姦された女性が
(彼女がされたことの詳細は忘れたが
 おおまかに、これくらいの目には遭っていたと記憶してる)
家族や住んでいた集落がどうなったか聞かれて
泣きながら口に筆をくわえ
紙に「みなごろし(にされた)」と書きつけたシーンが
もう決定的だった。とても観ていられなくなって
途中で帰った。
でも後日やっぱり観たくなってもう一回チケット買って観たなあ。
それでさらにもう一回、リピート鑑賞した覚えがある。
何をやっているんだわたしは(笑)

三池崇史の映画の話になってしまった。
なんでこうなった。

ナイチンゲール』の話に戻りたいと思う。
ここまでは 暴力描写とそれを観る人の反応の
話をしてきたと思うのだが
西欧の人、特にイングランドの人は
その意味で、この映画を観るの、つらいのかもしれない。
オーストラリアだかの映画祭で、
ナイチンゲール』が上映された時、
ムナクソ悪いものをみせてくれやがって的な
不満を口に出して叫びながら退席していった観客が
何人も出たと聞いたが、
それは多分 暴力のシーンがむごすぎるということに加えて
まあその観客が例えばイングランド人だったとしたら
自分または自分の先祖がすごく悪く描かれているような感じがして
たまらなくなった、みたいな気持ちも あったのかもしれない。
この物語のなかではいわば悪者なのだから、イングランドは。 
わたしだって反日的な内容の話の映画とか観るとすごく
つらい気持ちになるもんな。場合によっては腹も立つし。
(『ナイチンゲール』は「反英」映画ではないけど。)

差別や憎悪、
それから、自分より弱そうに見える相手を力で押さえつけて
言うことを聞かせる、
そういう人間関係の構図が、至る所にあらわれる物語だった。
まず、将校がヒロインを差別し搾取してる。
(ヒロインがアイルランド人であること、
 窃盗の前科があり流刑されてきている身であること、
 女であること、美しいことによって)
ヒロインも、アボリジニのビリーを差別してる。
ビリーも、自分たちの暮らしを踏み荒らす「白人ども」を、
イングランドアイルランドも関係なく、激しく憎んでいる。
将校は、部下たちに序列付けみたいなことをしていた。
誰かが何かヘマをしたら、さっきまでNo.2待遇だったのを
奴隷扱いに格下げとか、
子どもに銃を持たせて大人を脅させるとか
そういうことを平気でやる。
だから将校に付き従う者たちのなかで、
立場や上下関係が絶え間なく入れ替わり、変動する。
みんな、将校に気に入られないと生きていけない状況なので、
必死にご機嫌取りをする。

アイルランドイングランド
要するにイギリスじゃないの、って思うけど
ヒロインはそう思ってない。
彼女の祖国は独自の言語や文化を奪われ差別されている。
でもそういうつらい思いをさせられてきた彼女も
アボリジニをすごくナチュラルに差別していた。
汚い獣でも見るかのように。

悪徳将校のホーキンスが、自分のしたことにほんの少しでも
罪の意識を持っていてくれますようにと願ったけど、
彼にはそんなもん全く、本当に全くないことが
ハッキリと伝わってきて、いっそ清々しいほどだった。
けど彼が異常なサイコパス野郎であるとは
わたしはどうも、思えなかった。
一言で言うと彼はあまりにも寂しい人間だった。
人間が普通に生きててあんなに寂しい状態に
なることってあるのかなと思うくらい寂しい状態だった。
ホーキンスを観ていて、わたしが感じたのは、
彼がどうしようもなく悪い奴だ、ということではなく、
彼の魂が非常に荒廃している、ということだった。
彼の内面は、(そうなった原因とかきっかけはわからないが)
壊滅的に傷つき、荒んでいた。
その荒廃こそがホーキンスをして
破壊と虐待行為に走らせる力の源なのだと思った。
つまり言わば彼にとっては破壊も虐待も求愛なのだ。
それはそれでかわいそうな男だと感じる。

いろんなことを感じた映画だった。
映画レビューの別ブログの方で
近いうちもっとちゃんとまとめたい。
ここに書いたことと重複する部分が出てくるだろうが
同じ人間が書いてるので それはしょうがない。

他ブログ更新中-Netflixドラマ『FOLLOWERS』-1~3話レビュー-200322。

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なつめ/池田エライザが板チョコをバリって噛み切って
こっちをにらみつける所は
まあまあ なんか ちょっと良かったけどな。

映画の感想-『レ・ミゼラブル』-200320。

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原題:Les Misérables
ラジ・リ監督
2020年、フランス

現代のフランスはモンフェルメイユ地区
ある子どものささいな悪さがトリガーとなって
子どもたちと大人たちの間で引き起こされる
およそ2日間の悲惨な激突の顛末を描いている。
ドキュメンタリーのような感触だが、フィクション。
モンフェルメイユはパリ郊外の地区で、
この映画で描写される通り、移民や低所得者
多く暮らし、犯罪多発エリアとみなされている地域。
ヴィクトル・ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』の
重要な場面の舞台としても知られている。

子どもの悪さ、っていうのは、
モンフェルメイユの貧しい少年イッサ(イサカ)が
巡業にきていたサーカス団の拠点に忍び込んで
ライオンの子を盗んじゃった、っていうことだった。
このかわいいライオンのアカチャンが出てくるたびに、
気持ちの緊張がゆるんでしまって参ったが
(一体なんであんなキュートな存在を
 この物語に取り入れたんだ・・・
 いくらなんでもかわいすぎる・・・)
終盤30分の暴動シーンで、すっかり持ち直した。

モンフェルメイユの人たちは、警察にさえ頼れないんだな・・・

モンフェルメイユの街には「市長」と呼ばれる男がいた。
いわゆる「説明」っぽい描写があまりない映画だったので
「えっっ、この人が自治体のトップなの!?
 道端で群れてるワルどもとそんなに違うように見えないんだけど」
とか思って観ていたんだが、
あとでよくよく考えてみるにやはり彼が本当の市長であるはずはなく、
市長、というニックネームで、地域の調整役を買って出ている。
別に街の人びとが、そうしてと彼に頼んだわけではないんだろうが
まあそんな感じだと見受けた。
たぶん必要な時には彼が地域の人びとと行政との間に入る。
住民どうしがもめごとを起こした時とかに
それが金で解決できそうなら行政にサポートを頼んだり
警察沙汰になりそうなことに目をつぶってもらったり
これだけやってやるんだから、お前ら、わかってるんだろうな、的な
・・・いろいろ、そういうことをやっているんだと思う。
でも、この人物も別に地元の名士とか、そんなものではない。
少しはマシな生活をしているのかもしれないにしても、
彼も貧しい地区の貧しい住人であることに変わりはない。

物語の前半、大人どうしの争いでは、 
暴力沙汰はあまり起こらない。
牽制目的で武器やガソリンなどの物騒なものが
持ち出されることはしょっちゅうだが、
それが実際に使われることは、まずなかった。
そのかわり、男同士のメンツのぶつかりあい、
吹けば飛ぶような利権の奪い合い、
みじめったらしい不祥事隠し、それから
一種のマウンティングが積み重ねられていき
非力な子どもが、それに巻き込まれる、という構図だ。
もちろん、その子どもたちは大人と違ってみんな無垢で 
いつも笑って仲良しこよししている・・・なんてことはない。
彼らは大人のあらゆるストレスのはけ口にされている上に
子どもゆえに逃げ場がない、という苦しい状況に置かれている。
子どものコミュニティのなかでも
声の小さい子は無視され、ふみつけにされ、いじめられる。

ちょっと想像したんだけど、
もしかしたら 大人が「子ども」を見る眼そのものが
わたしの認識とは違うのかもしれないなと思った。
前にマーティン・スコセッシ監督の
ヒューゴの不思議な発明』(2011年)とかを
観た時にも 同じことを思った覚えがある。
あの映画では戦争で親を失った子どもが
鉄道の駅に寝泊まりしている設定だったと思う。
鉄道警察隊が彼らを ネズミども、とか呼ばわって
さも憎々しげに追い回したりしていた。
子どもというのは場合によっては
すごく邪険にされる存在なのだ。貧しい所の子は特に。
ジャリかゴミか、害獣のように扱われる。
子どもを、可愛がり守るべき存在、ではなくて
大人の足手まといになる未熟な存在、とかいうふうに
見なす 社会もあるのかもしれない。

終盤30分、抑圧されてきた子どもたちの逆襲が始まる。
なまはんかなものではなかった。
彼らはどう考えても殺す気で来ていた。
ヘタに生かしたら倍返しの復讐に遭うと知っていたのだろうし
殺してしまったってかまいやしない、とも思っていたんだろう。
幼いからなのか、そこは残酷だ。あれは本物の憎悪だった。
少年たちの反乱のあまりのすさまじさに、正直言うと最初は
え、警察や「市長」は確かにみんなひどいことしていたけど、
でもここまでやり返されるほど、ひどかったかな・・・
って思った。
大人たちが物理的な意味での暴力を振るうシーンが
(イッサが傷つけられたことをのぞけば)
あまりなかったせいか、
彼らのしてきたことが子どもの心にとってどれほどのものか、
多分わたしにはくみ取れていなかったんだと思う。
というか、今だけのことではないのだ。
結局それに尽きる。
何年も何年も、何世代にもわたって、
こういうことが続けられてきているわけなのだ。
あの少年たちはずっと抑えつけられてきている、
そういうことだ。

静かな怒りに燃えるイッサの表情には
「凄み」なんて言葉では言い表しきれない
何か尋常でないものを感じた。

バズの視点もおもしろかった。
彼は警察の不祥事を、ドローンで偶然撮影していたために
管轄警官たちに追われるはめになる。
上空高くから街全体をとらえるドローンの視点が、
物語に積極的に取り込まれていた。
多分、言わば「神」の視点、というものだった。
神さまが、もしいるならば、地上で行われている
この醜悪なできごとを見て、どう思うんだろうな。
やっている当人たちは、自分のしていることが
客観的にどうかなんて考える冷静さを持ち合わせていない。

バズは少年たちの反乱に直接的には参加しないが、
大人たちが助けを求めてきても部屋のドアを開けない、
という方法で「暴動に加担した」と言えると思う。
実は他の住民たちも、みんながそうだった。

ラストシーンは秀逸としか言いようがない。
ああいう一触即発の局面で、
こちらから、静かに武器をおろすことができれば、
それさえできれば、話はほんとうに簡単なんだけどな。
銃を向けて警告すればイッサがあきらめてくれる、なんて、
本気で信じているとも思えなかったけど
銃を構えない選択など思いもつかないステファンが切ない。
あの瞬間、何をイッサは思っていたんだろう。
唯一いくらかまともに構ってくれたステファンの優しさが、
憎悪の奔流へとなだれこんでいくはずの激情を
ぎりぎりの所でせき止める、壁となったのかもしれない。
今にもそれは、決壊しそうだったが。
迷っているようだった。
助けて、と言っているようでもあった。
イッサはあのあとどうしたんだろうなあ。