BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『アクト・オブ・キリング』-190625。

原題:THE ACT OF KILLING
ジョシュア・オッペンハイマー監督
2014年、英・デンマークノルウェー合作

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2時間ちょっとのものと、
未公開映像を加えて再編集したうえでのちに発表された
2時間45分くらいの「オリジナル全長版」とがあって、
わたしが観たのは後者。

わたし自身の感覚からすれば、考えられないようなことが、
カメラの前で、平気で行われる。
衝撃的だった。
例えば華僑への差別感情を隠そうともせず、
彼らの街にくりだして、平然とカツアゲをする。
(「そんなんじゃ全然足りないよ、いつもの額じゃ困るんだ。
どうしたんだ、おれとあんたの仲だろう!」。)
選挙に出るからって、街の人に小銭とかばらまきまくる。
でも、受け取る方も、もらって当然という認識だ。
とにかく基本的に、モチベーションがわかりやすく「金」。
そんなところから始まって・・・
西部劇とか「007」でやってたからというんで、
針金を人の首に巻き付けて、締め上げて殺したときのことを
再現してみせる(「こうするとあんまり血が出ないんだよ」)。
「殺人なんて、人間は今までずっとやってきたじゃないか。
俺たちのしてきたことだけ問題にするのはやめてくれよ。
殺人が罪だというなら、カインとアベルから裁判にかけろ」。

まず 悪とは何か、ってところから・・・
イヤ 
それは、ちょっと、難しすぎる。
それは他のところで じっくりとトライしたい。

だけど ・・・殺人は悪なのか。
なぜ悪なのか。

何が悪かは、それぞれの社会が決めることだと思う。
公共の福祉に反するもの、
社会規範に著しく外れ
社会規範のなかにあるものに、害なすものこそ
悪である、としたならば 
ほんとうにひとつひとつの地域、社会によって
まったく違ってくるのが、悪の基準だろう。
社会を構成するのは人であろうから
人それぞれで違う とも言える。
殺人という項目についての認識さえもおそらくは。

わたしはわたしのいる社会に照らして 
おかしいものを、おかしいと見ただけで・・・
だから 殺人者であるところの本作の登場人物たちを
わたしが糾弾したところで、で?って話だと思う。
そりゃ もう ソフトなとこで例えれば
源氏物語において光源氏が いちどきに
10人も20人もの女性とつきあってるからといって
「とんだ浮気男だ!サイテー!」と言うようなもんで
当時はそれが全然アリの時代だったのだ。言ってもしかたない。
本作の登場人物たちは
1960年代インドネシアの 彼ら自身の 社会規範にのっとって
求められたことを、ただやった。
すくなくともある一面では。
やったのだ。そう要求されたので。

わたしは当時の彼らが ハンナ・アーレントなどの言う
「思考停止」状態であったとは・・・
厳密には・・・思わない。

もう老境にさしかかった あの登場人物たちが
今さら、おのれのしたことが何であったか
とらえ直すことを迫られるなんて、
かわいそうだな。
人殺しなんかにつまらない情けをかけるなとか
殺された人たちの身にもなってみろとか
まあそうなんだけど・・・ 
でも、かわいそうだな。
背負った業が、罪の意識が重すぎて 
心おだやかな老後なんかは、とても望めないと思う。
人を殺したことがなくたって、人生はとても苦しいのに。

「やるしかなかったんだ。俺の良心がそう俺に命じた」
という言葉が 強烈に印象に残った。
わたしは、
人は、自分のしたことについて説明をするときに、
「こういう事情でそうしなくてはならなくて」
「システムがそうだったから」
「あのときはそういう時代だったから」
「上官の命令だったので」
みたいな 理由付けをおのれに許しているあいだは
ずっと、おんなじことを おんなじように
繰り返すんだろうなと思う。
とすれば、
もし、もう60年代のああいうのみたいなことを
くりかえしたくないと思った場合、
それをかなえる方法は
可能性としてひとつしか考えられない。

「自分が今こうであるのは自分のせいである。
他の何ものも、その責任を負うものではない」と
言うことができればいいのだ。
何ものとは、人だけでなく
事情、社会、システム、上官とか上司、人間関係、
自分の外にあるもので、
それが自分にそうさせた、の
「それ」に入れられるもの、全部だ。
責任の所在を他者に求めることを
終わりにしたとき、初めて
これまでとまったく違うことを、始めることができる。

でも、
「俺の良心がそう俺に命じた」
とは。