BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

登戸の事件-190529。

神奈川県川崎市の殺傷事件の報道にふれた。

神も仏もないんかいというのが最初の感想。

犯人が死んでしまったのをうけてか、
ネットユーザーを(おそらく)主とする世論において
「死にたいんだったらひとりで勝手に死ね」的な論調が
つよく見受けられることに関して、
その論調に疑義を呈する声を、今回めずらしく聞いた。
「死にたいんだったら勝手にひとりでとか
そういうこと言っちゃいかんよ」ということだ。

前から言われてきてたかもしれないが、
「あ」と、心にとまったのは初めてだ。
やっぱり目立つとこではそんなにいままで
言われてこなかったことかなとおもう。

その疑義に、わたしもおおむね賛成だ。
ネット記事へのコメントなんか、深く考えもせずにとりあえず
ぱっと書き入れることも多いのだろうし、独特のお作法、
ノリみたいなものに則り、やっていることでもあろうから、
まともに取り上げるものでないかもしれない。 だが、
それは言われてることの内容による。それに、
「そんなまじめに取りざたしないでよ、単なるネットだよ」
と のたまう自由はやはり、
それを「思う」だけでなく「言った」ということの責任を、
本人が自覚している場合に限って生じるものだ。

死にたいならひとりで勝手に・・・なんて、
まず、あんまりであるし、
いかなるシチュエーションであれ、わたしがもし言われたら、
もちろんたまらない気持ちになることだろう。
「死にたい」は、「生きたい」「助けて」である場合もあることを、
わたしは身をもって知っている。
状況、性格、それまでなにをしてきたか、
そんなものはまったく関係がないはずだ。
「生きたい」「助けて」は、
誰でも、いつでも、言っていいことだ。

「死にたいならひとりで勝手に死ね」
まあ、もっともだ。
でもそれは
自己責任てもののはき違え
および自己責任てもののゆがんだ拡大解釈
および人の道にかけはなれた利己主義
および尊厳の軽視
および人が人の道を行く限り、できれば陥るべきでない、
「思考停止」の、ひとつのあらわれだともおもう。
そうなると結局 あんなひどいことをやったうえに
「ごめんなさい」の一言も残さず死んでしまったあの犯人と、
方向こそ微妙にちがえ、
あまりにまずしい心のありかた、幼稚さという点では、
大差がないことになる。
「死にたいんだったら勝手にひとりで」なんて・・・
いわばスナック感覚で、他人にいっちゃうのは。
こんなひどい事件の報道にふれて、
思考停止におちいらないほうがどうかしているともいえる。
誰の心にとってもつらい報道だ。
つまりいたましいできごとへの一時的な、悲嘆の声の、
きわめて語彙的に貧弱な、表現ともいえない、
表現だろうこともよくわかる。
だが、だが、それをさらにひっくりかえせば
そんなつらいときにこそ人の本性がでるわけでもある。
そこを意地でも歯をくいしばり、理想のほうをむいていく、
そういう、きれいごとにしがみつく姿勢の上にしか、
人の道はできていかないんだとわたしはおもう。

わたしは、被害者とそのまわりのかたがたに
もちろん文字通りの意味での同情を捧げる。
だが、おなじく、死んだ犯人にもだ。
ものの数分で、刃物をふりかざし、
知らない人の、生命力という名の質量に満ちた生きた体から
血をふきださせ、死なせるほどの力で傷つけていった、
その異常なスピードと、エネルギー、
体力の量、体力の発揮のされかたから、
まずまともとはいえない精神のはたらきが
おもわれてしかたがない。
朝の、まだ半分寝ているような、
さっぱりとしつつまだ不安定な、そんな時間帯に
あんなことをするなんて、いよいよおかしい。
人殺しなんぞ、いつやったって、おかしいものはおかしいが。
まともとは言えない。
釈明もなしに死んでしまった、そのせっぱつまった
立場と人生が想像されて、つらい。
わたしはわたしが犯人を追い詰めたかもしれない。とおもう。
ひとりにしてしまったからではないか。

わたしは死にたいなら勝手に死ね論調に賛同しない。
その発言がでる背景は、なんとなくわかるけど、
そうだそうだ、とは、決していいたくない。

死にたいなら勝手に死ねはちょっと待って、に
おおむね賛成だ。
ただ おおむねであって、まだくわしくはよくわからない。
すごくつらい。