BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『キングダム』-190426。

佐藤信介監督、2019年、日本

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ゆうべ、近所の映画館で
最終回のチケットを購入して観た。
帰る頃には日付が変わるくらい遅い枠なのに
上映スクリーンはとても混んでいた。
また、お客さんの層が厚く、また 幅広かった。
若い人も大人もいっぱいいたし、
杖をついた品のいいおじいさんなどが
映画のパンフレットを大事にかかえて
おひとりで観に来ているのを見たし
家族連れも多く見受けられた。
キングダムは愛されているんだなあ。

・・・

本作を観て自分が いだいた感想について、
一晩中かんがえた。

結論としては、
わたしは本作は
ちっともおもしろくなかった。
だが、本作を肯定し、また、歓迎する。
ニヤニヤしながら観た。

・・・

原作を知っているから
ストーリーがわかるので、
「どうなっていくのかな」と
ワクワクすることがない。
原作ファンが
原作ものの映画なんかを観る以上、
それはごくあたりまえ、ありえることだ。
だからその点をもって
本作がおもしろくなかったと
言うつもりはない。

言いたいのは
舞台装置とドラマのスケールが
まったくマッチしていなかったこと。
ドラマに持たされたメッセージの部分が
あまりにも軽薄で安っぽいものだったことだ。
原作と比較して、テーマが矮小化されている。
そこに強いちぐはぐ感をおぼえて
いったん気になりだすと物語に集中しにくかった。
本作 映画キングダムが描き出そうとしていたことは
なにもキングダムじゃなくても、
まして映画でなくても、じゅうぶん表現が可能な
そういう、程度の低いものになってしまっていた。
むしろ、キングダムじゃない何かを
下敷きにでもしたほうが
鑑賞者に受容されやすかったのではないかと思う。

具体的には、たとえばこの映画は、
「夢」「希望」「勇気」といった言葉を
セリフに多用していたのだが、
その「夢」「希望」「勇気」が、 
「弱小高校サッカー部の万年補欠選手が
 FIFAワールドカップ出場選手になるまでの
 奮闘を描く少年マンガ
における「夢」「希望」「勇気」と
同じニュアンスだった。
それが気になった。

夢、希望、勇気といった言葉は、
(こういう言い方も変なのだが、)
今や、ものすごく現代的なニュアンスで
遣われている言葉だ。
同じ言葉が2500年前にもあったかもしれないが、
当時の人びとがその言葉を発するとき、
そこに載せられていたイメージやニュアンスは
現代のそれとはまったく違ったとわたしは思う。

深く考えなければ、こんなことは
ぜんぜん気にならないのかもしれない。
高校サッカーだろうが中華統一だろうが
 夢は夢、勇気は勇気だろ」と
とらえる人も、いるだろう。
それに、原作『キングダム』のセリフでも
「夢」「希望」「勇気」という言葉は出てくる。
(映画のセリフは原作に相当忠実だった)

それに、現代日本語と古代中国語、
というめちゃくちゃ根本的な違いがあるのだから
それも含めてものごとを考えようとすると
異常に複雑な問題になり、
こんなもんわたしなんかの手に負えないと言ったら
それはもちろん手に負えない(笑)。

でも、やっぱり映画と原作とでは違う。
何が違うかと言えば、言葉の扱い方が違う。

原作キングダムは、もっと慎重で周到だ。
現代の価値観を表現するワードを遣う時は、
言葉の本来の意味をよく考慮したうえで、
かなり念入りに根回しをし、
時代の雰囲気をできるだけ壊さないように
工夫をこらしている、とわたしは感じる。

とくに「夢」の扱い。
「夢」という言葉がどんな風に扱われているかを
見ると、原作『キングダム』の作者のまじめさが
伝わってくるように思う。

そもそも、漢字の「夢」の本来の意味は
「暗くてぼんやりとした幻」だそうだ。
今は「夢」は肯定的に、気軽に語られる。
将来はメジャーリーガーになりたい! とかの
あの「夢」だ。
でも、昔は「夢」というと、もっと、
マイナスイメージだったということだ。
そんなもの人前で語るとカッコ悪いどころか
「こいつちょっと頭おかしいぞ」
「こんな奴とは関わらない方が良い」
そんな風に周りに思われた。
まっとうな大人の付き合いの場で語るものではない、
それが「夢」だったのだと思う。
武張った男たちのひしめく命がけの戦場に
「おれの夢」とかなんとか口走って
目を異様にキラキラさせてるのがいたら
狂人扱いされただろう。不吉な感じさえして
誰も相手にしなかったかもしれない。

原作『キングダム』では、そこの所が、
実際、ちゃんと理解されているように思う。
だから よく見てみると、
本来の漢字の意味でとらえたとしても
それほど不自然じゃないと思われる場面でだけ、
「夢」という言葉が用いられているのだ。
原作『キングダム』において、
漂は
「夢があります」
とは言わない。
身の程をわきまえぬ大望があります」
と言う。
信は
「無念なのは夢が幻に終わったってことだろ」
と言う。
王賁は
夢だ何だと浮ついた話ではない」と言う。
『キングダム』の男たちが夢を語る時、
「おれの夢は●●だ!」
なんて、まず言わない。
「いついつまでに●●を△△したいんだ!」
みたいな感じで、具体的に言う。
おれの夢、なんて口走るのがたまにいても、
それはたいてい小者キャラだ。
「夢」をかなえることなく早めに死んでいく。

原作はそのへんのやりかたが実はかなり周到だ。
ゴリゴリに濃密で骨太の、劇画っぽい画で
「それっぽさ」をしっかり出しつつ、
現代の感覚でウケるギャグやコメディも小出しにする。
2500年前の中国に絶対こんな表現なかったよね! と
誰でもわかるような今っぽい感じの言い回しも
ギャグっぽいシーンにはちょいちょい巧みにちりばめる。
そうやってこまやかに根回ししていくことで
逆に、大事な所で微妙に今っぽい表現を遣っても
浮かない、そういう基盤を構築し続けているのだろう。
2500年前の中国で生活したことがある人なんて
作者も含め誰もいないのだから、本当は
「何もわからない」が正解なんだろう。
だからこそ慎重に、
マンガの世界を壊すことがないように
じっくりとやっている、
それがマンガ『キングダム』の
深みあるおもしろさの秘密じゃないだろうか。

となると、マンガより映画の方が分が悪いのは
当然だとわたしは思う。
歴史ものを実写映像でやるとなると、
現代の顔をした役者さんが
現代の声の出しかた、現代の身のこなしで
昔のことをやらなくちゃいけない。
しかも時間がかぎられている。
絶対にどこかしらどうしても現代っぽく、
コスプレっぽくなる。違和感しかない。
これはしかたない。
でも違和感は、観にくさや幻滅につながる。
観る人に「つまらない」と感じさせてしまう、
ということだ。
だから「しかたない」じゃすまされない。
なんとかカバーする工夫が必要になる。
そこで大切になるのが、セリフだ。言葉だ。
(もちろん他のこともいろいろ大事だけど。)
「いまさら言葉ひとつにこだわってもしかたない」
じゃダメだ。
映像だからこそ、人が実際に動くからこそ、
せめて言葉くらいはふみとどまらなくては
言葉でカバーする努力をしなくてはいけない
わたしはそうおもう。

原作は13年かけてあの手この手で
世界観を確かなものにしていった。
映画はそれをほんの1年だか2年だかで
しかもいろんな大人の事情もあって
お金とか場所とか限られた条件下で
2時間にまとめなくちゃいけなかった。
映画のほうが明らかに旗色が悪い。
それはしょうがない。

しかし、この映画の作り手は
絶対にここだけは「しょうがない」では
すまされなかった所、
つまり「言葉」の部分まで
「しょうがない」ですませてはいないか。

言葉を雑に扱っている。もっと言うなら、
「原作とそっくりそのまま同じでありさえすれば良い」
と、安直に考えたらしいことがうかがえる。
だから、原作の13年の工夫と努力を考えもせずに
「夢」「希望」「勇気」といった言葉を
現代の価値観のままのニュアンスで
無神経に投入してきている。
それは見た目としては原作とまったく同じなので
つまり「原作に忠実」のつもりかもしれないが、
原作とは全然違った結果を生んでしまっている。

わたしは、これは映画の作り手の、
怠慢といわざるをえない とおもう。
マンガを実写映像化する場合、
「原作と見た目やセリフが同じ」なことが
イコール「原作に忠実」、ではないのだ。
マンガなら時間をかけてできたことが
映画だとできない。
計り知れない工夫と労力を要する挑戦だ。
あらかじめ分が悪く、実を結ぶことはまずない、
とても大変なことなのだとおもう。
だから、それでもやるというのなら
作り手には、とても繊細な神経と
原作への深い理解が求められるのだろう。

原作者がどれほど工夫を凝らして描いているか
「夢」というたった一語をキャラクターに言わせるのに
どんなに細心の注意を払って 世界観を固めてきたか
ちゃんと理解しようとしないまま
同じ言葉を 実写映画に投入したことは
無神経だった、と言わざるをえないのでは。
しかも個人的には 作り手側が
「それは重々わかっていたけど断腸の思いで」
ではなく
そもそもそんなことに頭が回っていない!
くらいの感じだったのではないかと
なんだか 思われてならないのだ。

・・・

さらに言うなら
映画『キングダム』は
アクションに力を入れ過ぎていた。
人の心の激しい躍動を表現するには
人の顔と体の動きを見せなくてはならない、
・・・よく言えばそういう考えに
あまりにも熱心になりすぎたのだろう。
悪く言えば、ドラマを描き切れないので
アクションでごまかすしかなかったのだろう。
せっかくの中国の広大な台地や
壮麗なセットの映像が死んでいる。
俳優たちの体の動きを間近でとらえることに
こだわりすぎている。
やっぱりこれ
『キングダム』じゃなくても良かったんじゃないか
わざわざ中国で撮らなくても良かったんじゃないか
という感じに思えた。

・・・

ああ、これこそキングダムだなあと
思えたのは
よくよく自分の心のなかをみつめてみると
王騎と政の問答の場面だけ。
なんか、あそこは良かったかなと。

・・・

中国武術の様式が
まだ確立していなかった時代の
物語ですので・・・というエクスキューズを
いろいろな場面で見かけた。
はあ、そうですかとしか言いようがないのだが 
しかし
映画のなかで登場人物たちがふるう剣術が
素人目だとどうみても 
日本のそれだったのは気になった。
見ていて「異国!」という感じがない。

・・・

だがこれだけ言っといてなんだが、
キングダムの愛読者としては
わたしは本作をわりと肯定する。
別におとといきやがれ! なんて思ってない。
頑張ったよね、という気持ちだ。
それはただこの一点、つまり
キャラクターの見た目の再現度において。
はっきり言ってしまえばそれくらいしか
この映画を楽しみにするポイントはなかった。
そしてそこは健闘していたと思っている。

高嶋政宏が驚くほど昌文君。
壁も、雰囲気が出ていてよかった。
長澤まさみの内面から光り輝くような楊端和。
大人の女性の妖艶さは足りなかったかもしれないが
だからといって仮に「菜々緒」とかをもってきたら
あのモデル体型は現代的すぎて歴史ものには合わないし
本当にただのコスプレになってしまい
意外と不満だったろうとおもう。
吉沢亮の気品ある政。彼は声も美しかった。
橋本環奈ちゃんがかわいい。
横向きで顔を上げた時のあごの線がすっきりとして
同じ人間かとおもうほど可憐だった。

大沢たかおの王騎。
まあ良くやってくれたよなと思う。

そして原作ではそんなに大きく
扱われなかったと記憶している、左慈
あの役者さんはいったいなんだったのか。
しずかな狂気を放つ存在感。
ただ立っているだけでとてつもなく異質だった。
キャラクター造型がうすっぺらいのは気になった、
信が命がけで否定すべきイデオロギーの体現者として、
それでは説得力に欠けるのだから。
でも、アクションは、アクションだけは本物だった。
本気で殺しにきているんじゃないかと思うくらいだった。

左慈を観るためにだけもう1回本作を観てもいい。