BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

ビジネスリレーションシップが壊れるさまを見る-190326。

女性どうしの、ビジネス上の関係。
嫉妬感情が からんだあげく
関係がうまくいかなくなり
ビジネスも立ち消えになる
そんなシーンを
さいきんみた。

クリエイター(Aさん)と
そのスポンサー(Bさん)という
関係において起こった。

※「女性」だなんて
主語が大きく、
思わせぶりになった。
男性はどうか、とか わかんない。
女性だからなのか
「その人だから」なのかも
わかんない。


・・・

構図としては、
クリエイターAさんが
スポンサーBさんに、嫉妬心を向ける、
というものだ。
・・・
わたしはAさんとは顔見知り、
Bさんのほうとより親しい。

わたしはその関係と
できごとのなりゆきを
たまたま はたでみていた。
で、事情を知るにつけ
内心、こうおもっていた。
・・・その場に発生している
嫉妬感情の内容が、
完全に間違って
理解されているな。
スポンサーのBさんのほうが
深刻に、思い違いをしているぞ。

この件のくわしい事情を知り、
さらに、後述する 両者間の
メールのやりとりから読み取ったうえで
いわせてもらえば

嫉妬をしているAさんはようするに
Bさんの支援を受けて
作品の発表などを行うなかで、
自分が おもったよりも
「ちやほやされない」ことが
くるしくなったのだ。
Bさんにスポンサーをたのんだことで
知名度があがり 
作品も人気が出て・・・
いろいろうまくいっているのは
うれしい。だが
クリエイターの自分よりも
Bさんのほうがあらゆる場面で
人望が厚く
みんなに愛されている(ように見える)。
男性にモテる。
「Bさんが推すクリエイターなら
応援しようかな」
という人ばかり(のように、見える)。
自分の作品が知られることが、
まるでBさんのお手柄のように感じる。
それがしんどくなってきた。
もっとちやほやされたいきもち、
自己顕示欲がみたされないことが
苦しい。

創作活動なんかをしているような
感性の鋭いひとが、
自分自身のきもちの中身を
分析せずにいられるだろうか。
Aさんは、自分のきもちの内容を
ちゃんとわかっているはずだ。
すくなくとも ある程度までは。
そして、
ほんとうのきもちを
まさか、人に明かせはしない。
とくにBさんには
本心を絶対に言えない。
だからよけいに苦しい。
Aさんのきもちには
もっともっといろんなものが
含まれていると思うが
おもに、で言えば、
こんなかんじだ。
つまり「自分よりもBさんが・・・」
のところまでは
いわゆる嫉妬そのもの。
それと、満たされない自己顕示欲の
うずきとが からみあっている。

かたや
スポンサーのBさん。
「Aさんにやきもちを焼かれてる」
と はっきり言っていた。
嫉妬感情が在る、
それはわかっているようだ。
だが、どういう嫉妬なのか、
ということについて
彼女はかんちがいをしている。

AさんとBさんは
ふたりの現在の関係について
深く踏み込むか踏み込まないか
かなりスレスレのやりとりを
メールでしていた。
Aさんは自分の本心を
Bさんに知られたくないけれども、
でも、反面 
自分から知らせるのでなく
悟ってほしい、汲んでほしい
というようなかんじが
あったのかもしれない。

一連のメールのやりとりを
Bさんに見せられて
わたしは読んだ。

それは、
まだふたりの関係が良好だったときに
一緒に参加しようと話し合っていた、
とある外部のイベントについての
やりとりだった。
「参加しようね」と話したときから
やや日にちが経過したなか
Bさんは一足先に
エントリーを済ませていた。
ふたりの共通の友人でもある
イベント主催者と会った際
Bさんは
Aさんがまだエントリーしていない
ことを知る。
エントリー枠はのこりすくない。
使える時間枠などは 参加申請順に
埋まっていく。
このままでは、
同日にふたりとも参加したとしても、
会えないかもしれない。
しかし、主催者が、厚意で
「(ほんとはこういうことしちゃ
だめなんだけど)
もしAさんが参加するなら、
いまからでも 割り当て時間が
Bさんと隣り合わせになるように
ゆうずうしてあげる」と。
Bさんは喜んでAさんに連絡をとった。
今からなら、
隣どうしでやらせてもらえるよ
エントリーし忘れていたなら
ぜひ申請して!
すると 
「ありがとう。
でも、自分は自分でやる」
と、Aさん。
いつになくそっけない文面に
Bさんは
「何か気に障ることしちゃってたかな」。
Aさんは最初はぐらかしていたが、
だんだんと「本音」を明かしていった。

Aさんは
Bさんの支援のもとで行う
発表活動において、
日頃 感じてきた違和感について
語り始めた。
「Bさんのまわりには
Bさんの仲間、という
かんじの人たちが集まっている。
わたしや、
わたしについてきてくれる
昔からのファンは 
そこに入っていけない
かんじがして つらい」
などと つづった。

「Bさんありきのわたしだと
みんなに思われたくない」
といったことも
じつは書かれていた。
しかしこれはとても
婉曲的な言いかたで、
かすめるように
触れられていて、
掘り下げられることはなかった。
読み手に伝わりにくかった
かもしれない。

Bさんは
Aさんの思いを最終的に
こう解釈した。
「Aさんは
『わたしだってBさんと
仲良くしたいのに
すでにBさんはお仲間に
かこまれているので
さびしい』と
思っていたんだな」。

ちがう!!!
そうじゃないぞBさん!!!
たしかにそうとれる書きかただけど!!!
本心を言えないから
こういう文になってしまっただけだ!!

でもBさんは 
自分がAさんを
かまってあげなかったから
さびしいおもいをさせたのだ。
と、認識した。
であるとすれば
こうなるのも
無理からぬことなのだが
BさんはAさんに
いっそう頻繁に積極的に
関わっていくことを約束した。
もっと一緒にプロジェクトをやろう。
外部のイベントに
一緒にエントリーしよう。
わたしはあなたの作品の良さを
知っている。
あなたの一番の理解者としての自信がある。
あなたの作品をもっとわたしの
ネットワークで広めてみせる。
Aさんにそう熱く うけあったのだ。

真摯な愛であり
情熱であるだろうけれども
いまのAさんにとって
これほど残酷で
心をかきみだされるオファーは
ないとおもう。

スポンサーBさんが
「わたしはあなたの作品の
一番の理解者であるという
自信がある。
わたしの眼は確かなの。」
書き送ったのに 間髪入れず
Aさんは
「わたしだって自分の作るものに
自信はあるよ」。
それにおっかぶせるように
かわいい絵文字付きで
「ううん、わたしのほうが自信あるもん♪」
と、Bさん。
よく読むと 
話が あまり かみあってないが、
Bさんは、
雰囲気をなごませようとしたのだろう。
だがAさんの立場にたってみると
この「自信あります」ラリーは
俗にいう「マウンティング」だろう。
というか
おたがいにマウントを
取ろうとしている。
組み合ったままごろんごろんと
地べたを転がりまわっている
ようですらある。
Aさんのほうが
きのどくなほど劣勢だが。

ここにきてAさんが
なにかを あきらめたのが 
やりとりから 伝わった。
「わたしが
考えすぎちゃっていたのかな
ごめんねBさん。
これからもよろしく」。

その数日後から、
クリエイターAさんは
スポンサーBさんについての
悪口、中傷のたぐいを
関係各所にふれまわるようになった。
スポンサーBさんの身辺に
それがどの程度 影響しているか。
影響はほとんどない。
最初の最初のときだけ、
ほんのちょっと 周辺が 
ざわっとなったことは
事実のようだが、
みんな基本的に
Bさんの味方であるのだから、
悪口、中傷を信じないのだ。

Bさんの味方である
その人たちは
Aさんの敵というわけでは
けっしてなかったのだが・・・

AさんとBさんの連絡は
・・・これもあたりまえのことだろうだが、
現在 とだえている。

Aさんはいま、
とてつもなく、
苦しんでいるだろう。
こんなにみじめなことが
あるだろうか。
きわめて不健全で不幸で
これ以下はないほど 
ぶざまなことを、
自分を貶める効果しかないことを
おろかだと知りつつ
彼女は やっているのだ。

ただ
Aさんのしたこと 
していることを
全体的に 評価するには・・・
わたしはまず
Aさんのスタンスを
確認しなくちゃならないだろう。
Aさんも、自分自身について
それをする必要があるんじゃないか。

つまり、彼女がどの程度プロなのか、
っていうか。そういうことについて。

わたしはAさんじゃないから
正確にはわからない。
もしも、だとすれば、であろう で
ここからは書いてみるしかない。

嫉妬とか 
べつに嫉妬じゃなくても
なんでもいいけど・・・
激しく、苦しいきもちが
わきおこるのは
人間なんだし・・・
当たり前だ。
いけないとわかっていても
そういう気持ちを
持ってしまうことはある。
よりにもよってスポンサーとの
関係をめぐって 
そのような感情を
抱いてしまったのは
とても苦しいことだろうけど・・・

ただ、
理屈をいえば、・・・
スポンサーBさんと組むことが
自分の活動に利すると信じるとき、
そして クリエイターとして
立とうとする過程にあって 
どうしてもいま
スポンサーBさんの力が
ほしい、と考えるとき、
Aさんは、「Bさんを利用してやる」
くらいのきもちでいて
しかるべきだとおもう。
Bさんが、顔が広くて
男性にモテるのならば
おおいにそれを利用してやればいい、
そして自分の作品を
売り出していけばいい。
心はつらいけれども 
打ち勝たなくてはいけないし
打ち勝つことになるはずだ。
自分の作品を多くの人に
知ってもらうことが
だいじだと考えるならば。

でも、
そういうのじゃなく・・・
特殊な技術や才能を持っていて
ちょっと おもしろい
作品を作ることができて
それを人に見てもらって、
わー上手だね、すごいね!と
言ってもらうこと。
あたかも自分が
「クリエイター」であるかのような
気持ちを味わってみたりすること。
それこそが 
欲しいものだ、というならば、

「わー上手だね!すごいね!」
つまり「イイネ」。
これが欲しいだけ得られない
そんな環境からは
離れたいと思っても、
しかたがない。
というか、離れたほうが得策だ。
求めるものが
創造や変革ではなく
「イイネ」であるのだから
もっと効果的に、
もっと効率的に、
もっと多くの
「イイネ」がもらえる方法を、
ふくらむ自己顕示欲を
満足させる方法を・・・、
追求する必要があるとおもう。

スポンサーBさんのもとにいれば
たくさんの「イイネ」がもらえると
最初はおもっていた。でも
Bさんのもとで活動をすると、
こともあろうに 自分よりも 
スポンサーのBさんのほうが
(「何もしてないのに」?)
イイネをたくさん獲得してしまう。
それが苦しい、
であれば
Bさんのもとを離れて
ほかの場所を探すほうがよい。
Bさんのイイネは
あくまでもBさんのイイネだ。
どんなに欲しくても、
こっちに半分ください、とかは
言えない。

だから・・・
クリエイターAさんは
自分はどうなのかをまず
腹の底をさらって確認し
わかったら、
自分の欲しいものを得るための行動を
とればよいことになる。
自分の欲しいもののために
動けばいいのだ。
Bさんがどうであるかなんてことは 
Aさんには本来 関係がない。
いかなる場合であれ。

確認した結果、もし
わたしプロってほどじゃなかったわ、
ほめられたいだけ、
モテたいだけだったわ、
だからもっとモテる方法と
場所を探しに行かなくちゃ
いけないんだわ、
こうしちゃいられない
・・・となることが
おかしいとか
かっこよくないとか
だれにも言えないはずだ。

欲しいものが手に入る場所に行かないと
欲しいものは手に入らない。
あたりまえだ。

他人にはわざわざ
ほんとうのことを言わなくてもいい。
でも自分だけは自分のきもちを
ちゃんとわかってて
絶対にそこから目をそらさない、
それって
非常にだいじなことだとおもう。
目をそらすと、
すぐ わからなくなる。
自分が輝ける場所の探しかたが。
輝けるというか、
くさらないでいられる場所の。
ずるずると流されて、
気づくともう自力では
戻れないところまで
来てしまうことがあるのだ。

Aさんは 
スポンサーBさんと 連絡を絶った。
悪口なんかを
言いふらしてしまい
言いふらしたことが
バレてしまっている以上
スポンサーBさんとの関係は
おわったも同然だ。

もっともスポンサーBさんは
Aさんに謝られたら
許す気まんまんだろうけれど
もしAさんにすこしでも誇り・・・
いや、恥というものがあるならば、
謝るなんてことは 
しない気がする。

Aさんは
プロじゃないことをした。 
プロであろうとしている人、としても
ありうべからざることをした。
やってしまったことは
もうとりかえしがつかないが
それでも せめて
悪口を言いふらすことだけは
しないでおけば。
そうして苦しいきもちを
じっと耐えて待ったならば
苦しいきもちを
作品に昇華していったならば
もしかしたら
つらい気持ちを
時が解決してくれて、
新たな作品も生まれ、
そしてうまくすれば
なんとなくふわっと、
スポンサーBさんとの関係も
Aさんにとって
苦しくないものに
変わっていったかもしれないのに。

もろもろのことがらは
過ぎ去っていくし、
変わっていくのだから。

どうして 悪口なんて・・・
言っちゃったんだろう。
みじめでたまらないだろうに。
まさか みじめと
感じていないのだろうか。
引きずり降ろして
優位に立ちたかったのか。
自分が正しいと
証明したかったのか。
共通の敵をつくることで
味方をふやしたかったのか。
でもどれも 叶ってない。

また、
スポンサーBさんのほうのこと。
彼女は Aさんのことを
ビジネスパートナーである以前に
友だちだとおもっている、と
言っていた。
しかし、

友だちじゃない。
Bさんは、
Aさんの友だちとは
言えないと わたしはおもう。

あえて言うならば、
Bさんが見ているのはBさんだけだ。

BさんはBさんのすべきことを
ただやっているのだと 言い換えてもいい
その点でいうと、
いや、その点でいっても、
この関係において、Aさんだけが
プロじゃない。

Bさんは、
Aさんの友だちとは言えない

でも・・・
世の中のできごとなんでもかんでも
白日のもとにさらせばそれでいい
正しいことを言えばそれでいい
そういうものでもないなと。

心地よい場所にいるBさんを
そうでない場所にひきずりだすことに
なるかもしれない
そんなことをする権利は 
誰にもない。
わたしが知っていること
わたしが考えたこと
それをはたしてBさんが
知りたがるかどうかは
わからないし・・・
それに
Bさんが 
なにかを知ったところで
Aさんがすでに この関係を
破壊してしまったのだ。

また、
もろもろのことがらは
過ぎ去っていくし、
変わっていくと さっき述べたけど、
なにかの条件の
わずかなちがいによって
AさんとBさんの、
心の立場が
逆転することもありえるし
ある状況におかれてみて
はじめて
「自分の心にはこんな感情が
眠っていたのか」と知らされる、
そんなこともあるとおもう。

やさしさ
思いやり
他者への献身 
他者への支援
美しいし正しいことだ。
でもそうした
人の美しいおこないの背景には 
えてして
それをおこなう人自身の
「充足」「余裕」「優越」
といったものがよこたわる。
かならずしもイコールではないが
つまり
「お前は結局余裕があるから
人にやさしいふりができるんだ」
「お前、『いいこと』をしようと
しているだろう」
的なやつだ。
それは「充足」「余裕」「優越」
を失くしてしまっている人を
かえって苦しめかねない。
忘れちゃいけない 側面だろう。

今 電車で、気分が悪くて
座り込んでしまった人がいたら
わたしは自分が座っている
座席をもちろんゆずるだろう
でも自分が調子が悪くて
座っていたいとき
それでも どうぞ、と
いうかはわからない。

今 さびしくて恋人がほしいと
悩んでいる友だちがいたら
わたしは そうだよね、わかるよ
とか言って その子のそばに
いてあげるにちがいない。
でももし自分が幸福で、
ひとりのさびしさを忘れている、
そんなときに
友だちの激しい孤独感や
疎外感に触れたら
わたしははたしてその友だちの心に
よりそってあげられるだろうか?

すべてはかんたんに変わる。
うつりかわって頼りにならない。
人間なんてそんなもんだから
だからこそいま、せいぜい
優しくしあうべきなんだとも
いえるとおもう。




うーん。
どうして
悪口言っちゃったんだろう・・・
それさえしなければ・・・。