BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『キャタピラー』-190308。

英題:Caterpillar
若松孝二監督、2010年、日本

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好きじゃない。
根深い構造上のねじれのようなものと
欺瞞的な姿勢を感じる 映画だからだ。

・・・

<シゲ子を案ずる必要がない>
シゲ子を、わたしは
一度も 案じなかった。
感情表現がゆたかで
しかもオープン、
そのうえ誰よりも声がでかい。
彼女の叫びを さまたげるものも、
周囲にまったくなかった。
さらに、
自分の立場を守るために、
適当な演技で世間体をとりつくろい
そこに自己矛盾を感じすぎないよう
感情を処理するのも
じょうずな人だ。
物語が始まった当初から、
つまり夫が四肢欠損の状態で
帰ってきた冒頭のシーンから
わたしはシゲ子を
心配することをやめた。
その必要がない。
本作はいわば
「あたしは幸せ!」
「あたしは自由!」
「何があろうと誰よりも強く
 生きていってやるのよ!」
シゲ子がそう謳歌するだけの
2時間にすぎないのだとおもった。

・・・

<久蔵の未来は見えすいている>
気にかけるだけの何かがあるとすれば
それはシゲ子ではなく、むしろその夫、久蔵だろう。
戦場から帰還した彼に のこされたものは
健康な男性機能と
戦地でみずから作った罪の記憶、
そして「名誉」だったのだが、
それらを持っていること自体が、
久蔵の心を追い詰めていくこととなる。
「こんな状態になっても
まだ思い通りにできるものがある」
最初は そう思いたくて
妻の体を求めたように見えた。
だが、腕があったころには
力ずくで組み伏せてことをなしていたものも
いまや口にくわえたエンピツで
紙に「やりたい」と書きつけ
妻に何もかもやってもらわなくては
行為がかなわない。
そうして行為がなんとかたちゆくようになると
こんどは妻とのそれが
おのれの心の傷をかきむしってくる
つらいものでしかない、ということに
気づいてしまうのだが
だからもう行為をしたくない、と妻に言いたくても、
久蔵にはそれを訴える発語機能がないし、
また、拒む力もない。
さらに、
戦場で犯した罪について語ること、・・・
久蔵の心の救済にぜひとも必要な作業だが、
これも言うまでもなく不可能だ。
機能的に困難だし、
そう簡単に人に語れる内容ではないし、
聞き手として想定される相手、
つまり妻との信頼関係は、
とうの昔に自分の手で破壊してしまっている。
しかも、彼の「名誉」は、
日本の敗戦とともに価値を失う。
・・・こうなると、久蔵の未来は、
どの角度から検討しても、もう決まりきっている。
そして予想どおりの結果となった。

だがこの 久蔵サイドの設定も
のちほど述べてみるつもりだが
はっきり言って中途半端だったとおもう。

・・・

<「反戦映画」とは言えない>
本作を
「これが戦争だ」などという
コピーをはりつけ
反戦映画として提出した
その点にわたしは
どうも、疑問を禁じえない。
たしかに、
シゲ子の生命力を解放せしめ、
久蔵のいじけた攻撃性を閉じ込めた
または
シゲ子の生命力を閉じ込め
久蔵のいじけた攻撃性を
解放せしめていたのは
戦争、だったといっても
別に、間違いだとまでは言いきれないとおもう。
だけど、そうであるならば
この映画にとって「戦争」は
舞台装置にすぎない。
そういう使われ方しか、していなかった。
シゲ子と久蔵 どちらの精神性を
光のもとにおしだすか? の
切り替えスイッチ、回り舞台の軸部が
「戦争」だっただけだ。
軸は「戦争」じゃなくてもいい。

心弱い者が、その心の弱さゆえに
卑怯にも巧みな手管で人を支配下に置き、
犠牲者のすこやかな心をおびやかす。
そうした構図は
戦争状態でない現代の日本にも
見いだせるではないか。
たとえば いじめや 
各種環境下におけるハラスメント
それから、野田市の小4女児虐待死事件のように。

不当に抑圧された心が解放されるきっかけは
「戦争」のほかにもいろいろある。
逆に、おだやかで ふつうの
精神性の持ち主にみえる人物が
独裁者、支配者に豹変するそのきっかけも 
「戦争」でなくとも 「昔」でなくても
あちこちに転がっているのではないか。

本作において、戦闘シーンが
実在の記録映像にたよりきりであること、
広島・長崎の原爆による死者数や
玉音放送」の内容の「口語訳」が
安直な白字のテロップで
表示されることなどから、
とってつけた印象をうけて
わたしは
きもちがわるかったのだとおもう。
本質的に、反戦映画になろうとしている
映画であるとは言えないのに
作り手は「これは反戦映画だ」と言う。
あるいは本質的に反戦映画じゃなかった、
撮ってみてそのことに気づいたものの、
今さらどうしようもなくて、
反戦映画ということにしちゃいました、
そこがどうも独善的で姑息 というかんじだ。

これは完全にひいきめだが
反戦映画のつもりなら、
たとえお金がなかろうと
結果 不十分だろうと
戦争にまつわるシーンを
新しく自力で、
ロケで撮ってくる気概がほしかった。
『野火』(2015)のように。

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べつに、セット撮影が悪いとは言わないけど、
とにかく、本気度を感じたいわけだ。

しかるに
本作『キャタピラー』は
久蔵が戦地においてある罪を犯す、
本作の最重要項目のひとつといえるシーンさえ
眼もあてられないほど安っぽく
「セット」感まるだしだった。

・・・

<戦争と個人の対比が活きてない>
「死」の象徴「戦争」と
「生」の象徴「セックス」との
ダイナミックな対比構造を 
指摘する意見もあるだろう。
だが そんなに言うほど独創的な手法だろうか?
マクロ(本作では「戦争」)
を わからせるために
ミクロ(本作では「セックス」)
と対比させることは いずれにしたって
個人の共感を呼ぶためにきっと必要になる作業だ。
戦時を舞台に映画を作ろうとしたとき 
この構造の導入はむしろ容易、
誰でも一番に思いつく手法なのではないだろうか?
また、両者を対比させたいにしては
そのわりに 本作はザツだとおもう。
先にのべたとおり戦闘シーン(マクロ)は
記録映像の切り貼りで、
久蔵とシゲ子のセックスのシーン(ミクロ)にも
とくにこれといって
観る者の眼に焼き付けてやろう! という
意欲のようなものが 感じられなかったのだ。
素人目にみても撮りかたが
変化に乏しく たいくつで、
クローズアップが少ないために
熱感もまったく伝わらなかった。

・・・

 

<久蔵から奪うべきだったものは>
では本作は
何を描いた映画として
仕上がるべきだったのだろう。
どこがどうなって
どんなふうに手渡されたら
わたしはもっとすんなりと気持ち良く、
本作を受け取れたのだろうか。

ひとつ おもうのは
久蔵が失うものが
精神/脳と、男性機能だったら
話が違ったかも。
イメージとしては
植物状態」で帰ってくる形だ。
本作は逆だ。
手足と声と精悍だった容姿を失い、
脳と男性機能は、健康なままだった。
出征するまでの、久蔵とシゲ子の夫婦生活で、
久蔵の何が、シゲ子を苦しめたかと言えば、
それは、夫の暴力的で支配的な言動(脳)と
強制的な性行為(男性機能)だった。
逆に言えば
久蔵が おだやかで、心優しく
夫婦生活に愛情がありさえすれば、
シゲ子は苦しまなかった。
シゲ子の幸福は、そこに
かかっている、ということだ。
とすれば
もし、精神が破壊され
セックスもできない状態となって
久蔵が帰ってきたならば
シゲ子は夫の出征前よりも
「不幸」になったことだろう。
というのに語弊があるならば
シゲ子の幸福の可能性が
永遠に宙に浮いただろう。
なぜなら、かつて彼女を哀しませた
夫の人間性を作り上げていたのは
彼の精神/脳なわけだが、
それが壊れたとなると、
シゲ子は長年の恨みをぶつける先がない。
夫がいまや非力なのをいいことに
「あのときはよくもひどいことを
言ってくれたわね」
などと 怒りをぶつけたとしても、
夫がこうなってしまった以上、
「何を! 嫁の分際でうんぬん」と
かつてのように言ってくれる可能性はないばかりか
妻に歯向かわれて驚いた表情ひとつ浮かべない、
・・・そんな復讐はむなしいだけだと、
シゲ子には、すぐにわかるはずなのだから。
そして、若く健康な彼女が 
体のうずきをなぐさめる
対象も同時に、ない。
それでいて、
夫がお国のために粉骨砕身した
軍神さまとして
祀り上げられる存在となったので
シゲ子は妻として
久蔵を介護する責任から
のがれることができない。
・・・
これならシゲ子のゆくすえを
わたしはもうちょっと
案ずることも できたろう。

夫が手足と声を失って帰ってくる
これも もちろんそれなりに
容易ならざる事態ではある。だが、
口こそきけないが、精神が生きている。
一方的なものにせよ、性交渉が可能だ。
これでは、ふたりには魂の交歓の可能性が
残されてしまう。
これでは
シゲ子の追いつめられかたは
半端と言わざるをえない
とおもうのだ。

久蔵から奪うものを
精神/脳と、男性機能にすると
見た目にわかりにくく
パンチがきかない。
だからこの案はもちろん
採り入れるわけにいかなかったのだろう。
でも もしそうしていたら、
相当に陰惨で、現実感のある
ドラマになったのかもしれないとおもう。
そのうえであえて
敗戦のところまで 物語を描かずにおけば
さてこのあとシゲ子は
どうなったのでしょうか、と
シゲ子がこんな思いをしなくては
ならなかった理由はいったいどこに
あるのでしょうか、と
鑑賞者に考えさせることも
できたのではないだろうか。
そういうことであれば、「戦争」が
本当にこの物語の背骨になったとわたしはおもう。

たしかに久蔵は、本作においても、
ストーリーの終盤くらいから
妻との性行為によって
おのれのトラウマティックな体験が
呼び覚まされてしまうことを知り、
そのことに激しい苦痛をおぼえるようになる。
そして、精神の均衡をくずしはじめ、
性的不能の症状をも ていしていく。

でも、シゲ子はその理由がもちろん
わからない。
それに、
「夫が何かとても悩み苦しんでいるようだ、
悩みを解消してあげられないかしら」
と案じてやるほどの夫婦の信頼関係が
そもそもこのふたりのあいだには
構築されていなかった。
いくらなんでももうちょっと
夫を心配してやってもよさそうなもんだと
他人事にせよ、おもったくらい
シゲ子は案外鈍感だった。
久蔵の内面的崩壊の速度は
かなり緩慢で、まだらでもあった。
シゲ子はそこにちっとも目を向けない。
彼女はどんどん、たくましくなる。
夫の介護がうまくなる。
夫のわがままのかわしかたがうまくなる。
夫が不能になってもそれほど不満でなくなる。
夫を利用するようになる。
情勢の変化に適応していく。
久蔵の心の崩壊が 妻を苦悩の底に
ひきずりこむ力よりも、
シゲ子の生きる力が開花する速度の方が早いし、
その生命力の輝きの方が、はるかに強い。
敗戦のしらせに接したときの
はれやかな笑顔をみれば
シゲ子が今後 自分の二本の足でしっかりと立ち
たくましく生きて幸せを獲得していくであろうことは
どう考えても確実だ。
夫から両の手足と声を奪うくらいでは
シゲ子を不幸にはできなかったのだ。

久蔵は いつかこうなるだろうな、と
予想されたとおりの末路をたどった。
そこに意外性はまったくなかった。
末期の姿には痛々しいものがあったけれども、
こうなるように自分でしむけた、とも言える。
それに、彼には(かろうじて、だが)
自分の意思があった。
両手両足を失っても、
自分で自分の最期を決める力が残されていた。
彼はまだしも自由だったと、わたしは思う。

久蔵に、
「思考力」と「精神」をひとかけらでも残したことは
脚本的に、失敗だったとおもう。
だんだんとそれが失われていく、という流れにしたのも
とても半端であったとおもう。

・・・

<まとめ>
反戦映画としての形をなしきっていないのに、
反戦映画の顔をしているところに、欺瞞を感じる。
戦争のために
にっちもさっちもいかぬ状況においこまれ
人が不幸になる・・・
国が始めた戦争の責任を個人の肉体が負う・・・
だから戦争は残酷なのだ、
・・・そう語りたいのであれば
もっともっと容赦のない、決定的な形で 
夫・久蔵から「奪う」ことによって
立場の弱い女である妻・シゲ子を 
不当に暗い場所へと追いやるべきだった。