BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想をおもに記録しています。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-「キャタピラー Caterpillar(2010)」-190308。

キャタピラー
英題:Caterpillar
若松孝二監督、2010年、日本

f:id:york8188:20190310151135j:plain

movie.walkerplus.com


わたしは 好きじゃない。
決定的な ねじれのようなものと
欺瞞を感じる 映画だからだ。

・・・

<シゲ子を案ずる必要がない>
シゲ子を、わたしは
一度も 案じなかった。
感情表現がゆたかで
しかもオープン、
そのうえ誰よりも声がでかい。
彼女の叫びを さまたげるものも、
周囲にまったくなかった。
さらに、
自分の立場を守るために、
適当な演技で世間体をとりつくろい
そこに自己矛盾を感じすぎないよう
感情を処理するのも
じょうずな人だ。
物語が始まった当初から、
つまり夫が四肢欠損の状態で
帰ってきた冒頭のシーンから
わたしはシゲ子を
心配することをやめた。
その必要がない。
本作はいわば
「あたしは幸せ!」
「あたしは自由!」
「何があろうと誰よりも強く
 生きていってやるのよ!」
シゲ子がそう謳歌するだけの
2時間だ。

・・・

<久蔵の未来は見えすいている>
気にかけるだけの何かがあるとすれば
それはシゲ子の夫、久蔵。
彼に のこされたものは
健康な「男性の機能」と
戦地でみずから作った「罪」の記憶、
そして「名誉」だが、
それらを持っていること自体が 
久蔵を追い詰めていくこととなる。
「こんな状態になっても
まだ思い通りにできるものがある」
最初は そう思いたくて
妻を求めたように見えた。
だが、腕があったころには
力ずくで組み伏せていたものも
いまや口にくわえたエンピツで
紙に「やりたい」と書きつけ
妻にうなずいてもらわなくては
行為がかなわない。
そうして行為がなんとか
たちゆくようになると
こんどは妻とのそれが
おのれの心の傷をかきむしられる
つらいものでしかないということに
気づいてしまうのだが
彼にはそれを拒絶する力がない。
さらに、
犯した罪について語ること、
それは久蔵の心の救済に必要な作業だ。
でも、言うまでもなく不可能だ。
機能的に困難だし、
語れる内容ではないし、
聞き手として考えられる相手、
つまり妻との関係は はるか昔に
自分の手で破壊している。
そして彼の「名誉」は、
敗戦とともに価値を失う。
久蔵の未来は
もう決まっている。
予想どおりの結果となった。

・・・

<「反戦映画」とは言えない>
本作を
「これが戦争だ」などという
コピーをはりつけ
反戦映画として提出した
その点にわたしは
どうも、疑問を禁じえない。
たしかに、
シゲ子の生命力を解放せしめ、
久蔵のいじけた攻撃性を閉じ込めた
または
シゲ子の生命力を閉じ込め
久蔵のいじけた攻撃性を
解放せしめていたのは
戦争、だったといっても
そこにさしつかえはなさそうだ。
だが、そうであるならば
この映画にとって「戦争」は
舞台装置にすぎない。
そういう使われかたしか
していなかった。
シゲ子と久蔵 どちらの精神性を
光のもとにおしだすかの
切り替えスイッチ
回り舞台の軸部に
「戦争」があっただけ。
軸は「戦争」じゃなくてもいい。

心弱い者が巧みに人を支配下におき、
そのすこやかな心をおびやかす。
そうした構図は
現代の日本にも
見いだせるではないか。
たとえば いじめや 
各種環境下におけるハラスメント
野田市の小4女児虐待死事件のように。

不当に抑圧された心が
解放されるきっかけは
「戦争」のほかにもいろいろある。
逆に、おだやかでふつうの
精神性の持ち主にみえる人物が
独裁者、支配者に豹変する
そのきっかけも 
「戦争」でなくとも あちこちに
転がっているのではないか。

本作において
戦闘シーンなどが
実在の記録映像に
たよりきりであること、
広島・長崎の原爆による死者数や
玉音放送」の内容の「口語訳」が
安直な白字のテロップで
表示されることなどから、
とってつけた印象をうけて
わたしは
きもちがわるかったのだとおもう。
本質的に、反戦映画になろうとしている
映画であるとは言えないのに
作り手は反戦映画だと言う。
あるいは本質的に反戦映画じゃなかった
撮ってみてそのことに気づいたが
反戦映画ということにした、
そこがどうも独善的で姑息
というかんじだ。

これは完全にひいきめだが
反戦映画のつもりなら、
たとえお金がなかろうと
結果 不十分だろうと
戦争にまつわるシーンを
新しく自力で、
ロケで撮る気概がほしい、
「野火」(2015)のように。

york8188.hatenablog.com


べつにセットでもいいとはおもうけど
とにかく 本気度を感じたいわけだ。

しかるに
本作「キャタピラー」は
久蔵が戦地においてある罪を犯す 
本作の最重要項目といえる
シーンさえ
眼もあてられないほど安っぽく
「セット」感まるだしだった。

・・・

<戦争と個人の対比が活きてない>
「死」の象徴「戦争」と
「生」の象徴「セックス」との
ダイナミックな対比構造を 
指摘する意見もあるだろう。
だが
マクロ(本作では「戦争」)
を わからせるために
ミクロ(本作では「セックス」)
と対比させることは
個人の共感を呼ぶために
きっと必要になる作業だ。
戦時を舞台にするとき
この構造の導入はむしろ容易では。
また、両者を対比させたいにしては
そのわりに 本作はザツ。
先にのべたとおり戦闘シーンは
記録映像の切り貼りで、
久蔵とシゲ子のシーンにも
とくにこれといって
観る者の眼に焼き付けてやろう!という
意欲のようなものが
感じられなかったのだ。
素人目にみても撮りかたが
変化に乏しく たいくつであり、
クローズアップが少ないために
熱感も伝わらない。

・・・

 

<久蔵から奪うべきだったものは>
では本作は
何を描いた映画として
仕上がるべきだったのだろう。
どこがどうなって
どんなふうに手渡されたら
わたしはもっとすんなりと
本作を受け取れたのか。

ひとつ おもうのは
久蔵が失うものが
精神/脳と、男性機能だったら
話が違ったかも。
イメージとしては
植物状態」で帰ってくる形だ。
本作は逆だ。
手足と声と精悍だった容姿を失い、
脳と男性機能は、健康なまま。
かつてシゲ子を苦しめたのは
おもに夫の高圧的なふるまいと
暴力をともなう性行為の強要だった。
逆に言えば
夫が おだやかで心優しく
夫婦生活に愛がありさえすれば
シゲ子は苦しまなかった。
シゲ子の幸福はそこに
かかっているということだ。
とすれば
もし、精神が破壊され
セックスもできない状態となって
久蔵が帰ってきたならば
シゲ子は彼の出征前よりも
「不幸」になったことだろう。
というのに語弊があるならば
シゲ子の幸福の可能性が
永遠に宙に浮いただろう。
なぜなら、かつて彼女を哀しませた
夫の人間性を作り上げていたのは
彼の精神/脳だが、
それが壊れたとなると、
シゲ子は恨みをぶつける先がない。
夫がいまや非力なのをいいことに
「あのときはよくもひどいことを
言ってくれたわね」
などと 怒りをぶつけたくても
夫がいまや非力であるからこそ
「何を!嫁の分際でうんぬん」と
かつてのように言ってくれないばかりか
傷ついた表情ひとつうかべない
それがむなしくなるだけだということが
シゲ子にはすぐにわかるはずなのだから。
そして、若く健康な彼女が 
体のうずきをなぐさめる
対象も同時に、ない。
それでいて、
夫がお国のために粉骨砕身した
軍神さまとして
祀り上げられる存在となったので
シゲ子は妻として
久蔵を介護する責任から
のがれることができない。

これならシゲ子のゆくすえを
わたしはもうちょっと
案ずることも できたろう。

夫が手足と声を失って帰ってくる
これも もちろんそれなりに
やっかいな事態ではある。が、
口こそきけないが精神が生きている。
一方的なものにせよ性交渉が可能。
ふたりには魂の交歓の
可能性が残されてしまう。
これでは
シゲ子の追いつめられかたは
半端と言わざるをえない
とおもうのだ。

久蔵から奪うものを
精神/脳と、男性機能にすると
見た目にわかりにくく
パンチがきかない。
だからこの案はもちろん
採り入れるわけにいかなかったろう。
でも もしこうすれば
かなり陰惨で、現実感のある
ドラマになったのかも。
そのうえであえて
敗戦のところまで
物語を描かずにおけば
さてこのあとシゲ子は
どうなったのでしょうかと
シゲ子がこんな思いをしなくては
ならなかった理由はいったいどこに
あるのでしょうか、と
鑑賞者に考えさせることも
できたのではないだろうか。


久蔵はたしかに本作においても
ストーリーの終盤くらいから
妻との性行為によって
おのれの心の傷が呼び覚まされるという
激しい苦痛をおぼえるようになり
精神の均衡をくずしはじめ、
性的不能の症状をも ていしていく。

シゲ子はその理由がもちろん
わからない。
それに、
夫が何かつらいことを抱えているようだ、
悩みを解消してあげられないかしらと
案じてやろうとするほどの
夫婦の信頼関係が
そもそもふたりのあいだには
構築されていなかった。
いくらなんでももうちょっと
考えてやっても
よさそうなもんだと
他人事にせよおもったくらい
シゲ子は案外鈍感だった。

久蔵の内面的な崩壊の速度は
かなり緩慢で、まだらでもある。
シゲ子はそこに目を向けない。
彼女はどんどんたくましくなる。
夫の介護がうまくなる。
夫のわがままのかわしかたがうまくなる。
夫が不能になってもそれほど不満でなくなる。
夫を利用するようになる。
情勢の変化に適応していく。
久蔵の心の崩壊が 妻を苦悩の底に
ひきずりこむ力よりも、
シゲ子の生きる力の目覚めと
その輝きのほうが 早く、強い。
敗戦のしらせに接したときの
はれやかな笑顔をみれば
シゲ子が今後 自分の力で
幸せを獲得していけることは
ますます確実におもえる。
夫から両の手足と声を奪うくらいでは
シゲ子を不幸にはできなかったのだ。

久蔵は いつかこうなるだろうと
予想されたとおりの
末路をたどることになった。
でも、彼に意思があり
両手両足を失っても
自分で自分の最期を
決める力が残されていただけ
彼はまだ自由だったと
言えると わたしは思う。
末期の姿には
痛々しいものがあったが
こうなるように自分でしむけた
といえるのでもあり、
また、なんといっても
幕をひいたのは
彼自身だった。

久蔵に
自分でものを考えられるだけの
健康な思考力と精神を
残したことは
失敗だったとおもうし
だんだんとそれが失われていく
という流れにしたのも
いささか半端であったとおもう。

・・・

<まとめ>
反戦映画であるとは言えないのに
反戦映画の顔をしているところに
欺瞞を感じる。
戦争のために
にっちもさっちもいかぬ
状況においこまれ
人が不幸になる・・・
国が始めた戦争の責任を
個人の肉体が負う・・・
だから戦争はいけないのだ、
そう語るのであれば
もっと決定的な形で 
久蔵から奪うことによって
立場の弱い 女であるシゲ子を 
不当に暗い場所へと
追いやるべきだった。