BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

ノートパソコンふんじゃった/カレーチャーハンの夢/ネコ(ふんでない)-190301。

今朝、ねぼけてベッドからおっこちた。
ちょうどもう起きるべき時刻でもあったので
そのまま体を起こして、
手洗いにいこうとして、
ベッドのすぐ下においてあった
本の山に足をひっかけ、
体のバランスをくずし、
こたつテーブルの天板を
おもいっきりひっくりかえした。
ころんで天板が右ひじにぶつかった。
天板のうえにのせてあった
ノートパソコンが床に落ちた。
立ち上がろうとして
よろけたわたしは
それをおもいっきりふんづけた。
左手を床についたひょうしに
左手首をややひねった。

なにをやっているんだわたしは。

仕事をしているあいだというもの、
今朝ふんづけたことによって
ノートパソコンが壊れなかったか、
そのことで気が気じゃなかった
と ここでわたしがいっても
なんらおかしくないくらいの
ふんづけ具合だった。だが
じっさいはそこまで心配することもなく
いつものように
たいへんよく集中して仕事に取り組んだ。
ノートパソコンは
まあたぶん大丈夫だろうと信じてた。
けっこうわたしは運がいいのだ。
おみくじ 大吉だったし。
帰宅して、ノートパソコンの電源を
いれてみたら、
もんだいなく起動した。
もんだいなく使用できる。
このブログもノートパソコンで書いている。
よかったよかった。

・・・

ねぼけたこととは
そんなに関係がないのだが、
今朝、夢を見た。

カレーチャーハンを食べる夢。
夢のなかの
シチュエーションとか舞台装置って
ほんと 謎だよね。
今朝見た夢もやはり
キテレツきわまりなかった。

いまわたしがじっさいに働いている
職場の仲間たちといっしょに、
帝国ホテルでバイトをしていた。
大規模なパーティー
お給仕の仕事だ。
外国から招かれたシェフが
お料理をてがけた。

パーティーがおひらきとなり、
お料理がかなりたくさんあまった。
捨てるのはいかにももったいないので
(より正直にいえば、ぜひとも食べたかったので)
シェフに 
これ食べてもいいですかと聞いたら
温かいうちにおあがりと いってくれた。
わたしたちはみんなで 
残ったお料理を
おいしくいただいた。
わたしはカレーチャーハンをもらった。
バターチキンカレー風味で
辛いものがまったくダメなわたしにも
ちょうどよい。
野菜もたくさん はいっていて
たいへんおいしかった。

という夢だった。

か、カレーチャーハン・・・???

感覚としては、
おいしかったし、
温かかったし、
楽しく、うれしい夢だった。
内容をよく覚えていた。
そういうことはめったにない。
これさいわいと
あとでインターネットで てきとうに
「高級ホテル」「大宴会」
「パーティー」「チャーハン」
「カレー」などといった
キーワードに
「夢」「心理」「分析」を加えて 検索。
すると
性格的に暗いところのあるわたしには
ほんとうにめずらしいことなのだが
よいことの前兆ですよ的な
分析 見解ばかりがでてきた。

高級(そうな) ホテル
・・・これまでになかったような幸運
   決定的な出会いのおとずれ
   交友関係の拡大と発展

宴会(場) たくさん 人
・・・人との交流がさかんになる


ホテル 食事 たのしい
・・・気力 体力の充実
   相手が異性ならば恋の予感?
   (異性、登場したけど職場の弟たちだからな笑)


プロ シェフ 料理 作ってもらう
・・・想定外の幸運 
   

料理 おいしい
・・・環境に満足している、将来願いがかなう


(あたたかい)チャーハン 食べる
・・・幸運の予兆 吉報のおとずれ
   現在の環境への満足度が高い


おいしい カレー
・・・ものごとがよい方向に向かっている


カレー 食べる
・・・刺激や成長への欲求


外国人 
・・・環境を変えたい、変わりたい
   おおきく生まれ変わりたい


シェフ
・・・努力をかさねることで念願がかなう
   近い将来 念願がかなう


ネガティブな内容の暗示もあった。


ホテル 働く
・・・人間関係で苦労する
   出会ったことがないタイプの人に出会う
   人に強い影響を受ける


夢に職場の仲間があわられる
・・・職場の人間関係に悩んでいる


「チャーハン」などという
具体的な料理の
夢と心理の分析がなされているなんて
知らなかった。
「ワイン」「野菜」といった
古来からある食べものならば
昔から 心との関係を
研究されていそうだな、とおもうが
チャーハンて わりとこう・・・
新しいというか 通俗的というか
現代っぽいというか。


いや 
しかしこの結果は・・・
これ おおむね かなりイイのでは。
イイ波が きているのでは。

なにしろ今年はおみくじも
大吉だったからね!


・・・

今朝、ねぼけてよろけて
床に 手をついたときのことだが

敷いてあったカーペットの
てざわりを 感じたその瞬間
あ、この感触は
昔 実家で世話をしていたネコの
あの毛並みに 似ているのだ、
と気づいた。

ネコは、東日本大震災発生の
およそ3か月後に死んだ。
震災直後から弱りはじめ
おかしいと気づいたときにはもう
腎臓と肝臓をわるくしていて
手遅れだった。
あの時期はヒトにとって非常時。
直接の被災者かどうか
なんてことにかかわらず
日本中きっとみんな 
心が落ち着かなかった。
動物にも心があり 
その心はとても繊細だ。
あのネコも、
飼い主であるわれわれの 
ふだんとおおいに違う 
さしせまった心を
敏感に かんじとって 
ストレスとして体にためこみ、
ネコの弱点になることのおおい
腎臓や肝臓に顕著にそれが出た、
というのも
おおいに考えられることだとおもう。
なにせあの震災のすこしまえに、
動物病院で健康チェックを
してもらっており、
そのときはあきらかな不調は
発見されなかったのだ。
しかし
おもえば当時10歳で
人間でいえば50代後半のけっこう
それなりの年齢でもあった。

ネコが死んで、
わたしはとてもかなしんだ。
といっても ほんとうのところ
かなしむ資格が あったかどうか。
弱っていくのを見るのが怖くて
ろくろくそばにいてやらず
看病にも消極的だったのだ。
それを いまも悔いている。
当時も恥じた。

あのちいさなネコが、
たったひとりで病気と向き合い、
死を受け入れる過程はきっと
並大抵のものじゃなかったろうと。
なぜ そういうことにいっしょに
むきあってやらなかったのか
いっしょにむきあうことができないまでも
体をふいてやるとか
添い寝でもして 
荒い息遣いを 夜通し聞いていてやる
くらいのことを
してやらなかったかと
後悔してる。いまも。
どうせ心配で気がかりで
部屋でベッドに入ったって
ろくろく眠れてやしなかったんだから。

死んだときはとてもかなしかった。
初夏の明け方のことだった。

いちばんつらかったのは、
火葬にしてもらい、
お骨になって 
ネコがもどってきたときだった。
お骨のポットを いくら手でなでても、
もうあの ふさふさの体の
毛並みのやわらかさ、ぬくもりを
感じることは二度とできない
と、わかったときの
さびしさといったらなかった。

そういうさびしさを、
今朝、ねぼけてふらついて
カーペットに
手をついたときに まざまざと
思い出した。
あのときの
かなしかったきもちを
ふたたび体験した。

けれども、
カーペットの手ざわりは
ほんとうにあのネコのものに
よく似ている。
とてもなつかしいと感じたし
うれしかったこともたしかだった。

わたしはネコに
何もしてやらなかった。
あと、ネコはわたしを嫌っていた。
ネコが、われわれと10年一緒に過ごして
たのしかったか そもそもわからない。
捨てネコだったから 
外で暮らしていたほうが
気ままでよかったのかもしれない。
でも ネコは
あの かわいらしさや 
ツンとした冷淡さや
ヒザにのってきたことや
おやつをねだる鳴き声や
ヒザにパンチを食らわせてきたことや
あたたかかったことや
やわらかかったことで
つまり一緒に生きてくれたことで
何度となく
わたしのなぐさめになってくれた。

覚えている。