BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

雪/フラッシュバック/スピノザ「エチカ」-190209。

すこし雪が降った。
庭がうっすら お化粧してる。
あしたの朝になったら
凍ってるかも。

・・・

金曜の夕方ごろから 
いまおもえば
かすかに予兆があったが
(寒気とか指のふるえとか)
今日になると
より重く調子を崩していた。

ここ数週間でかんがえても
深刻な悪夢と
フラッシュバックにみまわれた。

ものすごい汗と涙だった。
3回着替えた。
マットレスからなにから
ちゃんと干さないといけない。
今夜はベッドでは眠れない。
ちゃんとかわいてないから
このようなもののうえに
体を横たえたら
カゼをひいてしまう。

連休で 
明日もあさっても寝てていいので 
幸運だったが、
ひとりぼっちの負けいくさという
強制イベントに
昼夜も時も場合も
関係なくトライさせられ 
しかも100パーセント惨敗という
このみじめさ、さびしさは
3日間寝てていいよなんて程度の
ごほうびではとうてい解消されない。
ごほうびっていうか
寝てなくちゃいけないのは
フラッシュバックのせいなんだし涙

すごくさびしい。



だけど まあ・・・





あ ダメだ
「まあ・・・」のあとに
うまいこと 
思い浮かばなかった。




・・・

スピノザの「エチカ」の
読書会に友だちが 
行くっていってた。

そのことを聞いた翌日くらいに、
本棚を整理していて、
岩波文庫「エチカ」
上下巻ともでてきた。
その日のうちに読み返した。

よく考えると
スピノザの読書会に
こんど行くんだ~とか
言う友だちが 身近にいる
わたしの交友関係も
なかなか どうかしてる。
そんな友だちばっかりで
身の回りが いっぱいだったら
疲れちゃうのかもしれないけど
その友だちがいてくれることを
わたしはとても喜んでいる。
※わたし自身も自分の友だちに
「こんなやつが何人も友だちにいたら疲れるわ!」
と 思われる系の人間であることを 
ちゃんと自覚している。

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前に読んだときよりは、
理解できた。

平易な解説本なしに、これ単体で、
哲学科の学生でもないのに、
独力で、数年おきに「読む」
ただその行為だけで、
ここまで理解できてきたこと
自分をほめてやってもいいとおもう。
解説本なしに
単体で読んできたのは
単に 一般教養として
スピノザ読んでないのに
読書が好きとかあんまり
言えないよね的な)
読んできただけで
すごく理解したいという
意欲があってのことじゃ 
なかったからだが。

でも、おもえば
やってきたのは
「読む」ことだけではない。
読む側の、つまりわたしの 
中身が変化している。
「生きてきた」のだ。

前に読んだときは 
なかったことで、
今はある、というのが
自覚できるかぎりで4つ。
これらが、わたしに前よりも
エチカを理解させたと確信する。
しかもいままでよりも
理解度がジャンプアップした感がある。

4つとは、
暴力と威圧によって心をおさえつけられる経験。
自殺を真剣に検討するという経験。
シュタイナーを読みだした。
スウェーデンボルグを読みだした。

これらは ほぼ 書いた順番のとおりに
わたしの身に起こった。

キリスト教神学および信仰に
明確に立脚する哲学に
触れる機会をえたのは、
エチカの理解をすすめるのに
大きかった気がする。
それに、
外から心を強く抑圧された
時期があったことと、
その結果のいわば究極形であるところの
「希死」を経験したことは・・・。


いつからか、考えるようになった。

・怒鳴られ吊るしあげられ物を投げつけられて、
 イヤだと言わなかったのはなぜなのか。

・「逆らわない」ことを
 選んだ、ということは
 それがわたしの望んだことだと
 つまりわたしの意思だったと
 言われてもしかたがないのではないのか。
 なのにもし そう言われるとなると
 納得がいかないのはなぜなのか。

・だれの人生なのか。

・だれかのうまくいかなかった人生を
 かわりにうまくやりなおすために
 わたしは生まれてきたのか。

・生まれたからには 
 生きるようにできているはずなのに
 その反対の方向にいきたいのはなぜか。

・わたしの意思はどこにあるのか。

わたしの意思は 
消えようとしていたんだと
今はおもう。

でも、
スピノザ
スウェーデンボルグ
シュタイナーも 
わたしの気づいたことの
さらにその先をいく。

自由とは、自由意思とは
そこについての考えが、
さらにもう一歩も二歩も新しい。
自分の観念をたよりに
うんうん考えて
たどりついたところに
さらなる発想の転換をせまられる。

それぞれおよそ100年ずつも
生きた時間がちがうのに
3人とも 考えかたはちがうのに
3人とも 言っていることが
基本的におなじなのはおもしろい
3人とも
同じ大河から
同じ水をくみ上げているが
汲んだ場所と 使った器がちがう
そんなかんじ。

新しく感じるけど
3人ともわたしよりも昔の人で
その意味では古いのだ。
たぶん
ほんとうのことだから
いつの時代にも変わらないのだ。
変わってないのに、新しい。
新しいと感じるということは
知っていてもいいことなのに
忘れてしまっているか
考えられなくなっているか
正しいことなんだけど
すごく時間をかけて
考えないとたどりつけないのか。

「自己の本性の
 必然性のみによって存在し
 自己自身のみによって
 行動に決定されるものは
 自由であると言われる。
 これに反して
 ある一定の様式において存在し
 作用するように
 他から決定されるものは
 必然的である、あるいはむしろ
 強制されると言われる。」
(エチカ 第一部 定義七)

自分がどういう人間かを
よく知ることがだいじだよと
スピノザは言っているんだとおもう。

自由は喜びだから善
強制はかなしみだから悪と
この部分より以前に
はっきりと定義されている。

自分という一個の人間の性質、
性格、なにが好きか、
どんなことに喜びを感じ
なにをするとき幸せで
それをしているとき
自分が成長できると
感じることは何か、
どうしたらそれをやる場所に
いることができるのか
自分が楽しいことを
探すことがたいせつなのだ。
どうしたらやれるかを
考えることが必要なのだ。

なぜなら
自分の性質とか
性格傾向といったものこそが
スピノザのいう
「本性」なのであり、
本性に従って生きることは
すなわち
「自由」への道だからだ。

本性は各個人に備わっているもので
それが各個人の自然なありかたなので、
変えるとか矯めるとかいった
たぐいのものではない。
だから
「本性の必然性」とスピノザは言う。

汎神論者であったはずの
スピノザにしてみれば
人間存在も
神のあらわれ 神の一部だが
人間は有限の存在で
みんなちがう。でもそのみんなが
同じ空間に何人も生きている
そうとなれば
現実的な都合や外的制約もあり
すべての人間がほんとうに完全に
自由になれるわけではない。
ほんとうに自由でいられるのは
スピノザに言わせれば
神さまだけだ。

でも、完全に自由ではなくても、
「すごく不自由」から、
「かなり自由」を目指すことはできる。
心の奥からこれがやりたいと願って、
それをやって、幸せで、
成長できているなあ、
社会に善く作用できているなと
おもえることに
近いことを、やれないか考える。
それが まったく不自由よりも、
かなり自由に近づくということだと
言いたいのだとおもう。

だから
自分の性質をみきわめること
本性を知ることにもっと
まじめにとりくんでいい。

人は神さまとちがって 命に限りがある。
一生懸命 活きる道を
考えたほうがいい。
本性を活かす、自由の道は
複数見つかるかもしれない。
見つけたら、だいじにする。
禁じてくる人 
ばかにしてくる人
じゃまをする人
ふみにじろうとする人には
怒っていい。
「ある一定の様式において存在し
 作用するように 他から決定される」
つまりたとえば 
女なんだからこうしなさい
男たるものこうであれ
何歳になったらこう
何歳にもなってこうなんて
今どきの人はこういうのが好き
今の人はこうされるのがきらい
こう言っておけばいうことを聞くだろう
おまえはこれでもやっていなさい
それが一番人の迷惑にならないから

・・・
そのように言われて
「こうあれ」と押し付けられる
そんな扱いをうけたと感じたら
怒っていい。
そんなしうちを
自分の心が受け入れようと
していることに気づいたら
すぐに勇気を出して
はねのけたほうがいい。
押し付けられることは、
押し付けられることを受け入れることは
自由から遠ざかることであり
個人が自由から遠ざかることは
社会全体が一歩後退することと
おなじといってもいい。
個人の自由の矮小化と
社会の後退は
スピノザ的にいえば
かなしみだから、悪なのだ。

もちろん、自分も
人の喜びを禁じたりばかにしたり
じゃましたり ふみにじったり
するべきではない。

わたしは
本を読むことによって
吸収はたくさんしてきたとおもう。
でも、体験が足りない。
体験することで、
吸収ずみのいろんなことを
確認できるんじゃないかなと
考えてる。
体験は 生きていないとできない。
いまは自殺したいとは
基本的にはおもわない。