BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

2019あけましておめでとうございます。-190104。

少々おくればせですが、
あけましておめでとうございます。
わたしと 直接おつきあいのあるかたにおかれましては
本年もなにとぞ よろしくお願い申し上げます。
つきあいが今はないかたも 偶然にせよなんにせよ
このブログをのぞきにきてくださって、
ほんとうにありがとうございます。
ぜひ、またいらしてください。

・・・

以下、常体にさせていただきます。

・・・

旧年12月24日あたりからブログを書いてなかった。
べつに 
クリスマスなのにまたもや ひとりぼっちであることに
おちこんで ブログを書く気力もなかったとか
そういうことではなく(まあ落ち込んではいたが笑)、
年の瀬ということもあり
こんなわたしもそれなりにいそがしくしていて
よゆうがなかったからだとおもう。

・・・

いろいろ書きたいことはあるんだけれど
まとまらない。
どなたにとっても 
ほぼどうでもいいであろうことばかりだが
わたしにとってはどれも 
大事なことだったりする。だから
やっぱり書きたいとはおもっている。
時制とかめちゃくちゃになるとはおもうけど、
気が向いたときに 書けそうなところから
書きたい順に書いていくつもりだ。
でもそうやっているうちに
やっぱどうでもいいか、ってなって
書かないこともたぶんいっぱいある。

・・・

この大晦日から元旦にかけてだが、
八王子から特急にのって山梨県にいき
北杜市内の禅寺に滞在して
豚汁をつくったり座禅を組んだり
子どもと遊んだり大人と遊んだり
ご飯を作って食べたり
ワインを買ってきて飲んだりしていた。
今年はご来光とか見ようかなとおもって
まわりの人に、見に行くときは
起こしてくれといちおう頼んで休んだ。
彼らはちゃんと起こそうとしてくれたんだけど
まったく記憶がない。
夜中の3時の時点で
ワインを3杯は 飲んでたからなあ。

元日の午後、子どもたちにお年玉をわたし、
近いところに住んでいる人の
車に乗せてもらって、夜、帰ってきた。

この お正月に山梨のお寺でうんぬん
というのを わたしはこの6年~7年、
だいたい毎年 やっている。
直近2年は自分がほんとうに
心身の調子を崩して ひどい状態だったから
行かなかったけど。
それで、年の瀬に友人とかと 冬休みはどうするの?みたいな

話になったとき
わたしは山梨の寺で座禅・・・となるんだけど、
どんなに話しても伝わった気がしない。
イヤ、ほんとたいしたことではなく、
ただ山梨のお寺で座禅を組んだり
豚汁を作ったりお酒を飲んだり
子どもと遊んでお年玉をくばる
というただそれだけなのだが。
あと、お風呂にはいったり、鐘を撞いたりとか。
でも ほんとにいろんな要素がからみすぎてて
話しても伝わらないみたいなのだ。
だが、たいしたことではない。
きっと みなさんも
わたしと一緒にお寺に来て
同じ時間をすごせば、わかる。
べつに、少しもへんなことしていない。
まあ、世の中には、
名前のつけようのない人間関係ってものが、あるのだ。
(わたし、イイこと言った。)

お寺に高校生の息子さんがひとりいる。
彼は旧年春からサッカーの強豪校に進学
寮に入って日々部活にあけくれているそうだ。
晦日におうちに帰ってこられたのをみて、
あんまりりっぱに成長してておどろいた。
まえはすっごく・・・
こういっては彼になんだが ちっちゃくて・・・
いわば座敷童子みたいなかんじの・・・
とっても色白さんで 
すっごくかわいい男の子だったのだ。
それが、背が伸びて お母さんを軽く追い抜き・・・
端正なお顔はそのままに 真っ黒に日焼けし
男の子ではなく「青年」へと変貌を遂げていた。
男子三日会わざれば、いうけれども
2年会っていなかったわけだもんな・・・
スゴイものだ。

元日にみんなとおわかれするときに
子どもたちにお年玉をわたした。
体調を崩して退職し
フリーター生活となったのもあり、
収入がやや減っているわたしは、
例年にもまして わずかな額しか
用意してあげられなかった。
何回か前の、このときは、
ある子に 
中身が「図書カード」なのもさることながら
金額が少ないことに露骨にガッカリされ
「これ現金化できるよね?」と
聞かれてしまった 苦い思い出がある笑

york8188.hatenablog.com


今年は あれよりももっと少ない額のうえに
しかもやっぱり図書カードだった。
でも、
その子もふくめ だれもがとても喜んでくれた。
すこしずつおとなになってるんだなあ・・・涙 
と なにか非常に感慨ぶかかった。

お寺にこなかった2年間、
どうしていたか、元気だったかと聞かれ、
じつはかくかくしかじかでと
前職のいざこざなど事情を話した。
すると、ご住職が
「そんなつらいことがあったのに、
こうしてまた元気に寺にきてくれて、
ほんとうに仏の加護に感謝します。
でも、つらいときこそ、
寺を頼ってくれたらよかったのに。
なにかしら 力になれることがあったかも。
寺に何日でも泊まって
何もしないで寝ていてくれてもよかった。
俺、頼りにされないんだよなあ・・・」と。
それを聞いて、
わたしも 
このお寺と何年もおつきあいがありながら
どうして頼れなかったのかと。
頼ってくれたらよかったのに、と
ざんねんそうなご住職の顔をみて、
すごくわるいことをしたなともおもい
おきもちがとてもありがたくもあり、また、
なにか、すごく自分の心が
まずしくて つまらないように感じ、
なさけなくって 涙がでそうになった。

お寺を頼れないとか おもったどころか、
心を救ってほしくて 神仏を頼るということを
おもいつかなかったのだ。

でも、わたし たしかにまいってた。
体の内側から発火しそうなほどの
強烈な憎しみや怒り、失望、屈辱感
かなしみと孤独で 
ほんとうに さしせまったきもちだった。
こんなきもちをかかえて これからも
生きていかなくっちゃいけないなら
もう生きていたくない、と 思いつめた。
そういうどうしようもない心を抱えたとき
むかしの人は神仏にすがったのかも。
わたしにはその選択肢は見えず
けっきょく頼ったのは医療だった。
頼れる医療がなかったから、
人びとは神仏にすがった ともいえるのだろうか。
どうもそうともいいきれないようにおもう。
神仏におすがりして憐れみを乞う
っていう純な信仰が
まえはもっと いまよりもずっと自然に
だれの心にも あったんだろう。

ご住職のきもちを
傷つけてしまったかも。

でもご住職は
ふつうに座禅会に参加させてくれ、
まえに教えてくれたのと
まったくおなじことでも
わたしが忘れちゃってるところは
もう一度最初からていねいに教えてくれた。
お堂の仏さまも 2年前まで毎年きてたときと
まったくおなじお顔だった。

・・・

旧年はつらいことがおおかった。
たいへん忙しかったこともあり
どうにも疲れてたこともあり
映画もあんまり観ておらず
本もぜんぜん読まなかった。

でも映画はまあまあちょっとは観てて
いいとおもったものもあった。
別エントリで振り返りたい。
今年は年間100本、うちスクリーンで50本を
目標に 映画を観たい。

読書にかんしては
今年はキリスト教神学関連の本を
できるだけ読んでいきたい(急に!!!)。

夏ごろ、デンマークに行きたい(急に!!!)。

・・・

きもちという意味での
年間目標が ひとつある。

「他人も自分も徹底的に甘やかす」。

〇〇なんて許せない!とか
カタいことを言わない。
おおくの場合
許せないとかいうほどなんともおもってやしない
テキトーでだらしない自分を認める。
心にもない見せかけによって
むだに他人を追い詰めない。
でも「許せない」って口にする人のことも
もちろん甘やかしてやさしくする。

自分がされてしんどかったことを人にはしない。
人にやさしく 思いやりをもって接する。
かなしむ人や落ち込んでいる人をみたら
となりにすわって背中をさする。
されて しんどかったことを 
忘れるのは難しいが
やさしさに 救われたことも
いま一度思い出し、心の浅瀬に留め置く。
やさしくしてくれた人がたくさんいたおかげで 
ここまで生きてこられたのだから。

そして自分にも甘くしていく。
たとえ何者でもなくても、どんなであっても
おまえはただ生きていていいのだ、と
言ってはもらえなかった。だから

自分で言う。
許してはもらえなかったから 自分で許す。

やりたいことだけやる。
やりたい勉強だけやり
考えたいことだけ徹底的に考察する。
うっとうしがられようと無視されようと
書いて書いて書きまくる。
読みたい本だけ読む。
ほんとうに会いたい人と
会いたいときにのみ会う。
行きたい場所にのみ
勇んで足を運ぶ。
使いたいものにのみ
糸目をつけずお金を使う。
あきたらなにごとも 躊躇なくやめる。

許してもらえるかどうか
怒鳴られないかどうか
何を言われるか
離れたいま、気にしないで済む。
離れていれば、
もとより 自分は自由なのだと
完全におもうことができる。
だから今こそ 
自分が何を考えているか
結局何がしたいのか、
結局何もしたくないのか、
今はまだわからないのか、
誰を愛しているのか、
誰のことも愛していないのか、
何が好ましいのか、
なにがきらいなのか、
なにがどうでもいいのか、
耳をすまし、目を凝らし、
こまかく発見、よりわけ、相対化し
理解したい。
もう、見失いたくない。

それが 必要なことと信ずる。