BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

宇多丸アトロク/他者を頼るまえにやること/指摘することされること-181122。

ライムスター宇多丸さんの
ラジオ
「アフターシックス・ジャンクション」
(アトロク)の、とあるコーナーの
きょうのゲストは
なんかあんまり、
宇多丸さんと反りがあわなかった。
というかようするに
ゲストが「本物」じゃない人だった。
テーマとしても
語るに値しない題材だった
ということになるとおもう。
旬の話題、新しいものを
とりあつかうときは
「新しいということ」がまずだいじで
それがこれから先もずっと
変わらず在りつづけるものかとか
そういうのが二の次となることは
わかる気がする
ただ
素材がよくなきゃ
どうがんばって料理しても
限界はあるというもので。

それは伊集院光さんの朝の番組でも
おもう。
インタビューのコーナーには
いつもすごいゲストがきてるけど。
ひとりだけ、
「この人はその道において
『本物』とはいえないし、
『その道』もおそらくない。」と、
わたしでさえ感じたゲストがいたな。
伊集院さんは、深夜のひとり語りの
番組にくらべるとかなり
自分を抑制し
おりこうさんにはしていたが
それでもゲストにちょっと
イジワルしてやろうかな、
はがれたくない皮をちょっとだけ
はいじゃおうかな、
そんなきもちを隠していることは
かなりはっきりつたわった。


宇多丸さんは、
とてもうまくやっていたとおもうが
人間だし、とうぜん
合う合わないはある。

アトロクには
新進ミュージシャンの
ミニライブコーナーもある
宇多丸さんはだれのことも
けっして悪く言わないし
いつでもちゃんと
それぞれの特色や良さを楽しく語って
コーナーを成立させる。
でも、
宇多丸さん自身がすきな音楽か、否か
興味があるか、ほんとはないか
いい音楽とおもってるかそうでないか
聞いてるとけっこうすぐわかる笑

・・・


なにかのきもちにさいなまれて
悩み、人を頼りたくなったときは、
できることなら
さらにふみこんで
そのきもちの分析を
こころみるべきだとおもう。
たとえば
そのきもちはなんだとおもうか。
不安、わからない、という
きもちだとおもわれる、
ならば
なにが不安か、とか
なにがわからないか、
不安だから、わからないから
それではどうなりたいのか
安心したい、わかりたい、とすれば
どうすれば不安が解消されるか
わかるようになるとおもうのか
せめてそこまで
まちがっていてもいったん
けずりだしてみてからでなければ
他者に助言をこうことはむずかしい。
漠然としたきもちをいだいたまま
他者にしがみつくようでは
ちいさな赤ちゃんとおなじだ。
それに、他者にこちらの心を
そんなにちゃんと分析してもらえる
わけはないし、
こちらとしても他者の心はわからない。
自分のだってろくにわからないけど、
自分の心くらいは、ていねいに見て、
ああこんなかんじなんだなとか
考えてやるべきだとおもう。
それをたまにでもしとかないと
(欲望の内容を大づかみにでもしておかないと、)
よそさまを急にたよっても、
よけいに心がかきみだされる。
頼られたほうもこまる。
なにをしてほしいのか
わからないから。
絶えず見ておかないと
自分の心でさえすぐに見失う。
だいじなのはやっぱり
きもちの名前か、
もしくは
自分がどうしたいのか、
ということだとおもう。
それがわからないうちは
よそを頼るべきではない

でもおのれの心をさらってみる
という行為じたいにぴんとこない人、
苦手な人、
壊滅的にへたくそな人もいる。
ときと場合によっても変わるし、
程度と精度が。
ほんとうにだめでできないときには
専門家の力をかりる手もある。
わたしもカウンセリングの
おせわになることがある。


・・・


勤務先でのこと
原稿の表記に、一部規定違反と
みなされるおそれのある箇所を
発見したため
その案件の営業担当者に
内容をつたえた。
だが、クライアントが休暇中で
もう連絡がとれない状況にあり
かといって承諾をとりつけずに
原稿の内容を変えることは
もちろんできないので
規定違反のおそれありだが
このまま出稿ということに。


数時間後、わたしが別室で
休憩をとっていると
その営業担当がやってきて
「さっきはすみませんでした」と
あやまってくれた。
「自分が気づかなかったことに気づいて、
正しい指摘をしてくれたのに
感じがわるい反応をしてしまった」。

え、そ、そうだっけ!???
とおもったが
さっきのそのときから
この数時間
ずっと気にしてくれてたのか
と考えると
しょんぼりしたようすで
すなおに頭を下げにきてくれたのが
なんだか
たまらないきもちになった。

おもうのだが
やはりこれが正しい問題はないと
確信にもとづき作ったものに
あとから「まちがい」や
なんらかの瑕瑾、不足、不備を
指摘されるのは
だれにとってもそりゃあ
あんまりきもちのいいもんじゃ
ないんだとおもう
それに件のような場合は
クライアントの都合もからむ
クライアントの承諾をえられないとか
あるいは
じゃっかんすでに燃えてる案件なので
これ以上のやっかいごとは・・・
みたいな事情があると
クライアントとじかに向き合ってる
営業担当はいろいろつらいのだ

指摘する側も指摘する側で、
たのしい作業じゃけっしてない。
総じてうれしいリアクションとかは
約束されてないものなのだから。

かんたんにいえば
率直に非をみとめるすなおな態度と、
すみやかにかつ穏便に改める対応力、
いやなきもちにできるだけさせずに
まちがいを指摘する対話力と、
改めるようにさとす説得力
これらがそれぞれに
求められる。

こりゃ子どもにはむりだ笑

そういえばほんとうに
ずっとまえのことだが
やはりこの勤務先で
にたような場面で
表記上の不備を校正に指摘されて
営業担当がへそをまげ
まわりにいたほかの営業たちに
原稿をみせて
これは不備だとおもうかどうかなどと
「多数決」をとりだしたことが
あったときいてる
多数決もなにも、規定なのに。
そんなことを目の前でやられたら、
正しい指摘をしたのに、校正は
たまったものじゃなかったろう。
たぶんとても傷ついたんじゃないかな。
正直に
「一生懸命作った原稿だから
なんかケチがついたように感じて
ショックだ」
とか
「もうクライアントと話せる雰囲気
じゃないからそっとしときたい」
とか
言ってくれればまだかわいげがあるが
(現実的じゃないが。)
その営業担当は当時
全社的にも最年少の部類で
たしか20歳になったかならないか
くらいだった。

やはり子どもにはむりだ笑

仕事で必要なことを
やってるだけなんだけど
やっぱり人間同士
うまくいかなかったりする。

おたがいさまだ。

正しくやれないことや
傷つけあってしまうこともある。
だけど基本はだれもが
ちゃんとやろうとして
一生懸命なんだということを
理解しあっていればそれでいい
むりしないで、それなりでいい。
よゆうがあるときに
できる範囲で許しあって、
あまり深刻にならないほうがいい。


正しい指摘をしてくれたのに
感じが悪い態度でごめんなさい、
なんて
あやまりにきてくれたことを
わたしはこれからもぜったいに
わすれないだろうな。
そういうのがいつまでも
わたしもちゃんとできるようでありたい。


わたしがよゆうがあるときには
基本的にこういうのは
まるごと受け入れて流す準備でいたい。
わたしもいろんな人に
何度も笑って受け流してもらっている。