BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想をおもに記録しています。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

露出狂のかたと話が合うかもしれない-180823。

ほんとうに多くのかたが
当ブログにお越しくださるようになって
驚いている。
ありがたいことだ。
というのも

読まれなくなるであろう方向に
舵をきったからだ。

まえは
SNSを利用していた。
「ブログを書きましたよ」という
お知らせと ブログのリンクを
そこに投稿していた。
その投稿は 
友だち限定公開に設定していた。
それが 
昨夏、おもうところあって
あらゆるSNSから完全に撤退した。
だから
通知のたぐいもいっさいしなくなった。
ついでにパソコンが壊れちゃった。
いまや当ブログは
携帯電話の画面から
入力しているしまつ。
しかもスマートフォンじゃなく
ガラケーの物理キーで
コチコチ打って入力してる。
(追:19年2月現在 パソコンは買い替えて
新しいものをつかうことができている。
SNSをやめたのは昨夏のこと。
いまもガラケーユーザーであり
3回に1回はガラケーからブログを
更新している)

当ブログを読んでくれているかたは
面識のある友人に
かぎられるとおもっていた。
その友人たちだって
わたしがSNS
「ブログ書きました」通知を
していたからこそ、
たまにはそのリンクをクリックして
ブログを見にきてくれていたのであって、
わざわざブログを
ブラウザにブックマークして
わたしが知らせなくても積極的に
ブログを訪れてくれることなど
まずありえない 
そうおもってた。

だからSNSを完全にやめたからには
ブログ開設当初みたいに
アクセス件数が週に10件もあれば
スゴイ!やったね!というところから
またやりなおしだなと
ふつうにそんな程度に考えていた。

ところが SNSをやめ
「ブログを更新しました通知」もやめたのに
それを実施していたときよりもむしろ
きてくださるかたが増えたことを
把握している。

SNSをやめるけど、
ブログはあるから
気がむいたらみにきて」と
URLを伝えておいた友人もいるが
・・・これ気がむいたら読んで、と
よく知りもしない作家の本とか
ポンとわたされて
ほんとに読む人種はまれだ
たぶんわたしがしるかぎり
わたしくらいのものだ笑
(わたしはそれでも
人に贈り物をするときは
たいてい本を選ぶのだが。
ほかになにも思いつかないので)

SNS通知をやめて
ブログだけになっても
見にきてくれるとは おもってなかった
ありがとう

SNSと、
それによる投稿通知をやめたことは
わたしを確実に図にのらせた。
具体的には ブログを
だれにもいちいち知らせないで書いてるから
何書いたってかまやしないだろう感が
すごくつよまった。
知らせてない、と 読まれてない、が
わたしのなかではほとんど等しいのだ。

「友だちにきらわれるようなこと、
非難されるようなことは書くまい」
という心のリミッタが
SNSをやっていたときには
それなりにあった。

SNSをやめても 読みにきてくれる
友人がいるらしいとわかった以上
SNSをやめたから
だれもどうせ読んでないから
何書いたっていいや」感をあらためて
いまいちど
心の手綱をひきしめなおすべきだが
なんかもう ひきしまらない笑
もう、ゆるめるだけ ゆるめちゃったし、
快適でしょうがないのだ。

だが
「ブログを書いたよと知らせないのに
それでも見にきてくださるかたがいる」
という事実は
すごく心の支えになってくれる。
だれが読んでくれているかまでは
わからないし
特段知りたいともおもわないのだが
(見にきてくれる人 全員の属性を
仮に円グラフにしたならば、
いちばんパイがおおきくなるのは
ごくしたしい友人のはずなのだが、
たまに、え!あなたが?!みたいなかたが
「じつは読んでるんでげす」
といってくれることも
なきにしもあらずのため
こればっかりはほんとに謎なのだ)・・・
でも間違いなくだれかが読んでくれている、
とおもえるのは大きいし
それは非常にたいせつだ。

・・・
そんなに 読まれることがたいせつなら、
なぜSNSと、それによるブログ更新通知を
やめたのか。
読まれたいとおもうなら
続けておけばよかったのに。
・・・たしかにそうなのだが、
わたしはSNSをやめた。
わけを簡単にいうと
わたしは弱いからだ。
合目的的にSNSを利用するならば
そしてその目的を
「より多くの人にブログをみてもらう」
とするならば
SNSのアカウントを
友だち限定などでなく
完全公開設定にし
知っている人も知らない人も
申請してくれる人は
かまわず友だちとして迎え入れる
SNSを、そこの「友だち」を
ブログ更新通知という
自分の目的のみにつかう
ユーザーとの交流などは行わず
ともだちの投稿なども読まない
・・・というふうにやればよかった。
だけどわたしにはそれは
不可能だった。
わたしは知らない人とは
友だちになれなかった。
SNS上の人とのかかわりを
じっさいの人間関係とおなじように
あつかった。
というかじっさいの
人へのアプローチよりも
SNS上の人間関係のほうが
わたしはなんだか妙に こだわった。
たぶんテキストであるから
文字情報であるから
強く反応してしまったんだろう。
それに、人の投稿を読むことが
それほど自分にとって
益ともおもえないのに
なんか、つい、読んでしまった。
人の動向が、やけに気になった。

でもよくよく自分の心のなかを
さらってみるに、
そういうことをやっているとき
つまりSNS上にいるとき、
自分はかならずしも
幸せなきもちじゃなかった。
幸せなきもちじゃなかったのだ。
むしろ、
傷つくことやかなしむことのほうが
おおかった。
気にしてもしかたがないことを
気にして落ち込むことのほうが
おおかった。
つらかった。

それに気づいたとき愕然とした。
もうとてもじゃないが
やってられなかった。
わたしの心の主体が 
「わたし」じゃなくって
(「わたし」であることはただでさえ少ない)
SNSになっちゃっているというか・・・
ようするに ふりまわされている。
弱い、ということだ。
そして
つらさからの解放を求めるきもちのほうが
「だけどSNSをやってないとブログを読んで
もらえる確率がさがるから、やらなくちゃ」
というきもちよりも つよくなった。
だから SNSを完全にやめた。

逃げたということであるかもしれないし、
身を守りたかったということかもしれない。
傷つき、つらい思いをすることから。

結果 SNS上における
友だちづきあいが
なくなったことになるが、
ほんとうにそうなんだ、なくなるんだ
とは 考えてなかった気がする。
というか
すくなくともSNSやめようと
考えた時点では
SNS上における友だちづきあい、
なんてものは ないのだと
理解していたふしがあった。
そうでなければやめるのを
もっと迷ったのではないか。

SNSをもしやめたなら
友だち関係が希薄になり
さびしいかもしれない、
でも、
SNSをやめても
やめたくないとお互いがおもうかぎり
友だちづきあいは続くのだろうし
仮にわたしのほうが
SNSやめてもつながっていたいと
相手に対しておもうのであっても
SNSやめたのか じゃあもういいやと
相手におもわれるようなら
その程度のものなのだと
こういうときいかにも
よく言われそうな
とうぜんのことを 
考えたのだとおもう。
お互いのあいだのことだから、
わたしだけの都合で決まらない部分も
あるのだ。それが人間関係。
それらの経緯あって
ぜんぶを おそらく
語源により近い意味で
「あきらめた」。

SNSを「やめなきゃよかった」と
おもったことは 今まで一度もない。
ただ撤退した当初は 
なんとなくさびしかった。
とくにFacebook
アカウント削除の手続きをしてから
2週間の猶予期間があった。
期間中にログインをすれば
アカウント削除はなかったことになり
また再開できる、という仕組み。
だからそのあいだは
SNSにつなぎたい衝動に
幾度か かられた。
でも、2週間経たないうちに
そのきもちも うすれていって、
やがて、なくなった。

改めてこう書くとなんか 
はずかしいし
徹頭徹尾 ばかばかしく
些末でもある。でも
弱いわたしには 当時、
ばかばかしいことじゃなかった。
けっこう大きいことだった。

だが、
誰かまではわからなくてもいいんだけど
やっぱりまったく読まれないこと前提で
カギ付きの日記帳に
なやみごとなんかを
書きつづるよりは
読まれていること前提で
読まれてもいいように
自分の思いをさらしたい
そしてあわよくば批評されたいし
何かをおもわれたい
というきもちは やはり強い
強い。おそらく人一倍強い。
自己顕示欲というのかなんなのか。
とにもかくにも
おもうことを語る必要を感じるのだ。
 
読まれなくなってもおかしくないことを
したにもかかわらず
ブログを読んでくださるかたが残った
どころか むしろふえたことに
だからわたしは
驚きと 
おおきなよろこびを禁じえない。

それは自分の
おおいなるなぐさめに
つながっている。
たぶん、読まれているから
わかってもらえるように書こうとして
いっしょうけんめい頭をつかい
文章を練るので
それだけあたまのなかが整理され
考えがまとまり
そしてストレス解消につながる
ということが
大きいんだろうなとはおもう。

でも、それだけじゃない。
だれかが読んでくれている、
という事実は
何かもっと心のなかの
あまり光があたらない
静かで すこしうしろめたく
みっともいいとはいえない気がする部分を 
わたしの立場を侵さないように
やさしく慰撫してくれる・・・
そんなかんじがするのだ。

どうせ誰も(または「たいして多くの人は」)
見てやしないんだから
何言ったっていいだろ 的な考えは
すごく思い切ったきもちにさせてくれて
かなりなんでもかんでも書いてしまう
それはたのしいことだ。すっきりする。
でも わたしの
「誰も見てやしないんだから」は
じつのところ
「イヤ そうはいっても 何人かは
見てくれてるとおもうんだけどさ・・・」だ。

この
見られてないという前提の方が
燃えるし たのしいんだけど
でもほんとにだれも
見てくれてないとなると萎える
みたいな
「みせること」と
「みられること」との関係って
なんなのかなとおもう

わたしは自分のそれが
いまだによくわからない。
それによってわたしのなにが
なぐさめられているのか。
自尊心だろうか。
自己顕示欲だろうか。
自分もひとかどのなにかであると
おもいたい きもちだろうか。

でも 名前をかくしている分
わたしは まだ逃げているともおもう。

わたしは
身銭をきって言論や表現の場にたつ
書く人とかクリエイターのかたとかと
お会いして話せるような 
分際ではないとおもう。
自分がわかりあえる人はむしろ
異常性癖、具体的には
露出狂のみなさんではないだろうか。
なんかそっちのほうの気がする。
希望者をつのって露出狂のみなさんと
ミーティングでもしてみたほうが
いろいろわかるのかも。

なんにしても
わたしの友人でもそうでなくても
きてくださってほんとにありがとう。
わたしは露出狂かもしれないのに。

コメントでも
気がむいたらくださると
すごくうれしいです
次は 1文字1文字にいたるまですべて
このコメントをくださったかたのために
ささげよう
って気持ちになります。

だれでもコメントいれられます。
「よっ」みたいなかんじでどうぞ。
露出狂かもしれないんだけど
それでもよければ。

わたしが「承認」しないかぎり
コメントが公開されることはなく、
読めるのはわたしだけです。
公開されるのはちょっとなと
おもうようでしたら
コメントのなかに
そう書いておいてください。