BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

宇多丸ラジオに木村拓哉。-180822。

心配ごとが、ささやかながらひとつ解消された。
それでなのかわからないが
なんか今日はちゃんと眠い。
すんなり眠れるような気がする。

・・・


夕方から夜にかけて
いつも聴いているラジオ番組に
木村拓哉さんがゲスト出演してた。
出演映画『検察側の罪人』の
公開にあたって、ということだった。

番組パーソナリティの
ライムスター宇多丸さんが
けっこうつっこんだ話を
聞き出そうとしていて、聞き応えがあった。


宇多丸さんが敬愛している、ある著名人が、
若いころの木村さんをとてもかわいがっていて、
宇多丸さんがひそかにヤキモチをやいてた
という話のときは
そのヤキモチエピソードが
あまりに宇多丸さん目線というか、
木村さんがまったくピンときてないかんじが
つたわってきておもしろく、
声をだして笑った。
外でイヤホンをつけて聞いていたから
とつぜん笑いだしたようにみえたのだろう
通行人のかたにみられて
ぎょっとした顔をされた。


検察側の罪人」は
ちょっとおもしろそうだ。


木村拓哉さんは役者として
有能だとおもう。信用している。

なにより、まじめなのはいいことだ。
それに、出演するからには
何がなんでも絶対にこの作品に
自分のなにがしかを刻みつけてやるんだ
というような 意地とか覚悟もたいせつだ。
まじめさと そういう意味での自己顕示欲に
自覚的じゃなくちゃいけないんじゃないかなと
わたしはおもう、役者という仕事は。
木村拓哉さんは自覚的なようにみえる。

アイドルが役者なんて、と
どこにいっても絶対にいわれたであろう
しんどい境遇が、彼にそうさせたのかもしれない。
出るからには何か残してやる、という
ギラギラしたものがあることを自分で認めていて
でもただ垂れ流すだけでなく、
その出力や表出方式のコントロールまでも
たえず 工夫しつづけているようにみえる。
まじめだ。
アイドルが役者なんてと いわれてきたからこそ
だれよりも人一倍、というルートだったとしたら
涙ぐましいほどまじめだ。
なぜなら 役者じゃないけどアイドルだから
がんばらなくたって呼ばれるし
へたでもほめてもらえた側面もあったとおもうからだ。
それでいいんだと本人が思うなら
べつにがんばらなくたってよかった。

あるいみではすごく
不器用なのかもしれない。

美人や二枚目ばかりだから
華やかな世界にみえるが
でも、そういう世界でも、やはり仕事は仕事で
とりくむのは、人間だから
やっぱり似ている。
やっている本人は 仕事の泥臭さやめんどくささ、
複雑さ、わけわからなさ、
「みんなすごいってほめてくれるけど
自分はそんなたいしたことやれてない」感
みたいなものを 感じているものなんじゃないかな。

木村拓哉さんもそういうのは
ふつうにあるんじゃないだろうか。

彼はSMAPのときもSMAPじゃなくなっても
ああだこうだと言われてるみたいだ。

それは 「持ってる人」に見えるから
やっかまれているのが
ほとんどなんじゃないか。

宇多丸さんが木村さんを評して、
長期にわたる影響力やマルチな活躍ぶりという点で
「ネオ石原裕次郎」的な存在だ、
みたいなことを以前からいっているらしい。

わたしは木村さんは いまいちちゃんと
評価してもらえない人だとおもう。

たとえば、出た映画が当たらないと、
かならずしも彼が悪いわけではないのに
木村拓哉はなにを演っても木村拓哉
とかわかったようなわからないようなことを
決まっていわれ、
その論調たるや 木村さんでさえなけりゃ
ヒットしたとでもいわんばかりだ。
だけど、映画は
その(とくに)「よくなかったこと」の原因が
役者の演技だけに求められるほど、
安い娯楽ではない。
それに、役者のせいだというなら
映画が当たらなかったときの責任は
役者じゃなくキャスティングした人にある。
うまくやれないことを 見抜けなかったのだから。
おなじ「映画が当たらなかった」というできごとでも
たとえば主演がムロツヨシさんだったら、
たとえば玉木宏さんだったら、
たとえば小林稔侍さんだったら、

とガワを 変えてみるだけで
ずいぶん予測される展開がかわる
結局そんなものだとおもう。

木村拓哉はなにを演っても木村拓哉
だったときが たしかにあったとはおもう。
それはしょうがない。
さいしょからうまくやれる人なんていない。
が、人間は成長する
忘れちゃいけない。
どんな人間だって成長する可能性がある。

彼のでた映画のぜんぶをみてきたわけじゃないが
すくなくとも「武士の一分」以降は
わたしはあの人はすごく変わったとおもう。

木村さんがいまいちまともに
評価してもらえてないとおもうのが
単なる気のせいだけじゃないとすれば
評価してもらえないわけとして
考えられることなんて
「カッコいいから」「持ってるから」としか
考えようがない。
イメージなんだから。

こんな「ずるい存在」がいていいはずがない、
と思われているわけだろう。
「持っている人」をまともに評価すると
「持ってない人」との差がえげつないことになり、
勝負にならないので、
あらかじめ50点減点したとこから始める、
みたいなことじゃないだろうか。
人間誰しもやる、ものの数にもならぬポカ、
本人は忘れたいであろう過去のあれこれ、
語るに値しない性格上のちょっとした傾向、
そんな話でも でてくれば
それが「持っている人」のことであるというだけで
鬼の首でもとったように さわぐ。
さわぐほうは「持ってない」から。

石原裕次郎さんが活躍していた当時
裕次郎がなんだい、演技はクサイし
歌だってうまくもないし
団子っ鼻が上をむいてるし
たいしてかっこよくもないやい」と
もし言う人があったとしても・・・、
というのと似たようなもんだと
わたしはおもう。

べつにどうでもいいのだが。

観に行ってみようかなあ検察側の罪人