BRILLIANT CORNERS-2

観た映画・読んだ本など関心ごとへの感想メインの、なんということのなさすぎる身辺雑記帳です。 少しずつ、いろいろ更新してまいります。 お気が向いたらお読みいただければさいわいです(^O^) ブログのタイトルは、セロニアス・モンクのアルバムから。「すみずみまで光り輝く」というような意味だそうで、なんとなくいいなとおもうもんで。

祖父母の法事から-180526。

母方の祖父の三十三回忌、祖母の二十七回忌の法要がおこなわれた。
東京都下、母の実家の目と鼻の先にある菩提寺
いつものお坊さんにお経をあげてもらった。
学生時代、あれこれと強く悩んでいたころ、
叔父を訪ねるついでにお寺に行き、お坊さんと話した。
当時から、このお坊さんは変わらない。元気で、お声も美しい。

幼かったころは、家の宗門なんか知らなかったけど、
いまは知っている。
真言宗智山派、総本山は智積院大本山成田山新勝寺
歌舞伎の成田屋と同門であることまで把握ずみ、
お経も教義もかじってある。それと信心とはべつだが。
娯楽だ、興味があるだけ。
昔はたいくつだった法事も、今回はおもしろかった。
お経もよく聞くと興味深い。というか、単純に
本でみた言葉を音で聞くとうれしくなる。
経文を頭のなかで漢字に変換し、返り点をつけたりしていたら
時間はあっという間にすぎた。

もっと昔の法事で聞いたお経と同じフレーズが、
当然のことながら、今回も聞こえた。
小学生だったわれわれきょうだいには、その部分の響きがおもしろく、
つい、ふきだして、あとで親に怒られた。
たぶん今回お経を聞いて「あ!あのフレーズ」っておもったのは
きょうだいでわたしだけじゃなかったはず。
昔、笑っちゃって叱られたな、という共通の思い出を、
それぞれによみがえらせたんじゃないか。

話はそれるが、父のほうのこと。

父は末っ子だ。
だが、父方の祖母の葬儀は父のもとで、わたしの家でおこなわれた。
一般に、親の葬儀の喪主は長子が務めるのでは?
自宅葬なら長子の家で営むものではないのか。
父方の一番上の伯父は、持ち家に住んでいる。ほかの伯父、伯母も。
なぜ、末子の父の家で葬儀を?
喪主は伯父のだれかが務め、場所だけ父の家で、だったのか? 

だれも喪主をやりたがらないほど、きらわれた「母」だったとか
そうした事情が何かあったのか?
父方の祖母は、温厚で謙虚な人だった。
祖母がしてくれたさまざまなやさしいことの記憶からは、
わが子らに忌避される要素はみあたらない。
だがまあいろいろあるし、家族って。

芋づる式にもうひとつ。
父は、6人ものきょうだいの末子だ。
だが父方の祖母は一時、わたしの両親と同居していた。
6人きょうだいの末子と、母が同居・・・
わたしの母との嫁姑問題に悩み、
祖母はわたしが生まれる前にわが家を去った。
・・・
父は、母であるところの「千葉のおばあちゃん」を慕っていた。
きわめてボーっとした子であったわたしが、
自分の家で父方の祖母の葬儀がおこなわれた、
という 5歳当時のできごとを覚えているのには、わけがある。
葬儀がおこなわれた夜のこと、
居間にいくと、祭壇の前で父が寝入っていた、棺によりそって。
彼の体に、毛布がかけられていた。
だれかが気遣ったんだろう。父愛用の毛布だった。
当時すでに、両親の関係は崩壊してた。
そこからいけば、母がかけた可能性こそまっさきに消える。
だけど、わたしは「お母さんがかけた」と考えた。
それを記憶している。
よその家でおこなわれた葬儀なら、
毛布は「よそのおうち」のものだったろう。
でも、父の毛布だった。
その毛布が、どこにしまわれているかを
知っている者がいる家での葬儀だった。
だから、葬儀があったのはわたしの家だったと。

ところで 父方の祖母を
「千葉のおばあちゃん」としたが、父方の実家は東京だ。
なのになぜ千葉の、なのか。これも謎だ。
伯母のひとりが千葉に嫁いだことは事実だが、
祖母が伯母と同居したことは、わたしが知るかぎり、ない。
両親との同居を解消してすぐ施設に移り、その2年後に亡くなった。

・・・いまおもえば父方は浄土宗だった。
父が仏壇を撤去してしまったけど・・・
千葉のおばあちゃんが、よく、お念仏をやっていた。

・・・

家族と終日いっしょにすごした、法事の一日はつらかった。
これまで、家族との関係の修復を 
仕事をいいわけに、あとまわしにしてきたことのつけか。
「家族と過ごす時間をもちたいけど
そんな時間がなくて、かなしい」
というきもちをいだいたことは、ない。
家族と過ごしたいとか あまり・・・いや、
ほとんど、・・・いや、全然、おもわない。

一般常識?として、家族とは 
安らぐことができて、会話ができる
いいかんじのもの、と知ってはいる。
そうした家族は構成員のたゆまぬ努力あってこそできあがるもので
努力なきところへ「よい家族」はない、ということも。
その努力を怠った人間であるところのわたし。
でも今からでもがんばればいい、
それも考えかたとしては理解する。
だが、資格も権利も責任もなかば放棄している。

一日中 至近距離でいっしょにいるとなると
お互いにイヤなきもちにならないですむように
多少は演技?それらしい態度で、と気を遣う。
法事のあったこの土曜は、疲労困憊であった。
とりつくろっている、というそのかんじが苦痛。自業自得だが。

このことだけで 1万字くらいは苦もなく書ける。
でもまたこんど。