BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

親鸞/疵

しりあいにすすめられ
五木寛之の「親鸞」を読んでみている。
三部構成になっていて、各部上下巻の全6巻。
そのうちの第一部上下巻を読み終えた。
ものすごくおもしろくてページを繰る手がとまらない、
とまではいかないが、
主人公の親鸞の ゆくすえが気になり、
ちゃんと最後まで読みたいかなーという気にはなる。

後白河上皇への印象が、この小説を読んでだいぶ かわった。
学校の日本史の授業などで習ったかぎりでは
後白河上皇には、足利義昭かだれかと似たりよったりの
傀儡のおばかさん、というイメージしか
ほぼ もったことがなかった。
和歌はヘタだが今様は大好き、
まずしい人や商売人ときらくにおしゃべりし、
町の賭場にも顔をだす・・・みたいな
奇特すぎるキャラクターも、かろうじて覚えているが
それでも印象としては百歩譲って
うつけもの、かぶきものくらいのかんじしか。

でも「親鸞」での彼は、相当な文化人で
もののわかった好漢、どちらかというとアーティスト
というかんじに描かれている。
親鸞はあまりにも苦労人だ。
彼は彼なりに正しいと信じた道を
一生懸命歩んでいるだけなのに、
(なのに、というか だからこそ、というべきか。)
とにかく各方面からやっかまれ、白眼視され、
嫉妬され、弾圧され・・・と ひどい目にあいつづける。
後白河上皇などはなんといっても雲上人で、
親鸞とは立場が、身分がちがいすぎる。
同じ時代の京に生きてはいるが
直接 親鸞を助けてくれるわけでもなんでもない。
だが ふところがふかくインテリの上皇が、
親鸞のような規格外の人間を肯定してくれる
数少ない側に存在していることに
すこし、救いを感じる。

第一部は 親鸞が師とあおぐ法然の一門が
一斉摘発処分のようなことになって離散。
親鸞法然の高弟であるとして危険視され
死罪でもおかしくなかったところをどうにかこうにか
命だけはたすかり、越後国に遠流となる・・・
というところでおわった。
流罪になったわけだが 親鸞は、 
せっかく越後国に初めて行くんだし
法然の教えをかの国の人びとにもしっかりひろめるぞ、と
希望をいだいて旅立っていく。

あんまり愚直すぎて
見ていてちょっとイライラしてくる人物だが
これから 彼がどう生きていくのかは
やはりけっこう気になる。
がんばっていちおう最後まで読もうとはおもう。

・・・

どこまで逃げても 見てみないふりをしても
自分の心からは逃げることができない。
つくづくおもう。
心なんてものはなければよかった。
これがなければ傷つくこともひとつもなかった。
わたしはほんとうにバカな人間だとおもう。
ぜんぶわすれて、なにもかもすてて
どこかべつのばしょにでもいってしまいたいと
夢想してみることも 一度や二度じゃない
しかし、
それでも自分を脱ぎ捨てることだけはできない。

核心から めをそらした会話を
いくらかさねても もうなんにもならない。
言葉がうわすべりするばかりだ。
でも自分がそうおもっているだけでは
もうどうしようもない。
話をしなくてはならないのに。
でもそれを相手がいやだというならばどうしようもない。
ちょっとつかれてしまった。
わたしもほんとうにばかだな。

わけもなくいらいらしてしまう。
いらいらさせないでいてくれる人たちと
一緒にいるかぎりにおいては
もちろんそんな気持ちにはならないが、
でも、この人たちといつまでも一緒にいてはいけないと
すでに自分の心が告げてきている。
きっとそうとおくないうちに わたしは、
このやさしい人たちのそばにいさせてもらうことも
耐えられなくなっちゃうんだろう。それに、
このやさしい人たちと やさしくしあっても、
お互いに、たぶんなんにも残らない。
わたしはつい この人たちに何かしてあげたいと
そういうふうにおもってしまうけど
わたしがそんなことをして何になるだろう。
何が残るだろう。
やらなくちゃいけないのは 
なにもわたしなわけじゃない。
わたしであっては ならないわけだ。
なのに彼らがほんとうにやさしいから、
心をなぐさめてくれるから、
つい 明け渡してしまいそうになる。
自分のよわさが ほんとにかなしい。

自分でいってておかしいなとおもえてきたけど、

やさしくされるだけなら傷つけられたほうがまだいいと
そういうことを感じているんだろうか。

処置なしだ。
どの人ともあんまり近くならないほうがいい気がする。
また似たようなことで苦しくなってしまう。