BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

そもさん-6-180430。

人は、みずから設定した、こうあるべき的枠組みに
みずから入っていくくせに、その枠のなかで苦しがる。
枠外だと感じることも、やっぱり苦しい。
子どものときには
ゲームの何を持ってる どんな家に住んでる
お母さんお父さんが何してる 誰が好ききらい・・・
余命数か月みたいなときにまで
ステージ〇〇、のこされた時間の「充実度」、
治療法や医療機関の選択、治療の効果、
入院なら面会者の属性や面会頻度・・・。
はまってたまるかと反発しても、反発は意識とも逆説できそれも苦しい。 
枠外と感じるのもつらい。枠から枠へ移動が続く。

定年退職者は社会から解放されたんだから、とか書いた。
社会から解放されるの反対には、社会に入る、がある。
年代?年齢?的な段階とともに出入りする枠もあるのかなあ。
社会に入るも、社会から出るも、
おなじときの流れを意識したうえでの考えだ。
生まれて→学び→社会に入り→働き→社会を出て→
余生を過ごし→死ぬ。始まって終わる的な、線状のときだ。

初めて会社組織に所属したのは24になる年のこと。
高校と4大をふつうにはいって出て新卒で就職したら
21とか22か。2年遅れだ。
「いま何歳だ。みんなに遅れている。どう追いつくつもりだ。」
と、母。むりもない。
おくれたくないと思ったなら、必死で卒業し新卒就職した。
でもそうは考えなかった。社会に出るのが怖かったからだ。
母の発言からも、
「いくつになったら〇〇」みたいな枠組み意識を感じるな。

時間は見えず、イメージが難しい。比較的単純だから、
「生まれて学んで働いて働くのをやめ年とって死ぬ」
の線イメージが定着したのかなあ。

一定の年齢になるとみんな学業を始めさせられる。
学齢でわけられ、原則追い越さず退行しない。
友だちは同学年。人間関係のつくられかたは会社組織でもほぼ同じだ。
年のはなれた友だちをもつのがむずかしいのは
年齢別の枠にみずからをはめこむからでは。
年齢差のひらいた恋愛関係が白眼視されるのも・・・。

似たようなことを先に書いたが、
各世代の枠設定のなかに、さらに細分化された
価値意識があるみたいだ。
世代別枠からほかの世代別枠にいけないし、
世代別枠内のせまい別枠からも自由にはでられない。
難度高のジャングルジムみたいだ。

常時絶賛はまりこみ中のこの枠を、仕切りを、
社会といわないのはなぜなんだろう。
諸君は社会にでていきます。大学の卒業式でえらい人が言いそう。
社会にでていきますもへちまもあるか。
生まれてこのかたずっと枠、社会のうちだ。
年齢別の枠にくわえ
幼稚園という世代別枠とそのなかの別途仕切り(その数、無数)
小学校という世代別枠とそのなかの別途仕切り(その数、無数)
中学という世代別枠とそのなかの別途仕切り(その数、無数)
高校という世代別枠とそのなかの別途仕切り(その数、無数)
短大という世代別枠とそのなかの別途仕切り(その数、無数)
大学という世代別枠とそのなかの別途仕切り(その数、無数)
就職という世代別枠とそのなかの別途仕切り(その数、無数)
ついでに娘の枠、子どもの枠、長女の枠、中間子の枠、
父と母の連絡係の枠・・・その数、無数。
よくもまあこんな複雑怪奇ジャングルジムを平気で。
鉄のバーに頭ぶっつけず足もふみはずさず。鈍感。
今ようやく頭をぶっつけられたのだと、ことほぐべきか?

定期試験、部活、楽器、
学校裏の公園でくだらないこと語り合う
地元の繁華街 渋谷の楽器店 予備校
楽団の練習帰りに大人の人にごはんをおごってもらう
社会ではなかったか。もやもやしてなかったか。
まだ〇〇でないから、〇〇できない。
〇〇になったから、〇〇せよと言われる。
卒業式でえらい人がいう言葉も、
社会にでるのがこわいというおびえも唐突で抽象的だ。
すきな本をななめよみして愚にもつかぬことを書き散らし
りっぱな論文をものした気になって悦に入り
学習塾のバイトなんかして、なおかつまだきみは社会に出てないと
なにかを免除された存在扱いしてもらえる、気楽な身分だった。
でも、じつのところいつだって社会にはいたのだ。
わたしですらそれに気づいてきたのだから、
もっと早く敏感に気づいた人もいるだろう。
労働と休暇というふたつの枠設定においてはとくに。
実態に即さないこの枠組みの崩壊が目に見えてきているんだろう。
はまろうにも枠がないのを感じ、
むきだしの自分に戸惑ってる人がいるのでは。

「生まれて学び働き働くのをやめ年をとって死ぬ」
人生はそういう流れだと思っちゃうけど、違うかも。
ほかにイメージするとしたらどう?
シュタイナーをもっと読めばわかるだろう、彼の考えが。
もと天上の存在がある時期から穢れにまみれ
枯れて死ぬ、それがさだめとか考えてたはずない。
瑕瑾なき幼年、痛みを知り活力にみつ青年、
枯れゆく老年のイメージも虚構と断定されるだろう。
そりゃランボーは天才っていわれるよ。今ならわかる。
「ああ、季節よ、城よ、無疵なこころが何処にある。」