BRILLIANT CORNERS-2

観た映画・読んだ本など関心ごとへの感想メインの、なんということのなさすぎる身辺雑記帳です。 少しずつ、いろいろ更新してまいります。 お気が向いたらお読みいただければさいわいです(^O^) ブログのタイトルは、セロニアス・モンクのアルバムから。「すみずみまで光り輝く」というような意味だそうで、なんとなくいいなとおもうもんで。

谷崎潤一郎『春琴抄』についてこんなことを考えたこともあった。

これまでに読んだすべての本のなかで
読み返した回数がもっとも多いのは、
たぶん谷崎潤一郎の「春琴抄」。

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わたしは・・・
自分が耽美主義だともマゾヒストだとも 
とくになにも 自覚はしていません。

ただ谷崎潤一郎の作品にはすきなものがたいへんおおいです。

この人の小説って
見た目と やろうとしていることとのギャップがすさまじくて、
それで、両方とも楽しめるところはいいとおもっています。
新しい。迷いがない。大胆である。果敢である。
作者のプライドが感じられる。

でもべつにそこまで深く考えていません、
ただすきだから読むのです、もちろんね

春琴抄、たしか初めて読んだのは小学校高学年あたりだったか。
あんまり美しかったからなのか、はまっちゃって、
以来ほんとうに 何度となく読み返してきました。
白檀の香りと、
3月はじめあたりの・・・つまりいまくらいの
ひんやり肌寒く清新な大気が感じられ、
深呼吸したくなる小説です。
思い返すに 小学校高学年というと
父方の祖母、さらに母方の祖父と祖母が
あいついで亡くなったころでした。
白檀の香り・・・ よいお線香の香りがきまってするのは
もしかしたら弔事がかさなって そういう香りが
心にこびりついていたときに
この小説を読んだから、なのかもしれません。
一級の文学作品からはブドウの香りがするもんですが、
春琴抄はもちろん一級品ながら ブドウでなく白檀。

ただ 谷崎潤一郎がもし、
自分の小説のなかで春琴抄がいちばんすきと
言っている読者がいるらしいと 知ったら、
「あんたはいったい よりにもよってなんで
こんなのがいいんだい」
と むくれるかもしれません、
他にも力作はいっぱいあるんですから。

ところで、
春琴抄にはマゾヒズムの極致が描き抜かれている、
といわれるけど、
わたしはわかんないな。
何をもってそういっているのかが わからないわけじゃないけど、
それをマゾヒズムというかね、とおもうのです。

もちろんきれいだな、めずらしい文体だな、
華麗だなと そんなことばかりではなくて、
さらにさらに深いところまで
わけいって考えてみたことも 多々ありました。
たぶんそうして考えて でてきたことの一部が
見ようによってはそりゃたしかに
マゾヒズムってことになるんだろうなとは、
理解できています。

たとえばこんなことです。

言葉というのは 圧倒的に、絶対的に、
正しくないものです。
でもその言葉というものを駆使して、
なにごとかを表現しようとする者たちが 
なぜだかいるんだよね。という話なんですけれど、
読書って、
そこに書かれていることが
なにもかも真実とはかぎらないと知りながら
それでも読む、そして楽しむ、というものなんだとおもいます。
(ただ わたし自身はこの・・・そもそも言葉にした時点で
もう絶対的に ウソであるのだということが 
今こうして書いてみたほどには じつは
よく理解できてないフシがあり、われながらこれは
まずいなと 感じることがあります。)
真実とはかぎらないと知りながら それでもあえて読み楽しむ、
そしてやっぱり真実じゃないと知ったとき、
わかっていながらおおいに傷つく、そこまでふくめて1セット、
それが読書ということの一面じゃないかなと。

そして春琴抄って小説には
まさにそのことを表現してるんじゃないかと
おもわせる場面がたくさんあるとおもいます。
春琴と佐助の関係のありかたをえがくシーンです。

えーと たとえばこんなかんじだったか

春琴は『もうええ』と云いつつ首を振った。
しかしこういう場合『もうええ』といわれても
『そうでござりますか』と引き退がって一層後がいけないのである
無理にも柄杓を捥ぎ取るようにして水をかけてやるのが
コツなのである
(「春琴抄」)

・・・

主人がかんしゃくを起こしたりすねたりして
もういい!やらなくていい!なんて言ったとしても、
それを真に受けてちゃしょうがない、
そこを意地でも いえ、お嬢、わたくしが、と 
やってやるほうがいい場合もあるんだというのが
主である 春琴の身辺の世話 いっさいをになう
佐助のスタンスです。

主人の意にかなうためには、
主人のいうことが本気である、真実であると
すんなり受け入れていればいいのではなく、
その裏にあるもの、ほんとうの要求を
読み続けなければならない。

あと、
春琴がとある事故で顔に重いやけどを負うんです。
彼女はたいへんな美貌でならしているんですけれど。
そのうちケガが治ってきたら、いまは
ぐるぐるまきに巻いている包帯を とらなくちゃいけません。
深窓のお嬢さまですから 
顔を見られたくないからもう一生だれとも会いたくないとでもいえば
まあそれも不可能じゃないかんじなんですけれど、
じつは、春琴は全盲で、身の回りのことを佐助に
てつだってもらわないといけません。
そうしたら、どうしたって佐助にだけは
顔をみせなくちゃいけないことになるでしょう。
主従だけれど いろいろじつに複雑で のっぴきならぬ関係にある
ふたりは このことで深く葛藤します。
春琴は どうしても 自分の顔を佐助に見せることになるのが
いやだといいます。
だれにもみられたくないではなくて、
おまえにだけは、佐助にだけはみられたくないと。
そういってめずらしく、泣くんです。

佐助はそんな彼女を見て、このように。

佐助も諳然として云うべき言葉なくともに
嗚咽するばかりであったがようござります、
必ずお顔を見ぬように致します御安心なさりませと
何事か期する所があるように云った。

・・・
熱誠をささげる主が
ああおまえにだけは顔をみられとうないと言って泣いた。
それで、佐助は 健康な自分の両眼をね、
つぶしてしまうんですよ。

春琴と同様に盲目の身となった佐助ですが、

彼は老いて春琴をとうに見送ってからも みちたりた表情で
このように語ります。
・・・見えなくなったけど、いまも自分のまぶたの裏には
美しく誇り高かったご主人さまの姿が まざまざと見える、
あの小さく繊細だったお手てが、きれいだった髪の一本までも、
自分にはみえているんだよ、と。

理想の主人の姿を心のなかに作り上げて、
それを崇めて生きたということになります。

佐助はそうやって春琴がいた過去の記憶の世界に住み続けます。
春琴は盲目であったから、当然 佐助の姿は
さいしょからさいごまで見えてなかった。
そして読者は読者で、春琴の本心も佐助のほんとうの心も
わからないままです、
ほんとうのこと、 そんなものわからないですよ
だって小説だし。お話なんですから、これ。
どう読んでもいいようになっているんですけれど、
どうだかほんとのことはまったくわからないんです。

たとえば
長い年月のなかで
春琴は子をみごもるんですけれど、
子の父が佐助かどうかはついにわからない。

ふたりの関係がいったい なんであったのか、
ふたりのあいだにどんな感情のゆききがあったものか、
わからないのです。

ほんとのことなんてなにもわからない、
そのことによって心をすり減らされる悦びこそが
読書なんだ、ってことを、
春琴抄を読むと感じる。
読書ってのはもともとそういうものなんですけれど
そういうものなんだということを 小説のディテールにも
仮託して 表現している側面がある、春琴抄には。
っておもうんですけれど、どうかな。