BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想をおもに記録しています。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

今後どのように生きていこうか問題への暫定的な結論

今後、自分に期待をすることをいっさいやめたい。
手持ちの能力と、そのときどきの意欲の程度に応じて
ただ、やれることだけをやっていきたい。

過去のどこかの段階では、あるいはもう少し
違うことを考えてたこともあったかもしれない。
しかし、
いまの自分の状態において、
腹の底をさらってみるに、

わたしには、これといった将来への展望や
夢、希望といったものがない。
ではなんなのか。今まではなんだったのか。

記憶にある限り、わたしの行動原理の根底には常に
「怒られたくない」
「周囲の、おもに母の、意に沿わないことをして
怒鳴られたくない。がっかりした顔をされたくない」
「周囲に、おもに母に、非難されるのが怖い」
しかなかった。

自分の行動の理由を尋ねられると、だからいつも困った。
「それをやりたいのはなぜか」
「それをやって、先々どうしたいのか」なども
聞かれると困った。
その答えは基本的にはありはしなかったから。
ぜんぜんなかったとまで言うつもりはないが、
原則わたしは
「これをしたら(母は)がっかりするだろう」
「これを言ったら(母は)怒るだろう」
そうはなりたくない、それだけは回避しよう。
・・・
ただそれだけの気持ちにしたがって
自分の行動や思考に理由付けをしてきた感がある。
説明を求められたときいつもそうだったのではないか。

わたしの母は、母子家庭であることを理由に
われわれ子どもになにかをあきらめさせたくないという気持ち、
または「母子家庭だからあの家の子はどうこう」というふうに
周りに言わせたくないという気持ちが
非常に強かった・・・とおもわれるので、
※あくまでもわたしが勝手に心のなかに像をむすんできた、
母の姿にすぎない。母がじっさいにこうしたことを思っていたかは
知らない。※
わたしはわたしで、母に、
要求どおりのしっかりした子としての自分を
見せなくてはならないと 
思ってきたところがあった。
志操堅固、聡明、確固たる展望と思考のもと
きらめく瞳で夢に向かって生きる少女。
みたいなかんじかな(中身がまったくないね!)?
常に何者かでなければならない、
何者かになろうとして努力している人間でなければ
生きることをゆるされない。
そんなふうに 感じてきたのではないかな。
もっとも、母親をうらんだり だんじて してない。
なにしろ ここまでで述べたわたしの「母」像は 
100%わたしの心のなかの虚像なのであり
じっさいの母の思考の軌跡は
「わからない」が正解なのだ。

でも、すてきに前向きな輝く少女であることは
自分にとって じっさいにはほんとに難しかった。
わたしのように身体的にひ弱な子どもは
ここ、というときに
がんばりがきかなかったりもしたので・・・。
そういった意味においても。
ほとんどなにも 実現できてなかったとおもう。
ただ、
基本的には、いつもこんなようなことを
無意識に?考えて、勝手に緊張状態にありつづけ
勝手に焦燥にかられ 勝手に腐ってた、
そんな日々だった。

わたしはあまりしっかり考えてきたわけじゃなかった。
主体性があまりなかったとおもう。
全然、なにもかも、やりたくもなんとも
ないのにムリをしてやってきた・・・とか、
そこまで言うつもりはないが。
ただ、思考は もろかった。しっかりは考えてなかった。
くりかえすようだが、だからいつも
行動に対し、理由の説明を求められるとよわった。
いいかっこうをして、うそをつくことがあった。
そして、さらにまずいことに
うそでも、口にするとなんとなく
ほんとうの自分の気持ちのような気がしてきて
しまうこともあったりするものだ。
自分で自分を振り回してしまっていたのだ。
いつもほんとうに、こうしたことには困ってきた感があった。
まあ、今思えばだが。

では、今後、どうしたいか。
ひとつだけはっきり言えることがある。
わたしは二度と、同じことを繰り返したくない。
それだけはしたくない。
わかっているのは、
「何かがやりたい」じゃない。
「これだけはしたくない」だ。
一見 消極的な文言だけれど、
この意志薄弱なわたしという
人間の心のもちかたにとって、これはほとんど唯一の
頼りとなっていくとおもう。これからずっと。

ただ、そうはいってもちょっとは頑張って
考えてみる。今後どうするかについて。
いかにしてやっていくかについて。

その前に、技能、性向といったようなものに関して
自分がいまできることを ちょっと整理してみた。
どれもおもしろいように 履歴書には書けないこと
ばかりだが(^^)
結果、
・人よりいくらか速く、多く、本が読める。
・難解な内容の理論や他人の思考を
 文字情報をとおしさえすれば、かなりのところまで理解できる。
・人よりそこそこ、まあまあ、整った文章が書ける。
・他人の文章を読んで、どうすればより読みやすく
 できるか、考えることができる。
・いちから本を作る手順を知っている。
・あるものごとを、やりたいかやりたくないかが
 自力で明確に判断できる。
・あるものごとをやりたくないとき、やりたくないと
 はっきり言える。
・生命の危機に直面したとき、そこから逃げることが
 できる。
・自分よりもはるかに自分を理解してくれているとおもわれる
 友人にめぐまれている。
・自分よりもはるかに聡明な友人にめぐまれている。
・味方のふりをして自分への加害を計画するような
 人が、さいわい周囲にいない。
・人の道に大きくはずれるようなことはしないように
 教育されており、ある程度 社会的に生きられる。
・こだわりがどんなことにもまったくないとまでは
 言わないが、あっても それほど強くはない。
・求められれば、最善を尽くすことができる。

・・・この程度のものだ。
わたしとしては、とにかく
「絶対にこれをやりたい、これをやるために
自分はこの世に生まれてきた」
などと思えることがなく、
また、おそらく それは今後もないと言い切って
しまいたい。(こう述べたからといって、べつに
自分を見捨てたとかそういうつもりはない。)
なにもない自分である ということを
そのまま、受け入れてしまいたい。

しかし、だからといって絶望するつもりはない。
なにもできない自分であることを悲観して自殺するつもりはない。
普通に生きて、普通に死んでいければそれでよいという考えだ。
夢とか希望とかそういうものが ぜんぜんないけれど、
自分は自分なりにまじめに 
可能なら、すこしでも建設的におもえることを たまにはしながら
この命を燃やしつくしたい。

では 基本的にどうやっていくかだが、

周囲の、わたしが愛する友人たちや
信用できる人たちの、判断に わたしをゆだねたい。
わたしという存在の適切な使い道を考えるにあたって、
自分自身の判断よりも、
信頼できる周囲の人びとのそれを優先していきたいのだ。

極寒の雪山などに放り出されれば
まあ30分以内には死ぬたぐいの人間なのだが
きちんと安全で、学術的な・・・というか
なにかそういう それなりの場所でなら、
力を発揮する可能性が いくらかある。
それがわたしだ。
そうした環境なら、
なけなしの能力も かなりしっかりと出していけるので、
世界の役に少しは立っている・・・というのが大げさなら
たしかにこの世に生きていて 世界とかかわっているという
感覚をえることができるかもしれず、
そうしたら、わたしはもしかしたら、
生きていてよかったと たまには思えるかもしれない。

しかしながら わたしは
「自分はこれだ!」と
生きる道を自力で決めることが
どうやらうまくない。
鼻がきかないというかな。
世の中には、人生に対するセンスが鋭敏な人ってのが
いるなと、つくづく思うのだが
わたしはそれじゃない。
どうも、とらわれすぎて、うそをいいすぎて、
自分が見えなくなってしまったから、
今やもう、自分のことがわからないのかも。

世界はわたしにとって 複雑すぎる。
無数の可能性と、可能性のふりをしているものが
いたるところに あふれかえっていて 判断できない。

だが、さいわい、わたしの周囲には
才気あふれる友人、
わたしに関心をいだき、わたしを見てくれている友人が多い。
とるにたりない他人のために 自分の時間をついやして
一緒にウンウン悩んでくれる友人、
わたしがどんなであろうと見捨てないでいてくれる友人、
そんな人たちが、わたしにはどういうわけか
おおぜい与えられている。

別に自分をほうりすててしまおうとか
自分のことなんてどーでもいいとか
言いたいわけじゃない。
周囲が勧めてくれること、
やってみれば? と言ってくれること、
わたしの助力を求めてくれること、
それをこそ積極的にやっていきたいのだ。
やりたくない、
やるくらいなら死んだ方がまし、
人の道に反している、
そういうたぐいのことならば、わたしは判断できるし
断れるので、その意味では問題がない。
そもそも、わたしの周囲の人びとが
わたしにそんなことをやらせるとは思えない。

「それとこれと何の関係があるの」と
言われそうな雑多なことどもに、
いろいろ取り組むことにもなりそうだが、
わたしはそれでいいと考える。
つじつまが合わなくていい。
結果、おまえ損しているよと言われてもいい。
わたしが愛する人たちが わたしを見込んで任せて
くれたという経緯がある限り、
あるいは
わたしと一緒におもしろいことにトライしようという
気持ちで声をかけてくれたことである限り、
もしくは
「やりたくないのに嫌われたくなくて無理してやった」のでない限り、
基本的に、いっこうにかまわないというスタンスでいく。

今後、そのくらいでいいかなとおもってる。

とにかく、ほんとに、
ガッカリされたくないとかいうおびえた気持ちに
支配されるのだけはいやだ。

それこそがおおもとではないのか。
わたしの欺瞞、わたしのうそ、わたしのムリの
おおもとと言えるのではないのか。

なんてばかばかしいことだろう。
だれも、ほんとうは、わたしにこんな思いをさせる
ためにいたわけじゃなかったろうに。
あるかどうかもわからぬ「だれかの意向」を
勝手にわたしが忖度し、
勝手にわたしがわたしを縛ってきたのだ。
からしい。
それだけはもういやだ。

わたしは自分の使い道の決定をみんなにゆだねたい。
だが、
使ってもらう、活かしてもらう以上は、
役に立つべく、研鑽に努める。
このままの自分を受け入れてほしい・・・なんてのは
この場合、怠慢にあたるだろう。
自分の能力がこれ以上伸びないなどと
決めつけるつもりは毛頭ない。
関心が向くこと限定になるかもしれないが
学びをやめない。
知識を深める努力を続ける。

うまくいくかどうか、
やはり、これも自分では
よくわからないのだが、
いろいろなことにトライし、
そのときどきに心を動かし、
友だちを作っていき、
と やっていくうちに
うまくすれば、もうすこしくらいは
自分という人間の輪郭が明瞭になってくることも
あるかもしれない。
そうなったら、今よりも少しだけならば、
自分で自分の使い道を 正確に考えることが
できるかも。

まあ、しかし、期待するのはよくない。

わたしは、この程度。
この程度の人間だとはっきり言っておきたい。
これ以上でも以下でもない。
これがわたしのなかから見たわたしだ。

はっきり宣言する。
わたしは自分の判断を信用しない。
自分よりもまわりの人たちの厚意と
まわりの人たちがわたしに寄せてくれる関心を信じる。
それで自分が不利益をこうむろうとかまわない。
とうぜんのことだ。
判断は人にゆだねるけど、
取り組んだことを後悔したりはしない。
結果的になにがあっても 
選択の責任、行為の結果の責任は自分自身が負う。

もし周りの人に
わたしがもうちょっと「それっぽく」て、
もうちょっと「何かができる」
優秀な?ちゃんとした人に
見えているとすると・・・(見えているらしいのだが・・・)
そのことだけはほんとに・・・理解に苦しむ。

わたしには
意思的に努力して身に着けたことなんて
いままでひとつだってなかった気がする。
わたし、いままでなにか努力したっけな。
がっかりさせたくない、非難されたくないという
きもちの影響をうけることなく ただ自分が
努力したいからした、という努力が
かつてあったかどうか。
音楽、楽器演奏くらいかな???
たいしてないわ。
一般的な教育を受け
社会において30年あまりも もまれたならば
だれだってこのくらいのキャラクター、
これくらいの個性は持つようになるだろう。
人はみんなちがうんだから、という意味で。
わたしの場合は、
なんか、生きてたらこうなった。
というほどのことにすぎない。
それっぽい人間に見えるかどうかは知らないが、
わたしはあくまでこの程度だ。

でも、これまでとほんの少し違うことが
ひとつだけでてきたことを感じてる。
いまの自分は
自分がこの程度の人間だということに
むやみに絶望してない。
自分の存在が はずかしくない。
こんなふうにおもえたことは 
すくなくとも物心ついてからこれまでは 
一度だってなかった気がする。

願わくはこの、本心を、
わたしはいつか自分の母に話したい。

「すくなくともクスリに手を出したりはしない。
人倫にもとることもしない。
自分でかかさず納税をする。
自殺もたぶんしない。
もし、わたしがなにかの分野でひとかどの存在に
なるかもしれないと期待してくれていたのだとすれば、
言っておくけどそれは望み薄。
悪いとはおもうよ。
あたかも将来大成するかのように
わたしがあなたを だましてしまったのだろうから。
ただ、約束する。
普通に生きて、ちゃんと死ぬことを。
もうしわけないが、それでかんべんしてくれ。
それでいいよと言ってくれないか。」

そう話したい。
でも、いまや、話せるときが一生こなかったとしても、
しょうがないかなとも思うし、
それを必要以上に かなしまない。
認めてほしいけれど、
親には親のいろいろなことがあり、
別の人間であるので。
ほかならぬわたしが、
自分で自分を受け入れることができたようなのだ。
今はそれでいっか、と。

これが、
いったん なにもかもぜんぶ失ったという気持ちを
骨の髄まで味わってみて そしてそこから浮上して・・・
そのあいだずっと 悶々と考えてきたことを
文章化してみた内容だ。

わたしは、自分の考えを表現するために
もちろんできるだけ 適切とおもわれる言葉を選んで書いた。
これを読んでいる人に 自分がおもっているとおりのニュアンスで
内容が伝わればいいな と願う。
けど、おもいどおりには伝わっていなかったということが
仮にあとでわかったとしても、別にかまわない。
わたし自身はなにもかわらない。
わかってほしいと 自分がおもうようであれば、
そのつど 改めて説明を試みることは あるかもしれない。