BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

父のことを知りたがりつづける。-180120。

叔父をたずねた。
今やっていることの進捗や
見通しを報告するためだ。
確定事項はすくないけれど 
把握できていることは
いちおうすべて話した。
複数のことをやっている。
きょう話した案件にかんしては
あと2手順くらいふめば 
完結するとおもっている。
あまりたのしいことじゃない。 
早くおわらないかなーと
願ってる。

・・・

わたしには父がいない。
わたしが14歳のときに
両親が離婚し、
父は家をでた。
それ以来父とは会っておらず 
彼の消息は不明だ。
死亡したという話や 
再婚したという話を
聞いた記憶があるのだが、
死んだという証拠も
再婚したという証拠も
ない。ない、で確定だ。
でも たしかに聞いた記憶がある・・・。
というかわたし
父の のちぞえとなった女性に
(その時点で正式に結婚していたか
内縁関係であったかはわすれたが)
15年くらい前に
たしか会わなかったっけか・・・
記憶があるんだけどなあ
でも事実、
ないものはない。
なにかの記憶と混同したのだろう。
家族のことですら
そんな調子なのだ記憶ってのは。

まあそんな 
間の抜けたこともあったものだから 
今日きいた話は最新情報として 
書けることは書いておきたい。

わたしは 
両親の離婚をめぐっては
しょうがないことだった、と 
ただそのように理解しており、
彼ら大人の 当時の判断を 
うらみもつらみもしていない。

しかしながら 
父はどうしているのかなあと、
ずっと思ってはいる。
というのも 
両親が離婚することは 
父が家を出ていく前日に
突然知らされ、
翌日の父の引っ越し日、
われわれ3人の子どもは
早朝から叔父の家にあずけられ 
父ときちんとお別れしなかった。
帰宅したときには もう父はおらず
家からすべての痕跡が消えており
それ以来会っていない。
なんとなく変なかんじだ。
父がいなくなったことが
なにか、腑に落ちてない
そんな子ども時代の自分が 
まだわたしの心のなかにいる、
ってかんじかも。

また、さきほど、
うらんでいないと書いたが、
うらんだりする気力がなかった 
というのもある。
「かわいそうな子」ぶりたくて
こういうことを書くのではないが、
離婚までの何年ものあいだ
両親の不仲、険悪な家のムードに、
恒常的に傷ついてきていた。
傷つかなかった日などなかった。
体験してみないことには
わからないことだとおもうが
ただそこにいるだけで
生命力を削られるものなのだ、
おだやかでない家庭というのは。
昔から神経が細く
辛抱のきかない性格だったせいか
わたしは 消耗が激しかった。
しかも学校生活もあったもんで、
毎日を消化するだけで必死であった。
自分ではどうすることもできず、
どうにかできるなどという頭も
なかったわたしは 
ただ傍観し、ただ傷つくだけ。
無力そのものであった。
でも、
のちに、同じく両親の離婚を
経験した友人と話したとき、
「あんなおやじとは早く離婚しろ」と
自分の母親を説得したよ、と
彼は振り返っていた。
この子はなんてすごいんだ、
それにくらべてわたしは
なんて未熟でバカだったことかと
はずかしかったことを覚えているな。

父がいなくなることを 
かなしんでいた・・・とはおもう。
でも、同時に、
いられても去られてももう 
たいした問題におもえなかった。
わたしの兄も弟も 
そんなかんじだったんじゃなかろうか。
愁嘆場なんていっさいなく 
だまってそのときをうけいれた。
なんの話し合いもしてない。
これからはわたしたちがお母さんを支えて
力をあわせてやっていこう!
なんてことを言い合ったことも
まったくない。
協力体制みたいなものはなく、
それぞれに精いっぱい。
現実って、そんなもんだ。

ところで、
わたしは明確に、
お父さんっ子であった。
娘だからか 父にはかわいがられたし、
わたしも父がけっこうすきだった。

母と折り合いがよいといえず、
わたしは家を心のよりどころと
感じられてなかった。
父も、相当早い段階から
母との夫婦関係が崩壊し
家庭に居場所をみいだせなくなっていた。
(性格が似てるわれわれふたりが 
どちらも 母とうまくいかなかったのは 
とうぜんっちゃとうぜんだ)
似た境遇の者どうし 
わたしたちは わりとうまくやっていて
週末になるとふたりで
図書館にでかけたり
あてもなくドライブをしたり
したものだ。
ほかのだれもしらない 
わたしと父だけの思い出は多い。

父が家を出てから今日まで、
父はどこでなにをしているものか
・・・と おもわない日は
ほんとに1日だって、ない。
メガネをかけて 
白髪あたまをうしろになでつけた
70代くらいの男性をみれば 
父じゃないかと反射的に
凝視してしまう。

会いたくてたまらないとか
会えなくてつらいとか
そういうふうには感じない。
少しも苦しくはない。
わたしは凡庸な子どもであったが
人並みの感性や思考力はもちあわせてた。
ちゃんと
「わが父はしょうもない男である」と
認識してた。
好きだったきもちにウソはない。
でも、
父との関係をもっと打算的に
考えていた気もするのだ。
母とうまくやれないのに
むりして深くかかわって
いやな思いをするよりは 
この人と一緒にいたほうがラクだ。
居場所を確保するために、
父とは仲良くしておこう。
・・・といったかんじ。

そんなぐあい、
そんな程度だったと言えば言える
それなりに仲がよかったとはいえ
希薄な関係でもあったのだ
・・・
が、それでも、
今も毎日、
お父さんはどうしているのかな、と思う。
知りたいと思う。
だからといって、
母に父のことを聞いても
けっして話さないだろう。
ことがことであるし、
むこうが話さないのを 
こちらで聞くのは酷というものだろう。
(それに、どうも、
母もほんとうに
父の現在については
知らないようだ。)

父のことが知りたいとき、
(というか「父のことが知りたい」
と意思を表明したくなったとき、)
わたしは叔父や叔母に、それを言う。
ずっと、そうしてきた。
叔父や叔母に
「お父さんのことが知りたいのか」
と聞かれれば
いつも、間髪入れず
「知りたい」と答えてきた。

兄と弟が 
わたしにはひとりずついる。
彼らとこの件にかんして
話し合ったことは一度もない。
彼らが父について 何をおもっていたか、
いま、何をおもっているか、わからない。
それを知りたいとも おもわない。

父は しらふで手が出るたちであり、
兄と弟に暴力をふるうことがあった。
ふたりが父をうらんでいたり 
家からいなくなってほっとしていた
としても、むりはない。
兄弟には兄弟のきもちがあるだろうから
今さらわたしの気分で
それをほじくりかえしたいとは思わない。

叔父夫妻によれば
両親の離婚の経緯と顛末、
そして父の消息について 
知りたがる姿勢を見せる者は
3人きょうだいのなかで 
わたしだけであるという。

これまでに(今日も含めて)
叔父夫妻から聞き出した、
父あるいは両親のこと
※わたしの直接体験分も
 このさいだからまとめておく。

・現在父がどこでどうしているかわからない。
 存命であるかもふくめ。
・弁護士に相談したこともあったようだが、
 両親の離婚は最終的には協議によった。
 ※両親が離婚にあたって相談した弁護士が
  だれであるか じつはわたしは知ってる。
  事務所を訪ねて話をきかせてくれと頼んだ。
  が、その当時まだ15歳であり、
  両親のことを知ることはよい考えとは思えない
  と、拒まれた。
・離婚の要因に、父の多額の債務があった。
・母が、父の洗濯物のポケットから
 借用書らしきものを発見したことによって
 父の秘密は露顕した。
・離婚の決定的要因はこの債務問題だが、
 父には結婚当初から、女性問題など、
 ほかにも母をまいらせることが多々あった。
・じつをいうと わたしは 
 知らない女性からの父あてのハガキを
 家のポストから発見したことがある。
 ハガキを見たとき、わたしは
 これは母に知られてはいけないものだと直感し、
 秘密裏に回収・処分した(^^)
・母は実母(わたしにとっての祖母)に頻繁に
 父と別れたいと相談したようだが
 祖母は 共感をしめしつつも 
 娘夫婦の離婚に消極的だった。
 われわれ3人の子どもの生活を案じたからだ。
 母がようやく父と離婚したのは、
 祖母の死後4年がたったころ。
・父の債務は母の実弟(わたしの叔父)が
 かわってすべて返済した。
・債務の肩代わりの条件として離婚、
 養育費の支払い、すくなくとも成人まで
  われわれ子どもといっさい会わないこと
 という約束がかわされた。
・離婚後3か月で養育費の支払いはとどこおった。
・養育費の支払い額は父自身が提示してきたものだった。
 叔父と母は 父の懐をかんがみて
 もっと少なくてもよいと伝えたのだが
 父はあくまで自分が提示した額を払う、と言った。
 しかし遂行されず。
・母は支払い督促を断念した。
・父は離婚後、アルコールの問題で
 肝疾患をかかえるようになった。
・かつてご近所だったKさんが、
 F駅近くの地下道でわたしの父とばったり遭遇し、
 あいさつをかわしたと聞いたことがある。
 ※これは今から10年くらい前の情報。
・再婚のうわさはきかない。

まあ、よく聞く話だな。
元配偶者が
養育費払ってくれないとか。
借金が原因で離婚。
アルコール。
ある。ある。
どこにでもある人生の失敗の話ってかんじだ。

養育費の支払いが
とまってしまったこと
この額を払うと 自分で言ったくせに
約束を反故にしたこと
・・・まあ、
ほめられたことじゃないのは
たしかなのだが、
しかし、
父を恨む気にはならない。
ばかだなあとはおもう。
約束をやぶったらわれわれ子どもと
余計に会いにくくなることが
わかっていても、それでも 
養育費を払いたくなかったのか、と
ややガッカリみたいなきもちには 
なるのだが・・
約束したけどできない、
思ったよりも大変で、ムリだった、
・・・そういう失敗って、 
あるよね・・・
ほんとに大変だって聞くし 
養育費を払い続けることって。
きもちは理解できるんだよな。
自分が父の立場だとして、
いや自分はぜったい父みたいに
いいかげんなことはしないと 
言えるかはわからない。
想像でなく 
本当にその立場になってみないと 
わからないことだとおもう。

・・・
叔父も叔母も、
わたしの父をあしざまには言わない。
しょうもないエピソードだらけだが
あくまでも淡々と 
事実だけを話してくれる、いつも。
ウソがあるとはおもわない。
「話してくれてないこと」は、
もしかしたらあるかもしれないが。
そして叔父も叔母も、
どうもほんとうに 
父の現在については知らないようだ。

きょう、叔父夫妻に、
父の現状について、
いまのわたしが 
知る必要はないのではないか、
と言われた。
父を探し出すことができたとして
父が支援を必要としていて 
わたしを頼ってくるかもしれない。
でも いまのわたしには 
父を支える力がない。
老父を全面的に支援する、という
心づもりと実際的な余裕があれば、
父の捜索も接触を試みることも
かまわないだろうが、
それができない状況なら
知らないままに
しておいたほうがいいとのこと。
知っても父のためになにもできず
苦しいだけとすれば。

たしかにそのとおりだ。

また、叔母はこうも言ってた。
母とわれわれ3人の子どもは、
離婚後も、父と暮した家に住み、
引っ越さなかったのに、
父はわれわれを一度たりとも
たずねようとしなかった。
(会わないという約束だったとはいえ)
子どもの様子を知りたがる
姿勢をみせなかった。
その父に、会いたいという願望を
仮に叶えても、
わたしにとってよい結果、
理想的なリアクションが
待っているとはおもえない。

まったくもっともな話だ。

けど・・
わたしはこれからも
父のことを知りたいと
言い続けるだろうとおもう。

14年間 おなじ家で暮らしてた。
おなじ家で暮らしてたけど、
その人はある日家を出て行き、
そしていなくなった。
いない理由はわかっている。
べつに謎の失踪とかじゃない。
離婚して家を出て行った。
だからいないのだ、父は。
けど、よくよく考えると
いたのにいなくなった、
って すごくへんなかんじだ。

ちなみにわたしの本読みは 
あきらかに
父からうけついだ性向だ。
そして読むこと、書くことだけが
いままでずっと
わたしを助けてくれた。
子どもが人に頼らず
自力でできる心の整理方法として、
また、もっと単純に、
食べていく手段として。
おもえばまがりなりにも、
これだけでわたしはずっと食べてきた。
もしも、今ほどにも
読めて書けてなかったら 
もっと早くのたれ死んでた。
それか、すくなくとも
子どものころのわたしの 
心のなかの世界は
信じられないくらい貧弱だったはずだ。
だから父に感謝しているかと言われると
そんなおおげさには考えてないと 
こたえるしかないのだが。

父がどうしているか、
死んだのか生きているかを、
父のことで 
わたしが知らないことを、
知ることを求める。
わたしは知りたいと
言い続けるのを やめないだろう。

このまえ、
近所の図書館の
古い貸し出しカードを
発見した。
なくしてしまったと思っていたのだが。
その図書館は10年ほど前に
貸し出しシステムが刷新され
貸し出しカードも
そのときリニューアルされた。
古いカードは、持っていけば
引き取って処分してくれることに
なっていたのだが、
わたしはあえて手元に残した。
というのも
その古い貸し出しカードに
父の筆跡が残されていたからだ。
初めて利用者登録をしたときに
父がわたしの名前を書いてくれた。
ラミネート処理されているため 
文字が消えることもなく
きれいに残っている。
自分の持ち物で 
父の何かといったら、
もうこれしかない
失くしていなくてよかった。
びっくりするような場所に
隠れてたとかいうわけではなく
めったに使わないカード類を
まとめてあるファイルケースに
ふつうに入ってた。