BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想をおもに記録しています。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

正義は本質的に無神経なものだ-保育園の子どもの声がうるさいという訴えが最高裁に棄却された件

朝日新聞デジタルの、この記事を読んだ。
以下、内容をそっくり引用した。
リンクが切れてしまうと読めなくなるので・・


www.asahi.com



園児が遊ぶ声「うるさい」 訴えた男性、敗訴確定
12/21(木) 18:03配信
「園庭で遊んでいる園児の声がうるさい」として、
神戸市の男性が近隣の保育園を相手取り、
慰謝料100万円と防音設備の設置を求めた訴訟の上告審で、
男性の敗訴が確定した。
最高裁第三小法廷(木内道祥裁判長)が19日付の決定で、
男性の上告を退けた。
一、二審判決によると、保育園(定員約120人)は2006年4月、
神戸市東灘区の住宅街に開園。
高さ約3メートルの防音壁が設けられたが、
約10メートル離れた場所で暮らす男性は
「園児の声や太鼓、スピーカーの音などの騒音で、
平穏な生活が送れなくなった」と提訴した。
今年2月の一審・神戸地裁判決は、園周辺の騒音を測定した結果、
園児が園庭で遊んでいる時間帯は国の環境基準を上回ったが、
昼間の平均では下回ったとして、
「耐えられる限度を超えた騒音とは認められない」と結論づけた。
7月の二審・大阪高裁判決は、園児が遊ぶ声は
「一般に不規則かつ大幅に変動し、衝撃性が高いうえに高音だが、
不愉快と感じる人もいれば、健全な発育を感じてほほえましいと
言う人もいる」と指摘。
公共性の高い施設の騒音は、反社会性が低いと判断し、
一審判決を支持した。
(岡本玄)


わたしはこういうのについても 
最近ほんとおもうんだけど、
っていうか 考えをこういうのにまで拡張して 
おもってることがあるんだけど、

感じかたと事情と背景は人それぞれであるので
訴える権利はだれにでもいつでもある。
上告がしりぞけられたけど、それでも今後も
訴える権利はだれにでもある。
困ってるなら困ってると、言っていい。
敗色が濃いから最初から断念する、というのも
もちろん本人の自由なのだが、
負けそうだろうが 感じが悪かろうがなんだろうが
訴えたいとおもうなら まったくかまわないはずだ。

「ノイズキャンセラ付きのヘッドホンでもしとけや」とか
「イヤなら引っ越せば」とか
「訴えるのはいいがそのまえに 自分でやれる努力を全部やったのか?」
的な言い草は、わたしに言わせれば、つめたい。
「やることは全部やったけどそれでもだめでした」と
まわりにいちいち言い訳して 認めてもらってからでないと 
訴えることもできない
なんてことは あるはずがない。
いかにも そんなかんじがしなくもないが・・・
本当は、まったくそんなことはない。

困っているときは ただ困ってる、と言っていい。
もちろんそういうのは訴えてみて初めて実感できることだから、
訴えてない立場では わからなくてあたりまえだが。

いや わたしがいいたいのはじつは そこじゃない
・・・前にも何度も似たようなこといってきたかなとおもうんだけど、
こういうとき、
「自分だって子どもだったときがあっただろ! 
さわいでも周りの大人は多めにみてくれたんじゃないのか。
だから大人になったら 子どもがさわいでも許してやれ」
と 言うのは簡単なのだ。
(そしてそれはほんとにもっともな言い分なのだ。)
でも、

この「自分だって子どもだったときがあっただろ!」・・・
は、
(殺人などの)重大事件の加害者が、
ちょっとでも擁護されたときにかならずといっていいほど 
どこかからきこえる
「自分の身内が殺されても同じことが言えるのか!」
と言う声と 質的におなじではないだろうか。

鬼の首でもとったかのような こういう声が
かならずどこかからでてくるんだが・・・。

言っとくけど、
その「声」は、どうかんがえても正しい。
何度もいうけど べつに わたしは 
その声の内容が、まちがってると言っているんじゃない。
言うな、と言いたいのでもない。

ただ、
正しいからこそ危険だし、
場合によっちゃ人を殺すこととおなじくらい、
こういう声は、暴力だ。
正しいからこそ、たちがわるい。ってことがあるんじゃないかね。
ひとりひとりの声は、たいしたおおきさじゃないかもしれない。
「正しいことを言ってやりこめた気持ちになってみたい」とかいう
その程度のきもちで 言ったことかもしれない。
でも、そうしたちょっとした声も、
集まって固まれば 弾丸にも刃にもなる。
それは問題の渦中にある人の心を・・・というか 
とても重要な足場というか・・・
立場を、激しく損なってしまうおそれがある。
生きていけなくなるくらいに。

立場を奪われるってのは人にとって
ものすごくつらいことだよね。

そういうことは、していいのかな?
悪いことをした人、その考えには逸脱があると認定された人は、
「ダメなやつ」だから、何をされてもしかたがないかい?

わたしはそれはちがうと考える。
たしかに、
敗訴がきまったこの人が訴えた、園児の声のうるささは、
客観的にはそこまでじゃないよ、と されたのだし、
たとえば殺人などの重大事件の加害者は、そりゃ、
殺人などの重大事件の加害者なのだ。

けれども、
その認定が、または、「重大事件の加害者である」という事実が、
彼らの立場を奪っていい理由になるかというと、
やっぱりならないかなとわたしはおもう。

たとえどんな間違ったことをしたのだとしても、
それだからその人をどんなふうにも傷つけていいんだ、
ということにはならないはずだ。

とくに、その人物と実際的にはなんの関係もない人たちが、
正しさをふりかざすことによって その人物の立場をおかすことは
許されないことではないかなとおもう。

今の世の中、
誰でも、なんでも、すぐに言うことができる。
正しいっぽいことを言って悦にいることも簡単だ。

それだからこそ、なにごとも、
ことはそう単純じゃない っておもってないと 
危ないんじゃないかな。
そんなかんじがしてしょうがないんだけど。

無神経な正しさは、暴力にひとしい。
否、
正しさとは、本質的に無神経なものなのだとおもう。


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※フリー素材サービス「足成」でもらってきた画像です。