BRILLIANT CORNERS-2

観た映画・読んだ本など関心ごとへの感想メインの、なんということのなさすぎる身辺雑記帳です。 少しずつ、いろいろ更新してまいります。 お気が向いたらお読みいただければさいわいです(^O^) ブログのタイトルは、セロニアス・モンクのアルバムから。「すみずみまで光り輝く」というような意味だそうで、なんとなくいいなとおもうもんで。

「三度目の殺人(2017)」の感想と解釈(ごく一部のシーンについての)。

※公開中の映画の内容に触れていますので ご注意を。





ダンケルク」4回めも およそ褪色ということをしないおもしろさだった。

とはいえ ダンケルクばかりでもなんだ。
もう1本 みたいとおもっていた映画をみた。

三度目の殺人
是枝裕和監督、2017年、日本)

movie.walkerplus.com

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主人公は重盛という刑事専門の弁護士(福山雅治)。
たのまれて やむなく 死刑がほぼ確実視されている
(弁護側にとっては不利な)案件を引き受けることになる。
被告人は三隅(役所広司)。
勤め先の工場をクビになった直後、
工場長を川べりに誘い出して殴り殺し、
ガソリンをまいて死体を燃やした。
被害者の財布も盗んでいる。
自白ずみ。
三隅は30年前にも殺人をやっている。
もう1件やったとなっては、しかも金目当ての強殺とあっては
死刑でまあかたいのだが
重盛は引き受けた以上は というので
無期懲役狙いで 事件を調べ始める。
三隅は どこかおかしな男だ。
会うたびに その供述が二転三転し、
そもそも 動機もはっきりせず
なにを考えているのか わからない。
しまいに三隅は 
殺害は、被害者の夫人(斉藤由貴)から頼まれてやったこと、
と 新事実をほのめかし始める。
被害者夫人と不倫関係にあり、
工場の経営状況がよくなかったので
保険金目的で被害者の殺害を依頼されたというのだ。
それがたしかなら被害者夫人が 殺害を指示した主犯と
いうことになり
三隅の量刑が軽くなる可能性は でてくるのだが・・・。

そんななか、被害者の娘・咲江(広瀬すず)の存在が
突如クローズアップされてくる。
じつは三隅と咲江には、交流があった。
重盛はふたりの関係を探っていくうちに、
ある重大な秘密にたどりつくことになる。
三隅はなぜ工場長を殺したのか。
本当に工場長を殺したのか。
彼がやったのでないなら 誰がなぜ殺したのか。
三隅のいうことのなかでどれが本当でどれがウソなのか。
真相をつかみだすため 被告人の心に迫ろうとするうちに
三隅がかかえる大きな闇にのまれていく重盛。

・・・・・・・・・・・・・

<感想>
たぶん是枝監督の作品のなかでは
あまり多くの人には 好いてもらえないほうのやつだろう。
クライムサスペンスのようでありながら
だれがやったか、なにがなされたか、なぜなされたか、
ではないことを表現してた、
法廷を舞台に。 
そうである以上 
好かれないことがあってもしょうがないんだとおもう。

わたし自身の関心事にほぼ等しいことが、
だいすきな映画監督の手によって 
このタイミングで こうして映像化された、
という事実に
終始驚きながら観た。

しかし おなじことでも人によって感じかた、
表現のしかたがほんとにぜんぜんちがうもんだな。

おもに反射を利用したシャドーの表現が、
きれいだったし、うまかった。
どちらがどちらのシャドーなのかについてもふくめ。

さいしょは、「三度目の」ではなく「三つめの」のほうが
適切なんじゃないかとおもったが、
自分の理解のまちがいにあとで気づき、
三度目の、でよかったと考えなおした。
でも 三度目の殺人が どれを指すにせよ
前の2回とはやっぱりあきらかに
質がちがうとおもうけどな。

役所広司福山雅治斉藤由貴が光ってた。


・・・・・・・・・・・・・

<自分なりの解釈>

咲江は父を殺してないと わたしはおもう。

さいしょは、
咲江にもなにか 贖うべき罪があるらしいことを
確信してた。
というのも、
まず、
物語のなかで印象的につかわれるマークとして、
十字架があった。
三隅・咲江・重盛の3人で雪遊びをするファンタジー的シーンで
彼らが地面にねころぶ姿を 上空からとらえて
いたのだが
重盛が「大の字」になっていたのに対し
三隅と咲江は両足をとじて 「十字架」の形でねていた。
そのシーンは 
まだ、三隅が工場長を殺した線で疑いない、という段階で
でてきた。
だから
十字架=殺し=罪 だと そのときは理解した。
あとから咲江をめぐる ある事実があきらかになったとき
じゃあ 咲江もあのシーンで十字架の形で寝てたから、
彼女もなにか罪を犯したんだな。 とおもった。
率直に言うと 
ほんとうは工場長を殺害したのは娘の咲江なんだけど
咲江を我が子の代替のように感じて大切におもっていた三隅が
なんらかの方法でその罪を肩代わりしたとか
または ふたりで協力しあって工場長を殺害したとか。

でも、もう少し物語を観ていくうちに
この物語における十字架がなにを意味してるのか
死なのか 罪なのか 贖いなのか 
なんなのか
いろいろ可能性がでてきたな! 
と考え直すことになったのだ。
いろいろというか 正直なところいうと
「十字架」=「死」
じゃないかとおもってる。
「罪」じゃなく、「贖い」でもなく。

なぜかといえば
それは作品のタイトルの意味を考えたときに。

三度目の殺人」が意味するものが
三隅の
「死刑を利用した自殺(死にたい)」 
もっと拡げて 
「塀の向こうに一生こもることによる社会的な死」
だと したとき
物語における「十字架」は
イエス・キリストの前からの
十字架の意味であるところの
「死」、とおもえた。

十字架、十字架による磔刑
ものすごく痛いし 長く苦しんで死ぬ。
また、ユダヤの律法において、
極めて重い罪を犯した者か、悪事をはたらいた奴隷に
適用される刑だったそうだ。
極めて重い罪を犯した者、とは当時でいえば政治犯
政治犯、とは イエスが生きた世界でいえば
ユダヤの律法を犯した者、瀆神行為をはたらいた者
ということにほぼ等しい。
ユダヤ教は生活密着型・民族型の伝統宗教なので 
当時のパレスチナの人びとのなかでは「あなたはユダヤ教徒ですか」
とかいう問題じゃなく ユダヤ教こそ生活であり文化だった。
だからイエスも その意味じゃユダヤ教徒だったことになる)
十字架による磔刑は死刑のバリエーションのひとつなので、
死ぬのであるし、
というか、
生前から社会的に死んでいたようなものだ。
律法を犯したとされた者や 奴隷という存在は。
したがって十字架による磔刑にかかることは
「死」そのもの、という共通認識が
当時の(十字架刑があった地域の)人びとの心にあった、と聞く。
イエス・キリストが十字架刑によって死んだとき、
この世のすべての人の罪をその一身にて贖ったことになったので
それによって あとで 十字架=贖い、という意味付けもなされたが、
イエス・キリストより前の十字架は、贖いとかではなく
まず 死、という意味だったようだ。
もちろんそれにほぼかぶる形で 罪、の意もあったろうが。

で、
三隅と咲江が十字架にみえる姿勢で寝転んでいたことに
見られる意味とは

「三隅も咲江も罪を犯した(→十字架刑に処されてしかるべき人間)」
ではなく、
「三隅も咲江も
(それぞれの理由で)死を求めているあるいは死者(同然である)」
ではなかろうかとおもうのだ。

「生まれなかった方が、その者のためによかった」
という言葉が聖書にあったとおもうんだけど・・・。
イエス・キリストがユダを指して言ったんだったかな。
あ、マタイによる福音書みたいだ。

生まれてこない方がよかった人間だと
三隅は自分のことを思っている節があったのだ。
咲江も 幼時はそんなこと思ってなかっただろうけど
14歳を境に そのくらいおもいつめてもしかたのない日々を
強いられるようになったことが わかっている。
虐げられると自罰的になるし 生きるのに必要な 心の力が奪われるから。

十字架の意味が イエス・キリストより前のものなら
生まれてこない方がよかった、
またはそれに類する作中頻出のワードを
イエス・キリスト以後とつなげるのはおかしい ということに
なるかねえ。

それに三隅がクリスチャンかわからないし。
三隅の借家にたしか お仏壇かそれに近いものがなかったかな・・・

でも、
もし仮に あの十字架が 罪を表すものなら、
小鳥のお墓に十字架つけないとおもうんだよ。
小鳥は別に悪いことしてないんだから。
くわえて、
十字架イコール贖い、赦し(あなたの罪はゆるされた)だとなると
被害者の死体を 十字架型には意地でもしなかったはずだ。
三隅がやったのだとしても、咲江だとしても。
だけど「死」そのものの意ならば、
小鳥のお墓に十字架を付したのも
被害者の死体をわざわざ十字架型にととのえたのも
三隅と咲江が十字架の姿勢で寝転ぶイメージが入ったのも
わかるんだよ、あとになってみて。

まあ ほんとのとこは監督じゃないと わかんねえけども(^^)

さっき 三隅がクリスチャンかわからないと言ったけど
クリスチャンではないとしても それだからこそ
十字架のシンボルに付す意味合いを
うろおぼえや 初歩程度の教養 なまはんかな知識により
気分でいろいろ使い分けてみた(という設定)、
と考えることも可能になる。

小鳥は死んだから ただそれだけの意味で お墓に十字架マーク。
工場長は悪いやつだ(と三隅は思ってた)から 殺したときに
わざわざ「罪」の象徴として 十字架のポーズにしてやった。
三隅が十字架のポーズで寝るイメージは 彼が罪人だから。
咲江が十字架のポーズで寝るイメージは 彼女の心が「死人」だから。
そんなふうに 同じ十字架でも全部意味がちがうんです
ということであっても
べつに ありといえばありだ
まあ さすがにそれはふざけんなよって話だけど。
さすがにそれはないとおもうけど。

きっと
何度も何度も何度も何度も変えたんだろうな、脚本。
こうやって 観る者に考えさせるために。

たぶん正解とかないから 
わからないね(^^)

また、
三隅のあまりに多面的なキャラクター。
自己韜晦なのか素なのか。
発言とその意味との狂的変動。
ヤバそうに見えるが まともにも見える。
人を殺すけれど守ろうともする。
あこがれるけれども侮蔑してもいる。
救いたかったのか、助かりたかったのか。
彼がどうしたかったのかもあるが
まわりが彼をどう見たいかも からむ。

これらをはっきりさせることも難しいことに
あとで気がついた。
つまり三隅とは結局こういう男です、と
わかりやすく評価することはできないし
そうすることにあまり意味がない、という点こそが
この物語のポイントであるのだ。
なぜなら両立するからだ。
真逆の思いもひとりの人間のなかで両立する。
もちろん、段階により境遇により、
いろんな思いのどれかひとつが 
一番だいじなもの、というかんじで
当人を形づくるように見えることが おおいのだが。
両立し、表に見える面が くるくる変わるから
見えかたも変わる。まさに千差万別ということになる。
本人が見せたい表面と まわりが見たい表面とが
マッチすればまあ・・・
「自分はこういう人間=この人ってこういう人」
と 一応なって、オーライ。なのかなあ。
それもちがうか。


三隅が一羽だけ逃がしたという鳥は
咲江、だろうなとおもう。
退廷していく三隅が、
傍聴席の咲江には目もくれず、
両の手のひらを お椀形にして上にむけ、
いましも そこに包んだ小鳥をはなったように
中空をみやる姿が印象的だった。

容疑者Xの献身の あの数学者のように、
彼のなかでは 今や咲江だけが、
光であり華でもありえた、と
一応 いえる。

でも咲江のことも、
三隅にとって いつも最重要事項でなかったとしても
べつに おかしくはないわけで、
変わるのだ。人は。

三隅は控訴しないんだろう。

咲江も闇が深い女の子だ。
広瀬すずちゃんは
そう おもわせる演技がすごく上手だった。
自分がやった罪を他人がかぶってくれている、というとき
そう平気でいられるもんじゃないだろう。
それもあって わたしは一応 
咲江はやはり父を殺してないはず、とおもっている。
だが 殺しててなお あのように平静でいられる子、
と おもわせなくもない演出だった。

彼女が北大志望であることをにおわせてたが
志望校を母がまだ知らない設定にしておいたほうが 
よかったんじゃないかなと わたしはおもう。
北大進学は 咲江の 生きよう、という最後の意欲のあらわれに
ほかならず、そこにはギリギリまで 母がからまなかったほうが
よかったかんじがした。

咲江は 法廷でついに話さなかったあの重大な秘密を
このままずっと だれにも明かさないでいくのだろうか?
それで彼女が救われるのか気がかりだ。

咲江の足のハンデの真相が
「生まれつき」なのか
「高所から飛び降りたことによるケガ」なのか
が ゆれたままなのが やはり少し気になった。

ほんとは飛び降りたのに生まれつきとウソをいうなら
なにかわかる気もするのだが、
生まれつきなのに 飛び降りてケガをしたとウソをいう、
というのは解せんな と。
どちらのウソも 状況が状況なら無意味なのだが。

しかも咲江は「え? ウソじゃありません、
ほんとに飛び降りたんです」。

「ほんとに飛び降りたんです」。
・・・・・
そもそも飛び降りたのはなぜ。

うそを言う子キャラ というブラフってことでいいだろうか。
うそを言う子も ほんとうのことを言うことはもちろんあるし。

まだまだほかにも
理解のしようがありそうだ。

小説を読む気にはならないが(^^)
こういうとき小説を読むと
小説がほんとにつまらなくおもえてしまうんだよね。
何度それで悔やんだことか。

三度目の殺人
もう1回くらい みようかなあ。
もう1回観たら観たで 先入観がはいってしまうからなあ・・
答え合わせみたいなことはしないつもりで
虚心に観られたら一番なのだが。