BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想をおもに記録しています。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-「三度目の殺人(2017)」/ごく一部のシーンについての感想と解釈-170919。

※公開中の映画の内容に触れています。

「三度目の殺人」
是枝裕和監督
2017年、日本

movie.walkerplus.com

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主人公は
刑事専門の弁護士、重盛(福山雅治)。
たのまれて、しかたなく、 
弁護側にとって不利な案件
すなわち死刑がほぼ確実視されている
案件を、引き受ける。
被告人は三隅という男(役所広司)。
勤め先の工場をクビになった直後、
工場長を川べりに誘い出して殴り殺し、
ガソリンをまいて死体を燃やした。
被害者の財布も盗んでいる。
自白ずみ。
三隅は、30年前にも殺人をやっている。
そこへもう1件やったとなっては、
しかも金目当ての強殺とあっては
これはもう死刑でカタいのだが
重盛は 引き受けた以上は
・・・というので
無期懲役を狙えないものかと、
事件をもう一度 慎重に調べ始める。
この三隅、どこかおかしな男だ。
会うたびに供述が二転三転し、
そもそも動機もはっきりせず
なにを考えているのか 
いまいちよくわからない。
しまいに三隅は 
工場長殺害は、被害者の夫人
斉藤由貴)から頼まれてやった、
と 新事実をほのめかし始める。
被害者夫人と不倫関係にあり、
工場の経営がかんばしくないから
夫を殺してくれないか(保険金目的)
と、依頼されたというのだ。
それがたしかなら被害者夫人が
殺害を指示した主犯ということになり
三隅の量刑が軽くなる可能性は
でてくるのだが・・・。

そんななか、
被害者の娘・咲江(広瀬すず)の存在が
クローズアップされてくる。
じつは三隅と咲江には、交流があった。
ふたりの関係を探るうちに、
重盛はある 重大な秘密にたどりつく。

三隅はなぜ工場長を殺したのか。
本当に工場長を殺したのか。
彼でないなら 誰がなぜ殺したのか。
三隅のいうことの
どれが本当でどれがウソか。
被告人の心に迫るうちに
三隅がかかえる大きな闇に
のまれていく重盛。

・・・

<感想>
是枝監督の作品では
あまり多くの人には 
好いてもらえないほうのやつだろう。
クライムサスペンスのようでありながら
だれがやったか、
なにがなされたか、
なぜなされたか、
ではないことを 表現してた、
法廷を舞台に。 
そうである以上 
好かれないことがあっても
しょうがない。

おもに反射を利用した
シャドーの表現が、
きれいだったし、うまかった。
どちらがどちらの
シャドーなのかについてもふくめ。

さいしょは、
「三度目の」ではなく
「三つめの」のほうが
適切ではないかとおもったが、
自分の理解のまちがいにあとで気づき、
三度目の、でよかったと考えなおした。
でも 三度目の殺人が 
どれを指すにせよ
前の2回とはやっぱりあきらかに
質がちがうとおもうけどな。

役所広司福山雅治斉藤由貴が光ってた。


・・・

<自分なりの解釈>

咲江は父を殺してない。

さいしょは、
咲江にもなにか 
贖うべき罪があるらしいことを
確信してた。
というのも、
まず、
物語のなかで
印象的につかわれるマークとして、
十字架があった。
三隅・咲江・重盛の3人で
雪遊びをする
ファンタジー的シーンがあった。
彼らが地面にねころぶ姿を 
上空からとらえていた。
重盛が「大の字」なのに対し、
三隅と咲江は両足をとじて 
「十字架」の形でねていた。
そのシーンは 
まだ、
三隅が工場長を殺した線で疑いない、
という段階で でてきた。
だから
十字架=殺し=罪 
だと 理解した。このときは。
咲江をめぐる ある事実が
あきらかになったとき
じゃあ 咲江もあのシーンで
十字架の形で寝てたから、
彼女もなにか罪を犯したんだな。 
とおもった。
すなわち、
工場長殺害の真犯人は
工場長の娘である咲江。
咲江をかわいがっていた三隅が
その罪を肩代わりした。
または ふたりで協力しあって
工場長を殺害した。
そのように考えた。

でも、もう少し観ていくうちに
この物語における
「十字架」の意味付けが
もっと多岐にわたる
可能性に気づいた。
はっきり言うと
「十字架」=「死」
じゃないかと。
「罪」じゃなく、
「贖い」でもなく。

タイトル「三度目の殺人」が
意味するものが
三隅の
「死刑を利用した自殺」 
「塀の内側にこもることによる社会的死」
だと したとき
物語における「十字架」は
イエス・キリスト以前の
十字架の意味であるところの
「死」、とおもえた。

十字架、十字架による磔刑
痛いし 長く苦しんで死ぬ。
また、ユダヤの律法において、
極めて重い罪を犯した者か、
悪事をはたらいた奴隷に
適用される刑だったそうだ。
極めて重い罪を犯した者、とは
当時でいえば政治犯
政治犯、とは 
ユダヤの律法を犯した者、
瀆神行為をはたらいた者、
に、ほぼ等しい。
ユダヤ教は生活密着型・民族型の
伝統宗教なので 
当時のパレスチナでは
「あなたはユダヤ教徒ですか」
とかいう問題じゃなく 
ユダヤ教こそ生活であり文化だった。
だからイエス・キリストも その意味で
ユダヤ教徒だった)
十字架による磔刑
死刑なので、死ぬ。
それに、
律法を犯した者や 
奴隷という存在などは、
生前から社会的に死んでいたようなものだ。
したがって磔刑にかかることは
「死」そのもの、という共通認識が
当時の(十字架刑があった地域の)
人びとの心にあった、と聞く。
イエス・キリスト
十字架刑によって死んだとき、
この世のすべての人の罪を
その一身にて贖ったことになったので
あとから 十字架=贖い、という
意味付けもなされたが、
イエス・キリストより前の十字架は、
贖いとかではなく
まず 死、という意味だったようだ。
もちろんそれにほぼかぶる形で 
罪、の意もあったろうが。

で、
三隅と咲江が
十字架にみえる形で寝転んでいたことに
見られる意味とは

「三隅も咲江も罪を犯した
(→十字架刑に処されてしかるべき人間)」
ではなく、
「三隅も咲江も
(それぞれの理由で)
死を求めている、
あるいは死者(同然である)」
ではなかろうかとおもうのだ。

「生まれなかった方が、その者のためによかった」
という言葉が聖書にあったとおもう。
イエス・キリストがユダを指して
言ったんだったかな。

生まれてこない方がよかった人間だと
三隅は自分のことを思っている節があった。
咲江も 14歳を境に 
そのくらいおもいつめても
しかたのない日々を
強いられるようになったことが 
わかっている。
幼時はそんなこと思ってなかっただろうけど
虐げられると 人は自罰的になるのだ。

十字架の意味が 
イエス・キリスト以前のものなら
「生まれてこない方がよかった」
またはそれに類する作中頻出ワードを
イエス・キリスト以後と
つなげるのはおかしい ということに
なるかねえ。
三隅がクリスチャンかわからないし。
三隅の借家にお仏壇か
それに近いものがなかったか・・・

でも、
もしあの十字架が「罪」を表すなら、
小鳥のお墓に十字架つけないとおもう。
小鳥は悪いことをしてないんだから。
くわえて、
十字架イコール贖い、赦し
(あなたの罪はゆるされた)だとなると
工場長の死体を
十字架型には意地でもしなかったはずだ。
やったのが三隅だとしても、咲江だとしても。
だけど「死」そのものの意ならば、
小鳥のお墓に十字架を付したのも
被害者の死体をわざわざ
十字架型にととのえたのも
三隅と咲江が十字架の姿勢で寝転んだのも
ある程度、納得がいく。

三隅がクリスチャンか
わからないと さきほど述べたが
クリスチャンではないとしても 
それだからこそ
十字架に付す意味合いを
うろおぼえ 初歩程度の教養 知識により
気分で使い分けてみた
(という設定)、
と考えることも可能になる。

小鳥→死んだ→お墓に十字架=「死」
三隅→死にたい→十字架=「死」
三隅→罪人→十字架=「罪」
三隅→咲江を救って罪を贖う?→十字架=「贖い」
咲江→心が死んでいる→十字架=「死」
工場長→悪いやつ→十字架=「罪」
こんなふうに 
同じ十字架でも全部意味がちがう
・・・ということであっても
べつに ありといえばありだ

きっと
何度も何度も何度も何度も
変えたんだろう、脚本。
観る者に考えさせるために。

たぶん正解がないから 
わからないね(^^)

また、
三隅の多面的なキャラクター。
自己韜晦か、素か。
発言とその意味との狂的変動。
ヤバそうに見えるが 
まともにも見える。
人を殺すけど守ろうともする。
救いたかったのか、
助かりたかったのか。

彼がどうしたかったのかもあるが
まわりが彼をどう見たいかも からむ。

これらをはっきりさせることも
難しいことに
あとで気がついた。
つまり三隅とはこういう男です、と
わかりやすく評価することはできないし
そうすることにあまり意味がない、
という点こそが
この物語のポイントだ。
なぜなら両立するから。
真逆の思いも 
ひとりの人間のなかで両立する。
もちろん、段階により境遇により、
いろんな思いのどれかひとつが 
一番だいじなもの、というかんじで
当人を形づくるように
見えることが おおいのだが。
両立し、表に見える面が 
くるくる変わるから
見えかたも変わる。

本人が見せたい面と 
まわりが見たい面とが
マッチすれば・・・
「自分はこう=この人ってこう」
と 一応なって、オーライ。
なのかなあ。
それもちがうか。


三隅が一羽だけ
逃がしたという鳥は
咲江、だろう。
退廷する三隅が、
傍聴席の咲江には目もくれず、
両の手のひらを お椀にして上にむけ、
いましも そこに包んだ小鳥をはなったように
空をみやる姿が印象的だった。

容疑者Xの献身の 
あの数学者のように、
三隅のなかでは 今や咲江だけが、
光であり花でもあった、と
一応 いえる。

でも咲江さえも、
三隅にとって 
いつも最重要事項でなかったとしても
べつに おかしくはない。
変わるのだ。人は。

三隅は控訴しないんだろう。

咲江も闇が深い子だ。
広瀬すずちゃんは
そう おもわせる演技が上手だった。
自分の罪を他人がかぶってくれている、
というとき
そう平気でいられるもんじゃない。
それもあって わたしは
咲江は父を殺してないはず、
とおもっている。
だが 殺しててなお 
あのように平静でいられる子、
と おもわせなくもない演出だった。

北大志望であることを
におわせてたが
母がまだ志望校を知らない
設定にしておいたほうが 
よかったんじゃないかなと 
わたしはおもう。
進学は、咲江の 
生きよう、という
最後の意欲のあらわれに
ほかならず、そこにはギリギリまで 
母が からまなかったほうが
よかったかんじがした。

咲江は 法廷でついに話さなかった
あの重大な秘密を
このままずっと 
だれにも明かさないのだろうか?
それで彼女が救われるのか
気がかりだ。

咲江の足のハンデの真相が
「生まれつき」なのか
「高所から飛び降りたことによるケガ」なのか
が ゆれたままなのが 
少し気になった。

ほんとは飛び降りたのに
生まれつきとウソをいうなら
なにかわかる気もするのだが、
生まれつきなのに 
飛び降りてケガをしたとウソをいう、
というのは解せんな と。
どちらのウソも 
状況が状況なら無意味なのだが。

しかも咲江は
「え? ウソじゃありません、
ほんとに飛び降りたんです」。

「ほんとに飛び降りたんです」。

飛び降りたのはなぜ。

うそを言う子キャラ という
ブラフってことでいいだろうか。
うそを言う子も
ほんとうのことを言うことは
もちろんあるし。

まだまだほかにも
理解のしようがありそうだ。

小説を読む気にはならない。
こういうとき小説を読むと
小説がほんとにつまらなく
おもえてしまう。
何度それで悔やんだか。

もう1回くらい 観ようかなあ。
もう1回観たら観たで 
先入観がはいってしまうからなあ・・
虚心に観られたら一番なのだが。