BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

テレビにでてたおばあちゃんの話と所感。

たとえほんのいっときでも、かりそめにでも、
自分を必要としてくれたり、案じてくれたり、
会いたいとか話したいとか言ってくれる人には
心からの感謝を捧げたい。
そんなことを言ってくれる人はほんとうに貴重だ。
あしたへの力になるし、自信にもなる。
たいせつにしなくてはならない。
そういう人に 不義理はぜったいしたくない。
そういう人にだけは ガッカリされたくない。
そのように心の底からおもう。

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まえから、このことを覚えときたいから
いつか書かなくっちゃなと
おもっていたんだけど、
数か月前の日曜日の昼間に、テレビをみていて、
ある番組に登場したおばあちゃんのことが
印象に残ってる。

番組は、途中から観たし、最後まで観なかったから、
どういう趣旨のものだったか正確にはわからない。
でもまあ、
一般のご家庭にカメラが入って、
そのおうちのかたに、家族の歴史とか思い出を
語ってもらうような 内容だったことはたしかだ。

それで、番組スタッフが、あるお宅を訪問した。
おばあちゃんがひとりで暮らしている、
ほんとうに一般のふつうのおうちだった。

おばあちゃんは70代~80代で、
お国なまりが かなり強く、
当然しゃべりのプロではないので、
話があっちこっちに飛びまくるし、
話のなかによくわからない登場人物がいっぱいでてくるし、
正直なにを言っているのかわかんない、
要領を得ないところは多々あった。

のだが、
よくよく話を聞いてみたところ、
取材開始からずいぶんたってから あることが判明した。
おばあちゃんは、娘さんを亡くされていた。
娘さんは 30代になったかならないかのお若いうちに病をえて、
幼い子どもをふたり残して亡くなったのだ。

おばあちゃんはその娘さんのことを、
(自分には娘がほかにもいるけれど、)あの子だけが
わたしの夢をひきついで、かなえてくれた子だった、
と なつかしそうに語った。
子ども好きのおばあちゃんは、
若い頃、学校の先生になりたかったのだが、
時代も時代のことで、まともに通ったのは小学校ぐらいで、
ついに夢はかなわなかった。
しかし、亡くなった娘さんが小学校教諭になったことで
自分の夢がかなったような気がして とてもうれしかったようだ。

が、学校の仕事にも慣れて これからだというときに、
娘さんの体に、難しい病気が見つかった。

そこからの壮絶な闘病、そして最期のときまでの思いをかたった
おばあちゃんの言葉がすごくて、
数か月もたったけど いまも覚えている。

要約すると、
おばあちゃんはこういうことを言っていた。

「『わたしの命をかわりにさしあげますからなんとかこの子は
助けてやってください』と、仏さまに何度おねがいしたか
わからないが、でも、本心は、
わたしも生きて、娘が元気になったところを見たい、
というきもちがあったから、
その点で、わたしのねがいは本当じゃなかった。
だから仏さまは、わたしのおねがいを
聞き届けてくれなかったんだとおもう」。

このようにおばあちゃんが話すのを聞いたとき、
かなり強い衝撃を受けた。
じゅうぶんな学校教育をうけてなく、
社会的地位とかもまったくなく、
ふつうの、ご近所のお年寄りである
このおばあちゃんの
自分自身の心を見つめる力のたしかさ、
素朴な信仰と現実的な思考とがまったくぶつかりあうことなく
ブレンドされたその心のしなやかさ、
心の美しさにおどろかされた。

苦悩と、傷と、かなしみと、混沌と、透徹と、あきらめの
まじりあいが ほんとに美しいと感じて
胸をうたれてしまった。

これほどまでに高水準な心の境地に
到達できてしまっている人だったのだが、
カメラが入ってなかったら、ちゃんと長い時間をかけて
話をしんぼうづよく聞いてなかったら、
このおばあちゃんの心はだれも見られなかったのかも
しれないとおもう。
こんな思いを抱えて生きてきたことを、
ご家族にだってちゃんと話したかどうかわからないし。
むしろご家族だからこそ話さないこともあるだろうから。

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なにかを好きだとおもう気持ちと、
そのなにかに関する知識量および経験値とは、
本来 かんけいがない。
「好きこそものの・・・」ということわざはあるし、
まあそれはそのとおりだ、とはおもうが、
そのことわざは、えーーーと要するに
話のステージが、いまからわたしが言おうとしていることとは、ちがう。
必ずしも誰もが
「●●が好きだから●●のことめっちゃ知ってる」
っていう状態でなくても かまわないのではなかろうか。 
●●のこと好きだけどあんまり知らなくって、
でも知りたいとはおもってる。」
みたいなきもちであることを 恥じる必要はまったくない。
だって・・・ 最初はみんな、そこから始めるんじゃない。


まして
「そんな自分は中途半端なんじゃないだろうか」
「そんな状態で●●がほんとに好きな人たちの輪に飛び込んだら
『あなたは本物のファンじゃない』とか言われちゃうだろうか」
とか 心配する必要はさらにない。 

とくに後者のように
「まわりになにか言われることを恐れる」思いでいることは 
とてももったいないだろう。

自分にとってたいせつな人であればあるほど 
その人がこの手のことで苦しんでるのをみると 
千尋の谷的な 清水の舞台的な 
ものっすごい高いところから
「うっせーーーー!!行ってこい!!!!」って 
うしろからドーンと突き落としてやりたくなる。
よけいなおせわだから もちろんやらないけど。

仮に
「あなたは●●のことちゃんと知らないから、本物のファンじゃない」
といったたぐいの ばかげたことを 言ってくる人がいても、
それは言う人のほうに問題があるのであって、
言われたほうに非はないと わたしはおもう。
たいして知らないくせにすごく知ってるっていう
フリをするのだとしたら 
自分自身の心に対してたいそう非があるだろうが。

「自分はまだこうこうだから、こんなことを言ったら
みんなに批判されるかも・・・」
という気持ちはだれでも(わたしも。)抱くもんだ。

だが、それは多くの場合ただの「心配ごと」、もしくは
「心配ごとのようにみせかけた『やらないいいわけ』」であって、
「最優先事項」では断じてありえない。
「他人に批判されないようにすること」
が最優先事項になりえてたまるかよ。

「批判されたくない」「傷付きたくない」が先に立ち、
自分がなにをしたいとおもっているのか 何がすきなのかが
わかんなくなる、
またはそれについて考えるのをやめてしまうようでは、
やっぱり いけない。

知らないことも、足りてないことも、恥でもなんでもない。
人の体はほとんど水でできてるんだから、
構造的に、熱くなりにくいんだとおもう。
自分で自分が半端におもえようがなんだろうが、
ちょっとでも心に熱いものが沸き立つ予感をおぼえたなら、
だいじにしたほうがいいんじゃなかろうか。

きらいなものよりも 好きなもののことについて
たのしそうに話してくれる人のほうが わたしは絶対的にすきだ。
(わたしの好き嫌いはどうでもいいか。)

ところで、こんなことまで 
いま言う必要は本来ないんだろうが
口がすべったから言ってしまうけど(なんだそれ!)、
もちろん、自分にとってどうでもいい人の前であったら、
おのれの責任の範囲内で
いくらでも自分を演じていればいい。
うそもつけばいい。
本心を隠しててもいい。 
それはすきにすりゃいい。
だれだって、程度の差こそあれ 
対する人によって自分を演じ分けて うまいことやっている。
でも もしも そんなことに腐心しすぎたあまり
結局自分がなんなのか、なにがしたいのかを忘れてしまったり、
非常に重要におもわれたなんらかの好機を逸したり した場合に、
(べつにそれもそれで人生なんだが、)
ともかく、
他人のせいにだけはしてはいけない。
それだけはお約束だ。
それはなぜかというと、
いつかこのさきの、自分自身のために、
人のせいじゃなく全部自分でそうしてたんだということを
理解していることがすごく大事だからだ。