BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『花戦さ』-170612。

篠原哲雄監督
2017年、日本

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けっこうたのしかった。
原作は鬼塚忠の同名小説で、
古い伝説をもとにした時代劇。

ストーリーはだいたいこのようなかんじ。
ときは天正年間、
舞台は織田信長から豊臣秀吉へと
治世がうつりかわるころの京都だ。
都に、頂法寺というお寺がある。
このお寺は、お坊さんがみんな、
池坊(いけのぼう)」という流派の華道をやる。
町の人たちにも気軽にお花を教えたりするので、
とても慕われているお寺だ。
そこに、専好(野村萬斎)というお坊さんがいる。
彼はときの天下人・織田信長に華道の才能をみとめられ、
信長との謁見の際に出会った千利休佐藤浩市)とも
親交をふかめていた。
しかし、信長が世を去り豊臣秀吉市川猿之助)の治世になると、
おだやかだった専好の身辺がさわがしくなってくる。
秀吉と利休の関係が悪化してきたのだ。
利休はやがて、自害を命じられて果てる。
利休と親しかった専好は、利休が秀吉との関係に悩んでいたのを
知っていたので、友の死に心をいためる。
だが、秀吉は、利休と親しかった専好のことも気に食わない。
専好が民衆を扇動して反乱を企てているのではないかなどと
よしないことを考えはじめる。
秀吉は、跡取り息子の急死をきっかけに心のバランスを崩し、
いっそう酷薄な暴君と化していく。
自分を悪く言う歌が町に貼りだされたと聞けば 
町民をとらえて虐殺し、
自分を「猿」と言ってからかったといっては、
いとけない子どもまでも打ち首にする。
町の人びとの苦しみをまのあたりにした専好は、
その心にしずかな怒りの炎を燃やし、
やがて秀吉を相手どり
「華の道をもって上さまをおいさめする」、
花戦さ」に挑むことを決意する・・・。


古い伝説をもとにした・・・と先にのべたが
その伝説は京都の池坊頂法寺
つたわっているものだそうで、
池坊専好(初代)も実在の人物だ。
初代専好が信長と秀吉に目通りした記録も残っていて
千利休とも生きた時代をおなじくしている。
だからこの物語はまったくのフィクションてわけじゃない。

わたしはこの映画には 
深みとか隠喩とか 思考に値するものは ない、と感じた。

エピソードの取捨選択とそれぞれの接続、
という点でも、不親切なところがすくなくなかった。
昨今の時代劇の主流らしく、親切設計を旨としているかんじが
基本的には強かっただけに、かえってちいさな穴が気になった。
はっておいてほしい伏線を、肝心な所ではらないというか、
「実はこんなこともあったんだよね!」と、
だいじなところで初見のエピソードをいきなり持ち出す
唐突なパターンが散見された。
「そんな大事なな話あるんだったら前もっていっとけや!」。

たとえばだが、
みなしごの蓮の話を割愛すれば 
もっともっとていねいな話運びをすることは十分可能だったろう。

ただ、
配置や接続の問題はおいても
ひとつひとつのエピソードは、とても誠実に描かれたものであったし
どの話も わたしはすきだった。

とくに、序盤も序盤だが、
専好と利休の、草庵の場面がよかった。
じつをいうとわたしはちょっと泣いた。
なんだかとても、ふたりのことが いとおしくなって。

専好は、変わってる。
心が純で、悪い男じゃないが、
病的といっていいほど、人の顔と名前、約束ごとが覚えられない。
だいじな用事も約束も三歩 歩けばわすれ、
別のことに気をとられて、心がそっちに飛んでいく。
まわりの理解があるからまだいいが、
彼ひとりでは、社会生活にも難儀すると思う。
現代でも、身近にいられたら、正直かなり困るたぐいの人だ。
それなのに、彼ははやくから、
寺をとりしきる役目なんかをまかされてしまう。
本当なら、適任の者はほかにいくらでもいたのだが、
その人たちがみんなたまたま病気になったり
都合がつかなくなったりでダメになってしまい、
結果的に専好におはちが回ってきたのだ。
でも、要人と会見してそつなく談笑・・といったような
大人の実務が壊滅的に苦手な専好にとっては、
寺の顔役なんて役目は、つらいだけ、苦痛なだけだ。
専好はただ、日々 仏さまを拝み、町の人たちといっしょに
お花をやっていたいだけ。
そんな おだやかな生活がままならなくなったことに、
専好は悩んでいる。

千利休の草庵の場面が、
そんな専好の悩みを晴らすおおきな転機として描かれていて、
とってもいい。
専好は、利休がたてたお茶に深くいやされ、
吐き出すように 悩みをかたりだす。
じつはふたりがまともに会って話すのはこの日がはじめてなのだが
幼児のごとくおのれの心をさらけだし、男泣きに泣く専好を、
利休は「な、もう一服やってくか、な・・・」と
やさしく受けとめる。
利休は利休で、このころにはすでに、秀吉によるいじめに
悩むようになってきていた。
相手が天下人なだけにさからうこともできず、
やりばのないストレスに苦しみ、でもそれだからこそ
人の心の痛みがわかる利休、そんな人物像を 
佐藤浩市がうまく演じて表現していた。
あの「目が笑ってない」かんじがとてもよかった。
わたしは佐藤浩市には、メンタルがささくれてそう、
みたいなイメージをもっているので、
配役を知ったときには佐藤浩市千利休!?と おもったのだが、
メンタルささくれ感が、かえってよかったみたいだ。

専好を演じた野村萬斎は 偉大。
先述したように、専好がものすごくぶっとんだ人物で、
みていてイライラさせられたほどだったのだが、
観客をイライラさせる演技ができるなんて、すごい。
声の高低差やしゃべるスピード、視線をコントロールすることで、
専好の性格やオン・オフの切り替えをくっきりと表現していて
おそろしい役者さんだとおもわされた。

豊臣秀吉役の市川猿之助は、
多面的で分裂ぎみな秀吉の人物像をまじめに引き出そうとしていた。
なるほど、秀吉は確かにこういう男だったろうな、という、
納得感があった。
欲をいえば、もうちょっとエキセントリックでもよかった。
信長の御前で平気で耳をほじったりするかんじを、
えらくなってもひきずっててほしかった。
ただ、利休に対したときの、キモチ悪い「男のいじめ」の表現は
すごくうまかった。
千利休と秀吉の関係については、いろんな本で読んできて、
わたしも知らないわけじゃないけど、
いったいあれはなんだったのか、とつくづくおもう。
女よりも男のいじめのほうが、陰湿でたちがわるいとは聞くけど。

石田三成役の吉田栄作は、秀吉の腰巾着キャラをうまくこなしてた。
彼はかつてはもっとカッコイイ、イケメン俳優の部類だったとおもうが、
歳をかさねて しわができ、ちょっとかわいてやつれた顔を
隠すこともなく堂々と見せていて、尊敬した。
それがすごくかっこよく思えた。

専好が秀吉にしかけた「花戦さ」が、
この映画のまさにクライマックスだった。
このシークエンスは冗長だったような気もするが、
専好が披露した大作は華やかでうつくしく、
場面はすみずみまで緊張感にあふれ、なかなか。

それにしても、花の背後にかけられた絵は
どこからもってきたのだろうか・・・
秀吉が熱心に収集していたらしい
「むじんさい(無尽斎?)」の作、ということになっていた。
モデルは長谷川等伯の、あのおさるの絵だと考えて
まちがいないとおもうが。あのかわいいやつ。 
そうならば、専好が前田利家にたのんで、
あの時だけ所蔵品をかりた、という設定だったんだろうか。
でも利家が、あの絵を秀吉に奪われずに隠しておけたのも
おかしいような気がするが。
秀吉は「むじんさい」の作品にむちゃくちゃ執着していたんだから。
ああいう画題の絵だと知ったら、秀吉はもちろん、
「なにっ、誰が要るかこんなもん」とは言ったかもしれないが、
画題をしってたらしってたで今度は、
「こんな絵を隠し持っていやがって、内心で俺をバカにしていたんだろ」と
怒って利家を殺さなかった(または絵を棄てさせなかった)
その理由がわからない、ということになる。
ネットでしらべたかぎり、長谷川等伯の、あの おさるさんの絵は
前田利家の息子の持ち物だった」らしい。
前田家の代々の所蔵品ということになり、
花戦さ」のなかでは利家の持ち物ということだと思うが、
秀吉があんなに血眼でコレクションしてた「むじんさい」の絵を
利家が持っていたのにどうして秀吉に奪われずにすんでいたのか、
画題がよりにもよってサルなのに、秀吉がどうして怒らなかったのか
あの絵が(利家が)無事だった理由がよくわからない。
話がややこしくなるので、
どうせなら、蓮に完全オリジナルの絵を描かせた、
という設定にすれば良かったのに。
・・・ダメか(^^)。


それにしても「花戦さ」の場面は、
まあやっぱり、秀吉がくさっても「良いものは良い」と
ちゃんと言えるだけの見識を持つ男だったからよかった、
ということなのだ。
秀吉はときの最高権力者だ。
専好を殺すことはいつでもできた。
でもそれをしなかったところが秀吉なのであり、
あのときはそういうときだったのだ。
専好をふつうに斬り殺して、そのあと秀吉が号泣、
でもよかったとおもうが。・・・ダメか(^^)。
跡取り息子をなくして失意の底にあった秀吉に
「上さまのあやまちをおいさめする」なんて
一介の花坊主の趣向が通じるのか、ともおもったが、
心がへこんでいるときだからこそ
かえって人のきびしい意見がすんなり耳にはいってくる、
ということもあるだろうから、
それを考えるとかえってアリなタイミングだったのかも。


本作は、
野村萬斎市川猿之助、つまり狂言と歌舞伎の
トップスターの演技合戦が観たいという人には 
それだけでもかなり 価値ある映画だったのではないか。

ただ、お茶やお花が「趣味」「たしなみ」ではなく、
「人生」であり「闘い」だった時代があった、という
歴史的な大前提を理解できていないと、
この映画はちょっと、わけがわからないのではないか。
だからその点だけは、なんとなく雰囲気だけでも
ああそうだったのね、と、押さえてから、観ることが必要だろう。