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BRILLIANT CORNERS-2

観た映画・読んだ本など関心ごとへの感想メインの、なんということのなさすぎる身辺雑記帳です。 少しずつ、いろいろ更新してまいります。 お気が向いたらお読みいただければさいわいです(^O^) ブログのタイトルは、セロニアス・モンクのアルバムから。「すみずみまで光り輝く」というような意味だそうで、なんとなくいいなとおもうもんで。

広末涼子さんの雑誌のインタビュー記事から思ったこと。両親の離婚を体験した子どもについて。

きょうはほんとうは「君の名は」をみにいきたかったが
夕方から雨がふってきて 
なんとなくおっくうになったから家に帰った。

帰るまえに書店に寄って
前川裕の「クリーピー」(光文社文庫)と
高橋和巳の「憂鬱なる党派」(河出文庫、上下巻)を買った。
早く着手したい。
とくに憂鬱なる党派は気になる。
高橋和巳が読みたいとおもっても なんか あんまり
ふつうの書店にいつでもある、というかんじの作家じゃないんだよなー。

昼間は美容院にいっていた。
美容院でだしてくれた雑誌に
広末涼子さんのインタビュー記事が掲載されていた。
彼女はたしか1回離婚を経験しているかとおもう。
離婚したときすでに子どもがいた。

どのような過程を経て離婚を決意しましたか、
離婚することにきめたとき、子どもにどんなふうに説明しましたか、
という質問に対し
彼女は
「夫婦関係を立て直せないかとおもって、
一時別居や同居の再開など、思いつくかぎりのことをすべてやって、
それでもうまくいかなかったので、
自分の将来と子どもの将来をいろいろ考えて最終的に決めた」
「子どもには、『パパともういっしょに暮せないんだけど、
ママとふたりだけになってもいいか』ときりだした」
「子どもから『どうして一緒に暮らせないの』と聞かれたので、
『パパとママはうまくお話しできなくなっていて 
ケンカばかりしてしまうので たくさん泣いてとても悲しいの』
というようなことを話した」
といった意味のことが書かれていた
(詳細はこの文言のとおりではない。わたしの記憶で書いている。でも意味合いとしてはこういうようなことが書かれていた。)。
そして、
「説明の結果子どもは『わかった』といって、わたしとふたりの生活になることに納得してくれたが、本当に理解がえられたとは思っていない。
これから長い年月を経て子どもが大人になったときに 受け入れてくれたらいいとおもっているし そうなるように努力する」
とのことだった。

それを読んで わたしは
「本当に理解がえられたとは思っていない」というところに感心した。
「『わかった』といったから、わかってくれたんだ。あーよかった。」と思っているんじゃなくてよかった、とおもった。

子どもは、わかるはずもない。
わかる、というのが具体的になんであるのかも 
規定することは困難なのだが。
子どもは、両親の離婚の最大の犠牲者となる存在だ。
どのような形での離婚であろうと、
離婚は、子どもにとって、ろくなもんじゃない。
ろくなもんである場合などない。
例外なく弊害だ。
なぜか。
「離婚」は、離婚したというそのときまでで終わるできごとじゃない。
社会は、片親にすごくきびしい。
とくに母親に対して相当きびしい。
離婚して母親が子どもを育てていく場合
それってすごく大変な仕事になるのだ。
そんなことがほんとうにできるほどタフな女性などまずひとりもいない。
母親は、なんらかのかたちでほぼまちがいなく
「不如意な生活」を強いられる。
お金がない。仕事が思うようにできない。子どもがいるから新しい恋が
しにくく感じる。生活が不安。
そうしたことがまずまちがいなく起こる。
そのストレスのはけ口に、一番なりやすいのが 
子どもなのだ。
そこまでひっくるめて離婚てことをみたとき
離婚は 子どもの心にとって弊害となる。
だから子どもにとって両親の離婚は 弊害なのだ。

修復できないレベルで破たんしている夫婦関係を
子どもがみている前で継続することも それはそれで
子どもに悪影響であることはまちがいないが。

・・・ちょっと 補足的な文章を 長く書きすぎたかな・・・
話をもどすと、

子どもが離婚に納得してくれたからといって
「『わかった』といったから、わかってくれたんだ。あーよかった。」なんて
思っていると、
親は、あとあとになってものすごくえらい目にあうことになるとおもう。

どういうことかというと、
離婚とかじゃなくて若い夫婦間の浮気問題に話をかえて
ちょっと考えてみると
意外とわかるんじゃないか。

つっても わたし結婚したことないけど(^^)!!

でもまあ こんなかんじを想像してみよう。

その夫婦に、子どもはべつにいなくてもいい。
たとえば夫が浮気をした。
浮気が妻にばれた。
妻が追及すると、夫は白状し、率直に妻に謝罪した。
妻は、初犯だし、夫が反省しているし、
自分もやり直したいとおもったので、許すことにした。
ラブラブだったころみたいに軽いハグなんかして仲直りのセレモニー。
それでいちおう夫婦関係リスタート。
でも、ここで夫が
「よかった!これで許してもらえた!あしたからなにごともなかったかのようにやっていける!」
とおもったら、これが、大まちがいなのだ。
もちろん妻も、いちおう
「夫の謝罪を受け入れた、許すと自分の態度を表明した、仲直りのセレモニーもした」ので、今回だけは「水に流した」つもりなのだ。最初は。
でも、そううまくはいかない。
そのことにずいぶんあとになって気づいて わがことながら愕然とするはずだ。
忘れられるわけがない。
そう簡単に許せるはずがない。
「あのときあんなふうに言ってたのは浮気相手と会ってたからなんじゃないか」
「ふりかえると、あのメールもあのメールもウソだったんだな」
「わたしのこと、だませると思っていたんだな」
「わたしのこと、きっとばかだなと思っていたんだな」
なんてことが いつまでもいつまでも心にわだかまる。
本心を言えば、夫を責め立てたい。
自分のことをバカにしていたんだろう、と夫に言ってやりたい。
泣いてわめきたい。くやしくて哀しくてたまらない。
なんだか夫が汚い存在に思えることまである。
夫に土下座してほしい。
なんてことが、
心にマグマみたいにわきあがる。
日に日にすこしずつそういうのが増していく。
でも、さっきも言ったように、
「謝罪を受け入れた、『許す』と言ってしまった、仲直りのセレモニーもした」
手前、
いまさらむしかえして 不服を申し立てても
夫は自分の思いを理解してくれないだろうし、
自分のおもうとおりの反応なんてえられないだろうし、
みっともない。
とおもうと、言えないのだ。
それで妻は苦しみ続ける。
じっさい、仮に夫に自分のきもちをぶつけたとしても
夫が
「そんな気持ちでずっといたのか。俺のせいで苦しめてごめん。」
といって、心から謝罪し妻をだきしめるなんてことは、ないだろう。
まれにあるかもしれないが。たぶんない。
「もうその話は終わったと俺はおもっていたんだけど。俺はいったい
どうすればいいわけ?」
「じゃああのとき『許す』って言ったのはウソだったの?」
なんて逆ギレするのがいいところだ。
壊れちゃった夫婦関係を修復するのは かくもむずかしい。

・・・なんて話をしたいわけじゃ必ずしもないのだが

両親の離婚を経験した子どもってのは
(むろん個体差はある。全員が全員こうというわけじゃない)
この「妻」みたいなきもちの変化を 
そののちの成長を通じて体験していくことになる、ってことを
考えてみるといい。
変化というか、
両親の離婚(と、そこにいたるまでさんざんっぱら見せられてきた両親の不和)
から受けた心の痛みは、基本的に、消えることがない。
両親が離婚したときに、自分で自分のことをちゃんと話せないような幼児期でも
その子なりの受け止め形式で、がっつりと「両親の離別」を体験している。
これは赤ちゃんであってもそうのはずだ。
なにもわかっていないなんて思ってはいけない。
小さいときでよかった、なんて思ってはいけない。
成長して、自分の言葉を獲得したとき、
子どもは叫びだすかもしれない。自分の心の痛みを。
言葉だったらまだいいが 腕力とかに訴えるかもしれない。
言葉や腕力だったら、表面化する分、まだ対処のしようもあるが
わけもわからず みえないところで 心が壊れていったら、どうか。
しかも自分で自分の痛みの原因が自覚できないような場合は
ますます目もあてられない事態になる。

本人が自覚しているかしていないかにかかわらず
また、その痛みのレベルにかかわらず、
はっきりいえることは、
「配偶者のしうちから受けた心の傷は、そうかんたんに消えない」のと同じように
「両親の離婚をみた子どもの心の傷は、基本的に消えない」ってことなのだ。

「わたしもあなたの疲れをいやしてあげられる優しい妻じゃなかったから、こんなことになったんだとおもう。あなたが真剣に謝ってくれたし、今回はおたがいに水に流して、ふたりでやり直しましょう」といって
妻が夫の罪を許したからといって
よかったー と安心してしまうような夫が、ダメなのと同じように

「パパとママは離婚するの。わかってくれる?」と子どもにきいて
「うん、わかった。ぼくも(わたしも)そうしたほうがいいとおもってた。パパが(ママが)笑ってくれるならそれでいい」とかいって 
子どもがにっこりわらったからといって
ああ、よかった。と安心してしまうような親は、ダメだ。
と わたしはおもう。

仮に、その家族関係を継続したいと願うのであれば、

罪を犯した夫は、配偶者への謝罪に一生をささげる覚悟をしたほうがよい。
妻が10年くらい経ったころにいきなり
「やっぱりわたし、10年前のあのことがどうしてもどうしても許せなくて
あなたを責めたくなっちゃうの・・・」と泣き出したとき
驚いてはいけない。
そういうことがこのさき何回も何回もあっても
驚いてはいけない。
すべて自分のせいいっぱいの気持ちで受け止めないとだめだ。

離婚したふたりは、
そりゃ自分自身のこともいろいろと大変だろうが、
なによりも子どもの気持ちを見守らないとだめだ。
何年も経って子どもが成長したとき、
子どもが「あのとき、哀しかった。どうしてお父さん(お母さん)は
いなくなってしまったの? ぼくを(わたしを)おいていったの?」とか
自分の気持ちを表明して 涙したとき、
親は決して驚いちゃいけないし、まして
「でも『そうしたほうがいいとおもってた』って言ってくれたじゃん!」
とか言ってはいけない。
「しょうがないじゃんもう離婚しちゃったんだから」
とかいって
内心の動揺をおしかくしてきょとんとしたふりをしても 
もちろんだめ。
離婚した段階で、
「子どもに多大な影響を与えた。今はよくても、いつか子どもの心の傷が再燃するおそれがある。」
ということを、ずっと覚悟しておくべきだし
「離婚にかかわる傷をこれ以上は決して増やさせない。また、傷を広げるようなこともしない」と決意をするべきだ。
それでもいつか子どもから痛む心をぶつけられたら、
全身全霊で受け止める努力が必要なのだ。

というか べつに 夫婦関係とか、離婚と子どもとか、
そういう話じゃなくてもいい。
人間同士のかかわりのことは、すべてそうだ。
人によって傷つけられた人の心はすべて、もうもとにはもどらない。
みんな、傷つけたり、傷つけられたりして 
もうおわったことのはずなのに 何度もしつこくむしかえし、
「あのやろーーー!」とおもったり
「あのときはなんであんなこと言っちゃったんだろう」なーんて 
あっちへゴロゴロこっちへゴロゴロのたうちまわって恥じ入ったり、
そうやって、すべての人間が生きているのだ。
死ぬまで引きずって生きるのだ。
それが、人が生きるってことの一面の真実だろう。

心の傷が癒える、ってのは正確じゃない。
正確には、心の傷は癒えない。
よくて、小さくなっていくか、かくれていくか、
心が老いて考える力がなくなっていくか・・・のどれかだ。
人間ってそういうもんだな。
ただ、他人同士だと、そんなことがあっても 年月がたつと
もうお互いの居場所がわからなくなり
恨みをぶつけたくても謝罪をしたくても
二度と会えないおそれがあるが
家族ならば、そして その家族関係を継続したいとお互いに思っているならば、
「いっしょに苦しむ」ことができるし、
「一生をかけて謝罪をする」ことも不可能じゃない。
そこが家族であることのまあ 利点といっちゃ利点かもしれない。
やり取りの「やり直し」ができる可能性が他人よりも高い、という点が。
(まあそれがどうしてもできない『家族』もあるが 
わたしにいわせれば そりゃもう家族じゃない。
関係を解消しても べつにかまわないのではないか。
家族という肩書にだまされたふりをしている時間がもったいない。
なにせ人生は短い。
・・・そうはいってもできないのも また人間か・・・。)

ただ、それとまったくおなじ理屈で ひっくりかえせば
「イヤ 家族だから困るんだろうが!!!!家族だから苦しいんだよ!!」って
ことにもなるのだが・・・。



なにがいいたいかというと、
この場合、
親の離婚を体験した子どもであるところのわたしから言わせれば、
広末涼子さんの態度は正しい。」とおもった、ということだ。
「子どもが理解してくれたとはおもってない。」と、
ずっと思い続けることが大切だと わたしはおもう。