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BRILLIANT CORNERS-2

観た映画・読んだ本など関心ごとへの感想メインの、なんということのなさすぎる身辺雑記帳です。 少しずつ、いろいろ更新してまいります。 お気が向いたらお読みいただければさいわいです(^O^) ブログのタイトルは、セロニアス・モンクのアルバムから。「すみずみまで光り輝く」というような意味だそうで、なんとなくいいなとおもうもんで。

「説得」。

きょうは比較的早く家にかえってこられた。
どうも梅雨時はいつもなんとはなしに調子がわるくて 
できればなにもしたくない。

しかしやるべきことをあとまわしにして 
なんせ早く帰りたいから帰る!なんてことをする度胸はないから 
そういうことはしなかった。 できたらいーだろうな(^^)

このまえ大泉実成さんの「説得」をすごくひさしぶりに読んだ。

まえからおりにふれ思い出し わりと読みたいとおもうことが多い本だ。

ハードカバーのやつを持っているんだけど(デザインが醜悪だ。) 
本棚の奥のどこかにもぐりこんでしまって発掘が困難であり、
そこへきて草思社文庫にぽこっと入ったので 
10日くらいまえにすかさず買って読んだ。
講談社かどこかから、かつてでた文庫版も持っているはずなのだが
集英社だったかもしれない。) 
それももう本棚の奥のどこかにもぐりこんでしまって発掘が難しい。
だからいまわたしの部屋には「説得」が3冊ある。

「説得」は、大泉実成さんが大学院生かなにかだったときに
学校に提出するための論文として書かれたものだったようなおぼえがある。
(ちがったかもしれない(^^) でも大学院生だったはずだ。)

学校に提出するための論文のわりには
ずいぶんとライトでフリーダムな文章で書かれているが、
でも学生さんが書いたわりには超おもしろかった。
わたしはいまでも、あれはルポルタージュとして傑作じゃないかなー
とおもっている。
ああいうふうにだったらわたしも書いてみたいとおもわされた。

 

内容は、
87年ごろに小学5年生の男の子が交通事故にあい、
手術にあたって輸血の必要があったのだけれど、
その子の両親が、輸血だけはやめてくれと拒んだのね。

信教上の理由で、タブーだから。輸血が。

結果的に、輸血ができず、出血多量で男の子は死んでしまった。
ということが実際にあってね。
非常に物議をかもしまくったんだけれど(まあそりゃそうだろうな)、


お医者さんとご両親とが輸血をするしないでもめてね、
当の男の子にそれこそベッドの両脇から説得をこころみたようなんだね。
ご両親は、◯◯、お父さんのいうことをきいて輸血を拒否しようと。
お医者さんは、◯◯くん輸血をしよう、死にたくないだろう、生きたいだろうと。
そうしたら、意識もかなりもうろうとした状態にあった男の子が
うっすら目をあけて「生きたい」といったというんだね。

ご両親はどうしても
この子に輸血を受けさせるわけにはいかないというので、
輸血を拒みとおして、それで死んでしまったのだね。

そのようなことが新聞や雑誌に載り、
著者の大泉実成さんはその「生きたい」という言葉に注目したのね。
生きたいって言ったのか・・・。それってどういう意味だったんだろうと。

というのも、この場合の「生きたい」とは、
生命維持の意味での「生きたい」じゃなかった可能性があるわけなのね。

というのも、その子のおうちの宗教では、死んでもそこでおわりじゃなくて、
行い正しく現世を生きれば、天国でも永遠に生きられるという教えがあるから。
その教えを男の子が理解し自覚的に信じていたのであれば、
「ぼくは天国で永遠に生きたい。だから行い正しくあるために、
いまここで輸血を受けるわけにはいかない」
という意味だった可能性があるのね。

でも、男の子がそういう意味じゃなくて単純に今死にたくない、
生きたいという意味で「生きたい」といったなら、
彼本人は輸血を受けたかったことになるのね。

「生きたい」がどういう意味であったのかによって 
そのあと起こりえた事態の内容が正反対に違ってしまう。
それで著者は 男の子が言ったという「生きたい」という言葉の
ほんとの意味を知りたいとかんがえて、
そのためには彼とその家族の思考にちかづく必要があると判断し、
ご家族が信仰する宗教に自分もじっさいに入信してリサーチを開始するという。

内容は淡々としているんだわな。
なんといってもやっぱり ただ新聞に書かれていた男の子が言ったという
言葉の真意をたしかめたい、という、ただそれだけのことだからね。
ただそれだけってのもあれなんだけど。ただそれだけじゃん。
小さいじゃん。べつに世界の巨悪にせまろうとしているわけじゃないし、
「真犯人はこいつだ!」とかやる犯罪もののルポなんかでもないんだよ。
ただちょっと気になったことを追いかける内容なのね。
だから淡々とぽわーんとした内容なんだよね 
なんとなく意外なんだけど。
ちょっと小説っぽいようなところとかでてきたり。

それがよかったのかな。そんな本、あんまりないからな。

わたし、これを読むときいつも是枝裕和監督の
「DISTANCE」っていう映画をおもいだすんだよなー。
あの映画のなかの空気みたいなものと、本書のそれとがすごく近いんだよ。

 

いやーしかしその 輸血をするかしないかという
すったもんだが展開されたときの救急病棟の光景を想像するとね、
かなり くるね。

お父さんとお母さんもじつのところ激烈に葛藤したようなんだよね。

本書を読む限り、お母さんはともかく、
お父さんのほうは入信するのが妻よりすこし遅かったらしくて、
信徒歴は比較的みじかかったみたいなんだよね。
お父さんの葛藤はすごく感じた。
お父さんはその宗教をほんとに信じるのか、どうするのかという
ところでも強烈に苦悩したようでね。
著者が、この宗教の集まりに参加するようになって、
お父さんからも息子さんの死についての話を
聞き出せるようになってきたときに、
お父さんが、
「一番の願いは、やっぱり天の国にいったとき息子に会うこと。
それだけが支え。 それがなかったらなんのためにこの宗教
信じているのかっていう・・・ ただそれだけなんですよね」
なんていうことを、ぽろっというのね。
わたしはこの言葉は、ほんとに、そうなんだろうなあ・・とおもった。
どのような宗教にせよごく一般的な信徒さんてのは
こういうかんじに自分の宗教のこと思っているのかもしれないね。
神さまの国をほめたたえよう!とか 神さまの偉大さを証明するために
一生懸命おつとめしよう!とかじゃ、たぶんないんだよな。
それはするんだけど、なぜなら、自分のいちばんの願いをかなえたいから。
ってのがあるんだろうな。涙ぐましいといったらあれかもしれないが
なんとも素朴だよ。

 

宗教の教えにのっとって、もし大けがをおったりしたとしても、
輸血を受けさせることはできないんだよと、
あらかじめ子どもには伝えていて、
男の子も「うん それでいい」と答えた、というんだけどね。

でも実際にその判断を迫られるとやっぱり違うよ。

生きられる、ただし輸血をすれば。

死ぬ、輸血をしなければ。

死んでも天国では会える。ただし、教えが真理であるならば。

なんか、どれも賭けにおもえるよ。

わからないほうにしてみれば、そんなの輸血するに決まっているだろ、
とおもうんだけれど、その宗教の信徒さんにとっては絶対なんだからね。

信じているんだからさ。地球が丸いとかいうこととおなじにね。
正しくあれば天国で永遠に生きられるんだから、
今は死ぬけど、それでいいんだと。そういう人たちになにもいえないよ。

このなにも言えない感がすごいな。壁が。
こりゃぜったいに届かないなというかんじがするね。
届くというか・・・ 届くってのも彼らにしてみれば迷惑な話で、
「生命維持のために輸血をしましょう」なんて言葉が正しいなんて
べつに思いたくないわけだからな。

いったいなんなんだろうな。
そのあまりに硬質な、強固な「絶対この人には伝わらない」感はすごいな。
人ってそんなふうになれるのか。
まだ見てもいないもののために全部投げ出してしまうことはすごいな。
怖くないのかね。

尊重というか、こわいよ。わたしは畏れるね。彼らのことを。

 

著者は、信じてないのに自分の目的のためにその宗教に入信した。
その是非にかんしてかなりあるとおもう。
いろいろ。問題になるのかね、今だと。

信徒の人たちはどうおもうのかね。
もし入会してくれた人が実はそういう目的だったと知ったら。


まあ著者の場合は、少年時代に自分もその宗教の信徒だったようなのだが。

入信を表明するときにそのことを著者は打ち明けたのかなあ。
じつは自分は子どものとき信徒だったんですって。言ったのかなあ。

あと、どうも転居することによって脱会したようなんだけど、
そのへんの経緯経過も不明だったな。
いわば「信徒の人たちをだましている」感が、
著者にはあったとおもうんだけど、
それについての葛藤とかがあまり掘り下げられていないことは
ちょっとわたしは不満だった。

まー
そのことは全然この本の中心部とは関係がないっちゃないからな・・・ 
だから書かれてなくてもしかたなかったのかもしれない。

「サンダカン八番娼館」とかはそのあたり、めちゃくちゃ
赤裸々にちゃんと書かれていたけどね(^^)

 

ところでね、著者の文庫版のあとがきには
本編の内容をぜんぶくつがえしかねないような
とんでもないことが書かれていて正直引いたね(^^) 
なんだよ!そんなこと書くなよ!っておもっちゃったね(^^)

まああとがきはもう読まないことにして、これからも
思い出したときにはこの本をまた読みたいと思う。