BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

読書感想-大泉実成『説得』-160620。

このまえ「説得」をひさしぶりに読んだ。
まえから おりにふれ思い出し 
また読みたい、と思うことが多い本だ。

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わたしは、ハードカバー版を
ずっと前から持っているんだけど(デザインが醜悪)、 
本棚の奥のどこかにもぐりこんでしまって
発掘が困難であり、
草思社文庫に入ったことを知り、
10日くらいまえにすかさず買って読んだ。
ちなみに講談社かどこかから、かつて出た、
文庫版も持っているはずなのだが
講談社でなく集英社だったかもしれない) 
それも本棚の奥のどこかにもぐりこんでしまって
発掘が難しい。
だから いまわたしの部屋には
『説得』が3冊あることになる。

『説得』は、著者の大泉実成さんが
大学院生かなにかだったときに
学校に提出するための論文として
書かれたものだったと記憶している。
(ちがったかもしれない。でも大学院生だったはず)

学校に提出するための論文のわりには
ずいぶんとライトでフリーダムな文章で書かれているが、
でも学生さんが書いたわりには超おもしろかった。
わたしはいまでも、『説得』はルポルタージュとして
傑作じゃないかなとおもっている。

 
87年頃、小学5年生の男の子が交通事故に遭った。
手術にあたって輸血の必要があった。
だが、その子のご両親が、輸血を拒んだ。
信教上の理由で、輸血がタブーだからだ。
結果的に、男の子は亡くなった。
ということが実際にあった。
当時、非常に物議をかもしたそうなのだが。
医師とご両親とが、輸血をするしないでもめた。
当の男児にそれこそベッドの両脇から説得を試みた。
ご両親は「お父さんのいうことをきいて輸血を拒否しよう」。
医師は「輸血しよう、死にたくないだろう、生きたいだろう」。
すると息もたえだえの男の子がうっすら目をあけて
「生きたい」と、言ったという。
だがご両親はどうしてもダメなんだ、と
輸血を拒みとおして、それで男児は死んでしまった。
そのようなことが新聞や雑誌に載り、
著者の大泉実成さんはその報道のなかで目にした
「生きたい」という言葉に注目した。
生きたいって言ったのか・・・、
それってどういう意味だったんだろう、と。
というのも、この場合の「生きたい」が、
生命維持の「生きたい」だったのかどうか、という。
なぜならその子のおうちの宗教の教えでは、
死んでも、そこで終わりじゃない。
行い正しく現世を生きれば、天国でも永遠に生きられる。
その教えを男の子が理解し自覚的に信じていたのであれば、
「ぼくは天国で永遠に生きたい。
 だから行い正しくあるために、
 いまここで輸血を受けるわけにはいかない」
という意味だった可能性がある。
でも、男の子が、そうじゃなくて単純に今死にたくない、
生命を維持したいという意味で「生きたい」と言ったなら、
彼本人は輸血を受けたかったことになるだろう。
「生きたい」がどういう意味であったのかによって 
そのあと起こりえた事態の内容が違ってしまう。
それで著者は、男児が言った「生きたい」という言葉の
本当の意味を知りたいと考えた。
そのためには男児の思考に少しでも近づく必要があると判断した。
ご家族が信仰する宗教に、自分も実際に入信して
リサーチを開始した。

『説得』の筆致は、実に淡々としている。
なんといってもやっぱり 
「男の子が言ったという言葉の真意をたしかめたい」
という ただそれだけのことだから。
ただそれだけ、って言うもあれなんだけど。
でも、ただそれだけでしょ。
小さいでしょ。
べつに世界の巨悪にせまろうとしているわけじゃない。
真犯人を追い詰める犯罪もののルポなんかでもない。
ただちょっと気になったことを追いかける内容。
だから淡々とぽわーんとした内容だ。 
ちょっと、小説っぽいような所とかでてきたり。

それがよかったのかな。そんな本、
あんまりないから。

わたし、『説得』を読むとき、
いつも是枝裕和監督の
「DISTANCE」っていう映画をおもいだす。
あの映画のなかの空気みたいなものと、
本書のそれとがすごく近いんだよ。

いやーしかし
その 輸血をするかしないかという
すったもんだが展開されたときの
救急病棟の光景を想像すると、かなり、つらい。
お父さんとお母さんも実の所、
激烈に葛藤したようなんだよね。
本書を読む限り、お母さんはともかく、
お父さんのほうは入信するのが妻より遅かったらしくて、
信徒歴は比較的、短かったらしい。
お父さんの葛藤は、すごく感じた。
奥さんが先に入信してその宗教に夢中だったので、
自分も入信しようかという話になった時、
その宗教をほんとに信じられるのか、
どうするのかという所で激しく苦悩したらしい。
ところでも強烈に苦悩したようでね。
著者が、この宗教の集まりに参加するようになって、
お父さんからも、息子さんの死についての話を
ぽつぽつ聞き出せるようになってきたときに、
お父さんがこう言う。
「一番の願いは、
 やっぱり天の国にいったとき息子に会うこと。
 それだけが支え。 
 それがなかったらなんのためにこの宗教
 信じているのかっていう・・・ 
 ただそれだけなんですよね」
わたしはこの言葉は、
ほんとに、そうなんだろうなあ・・とおもった。
どんな宗教にせよ、ごく一般的な信徒さんは
こういうかんじに素朴に、
自分の宗教をとらえているのかもしれない。
神さまの国をほめたたえよう! とか 
神さまの偉大さを証明するためにおつとめしよう!
とかいう信仰の仕方では、たぶん ないのだ。
自分の願いをかなえたいのだ。
願いをかなえてくれると思うから、信仰しているのだ。

うちはこういう宗教だから、
もし死ぬようなケガをおったりしたとしても、
輸血を受けさせることはできないんだよと、
あらかじめ子どもには伝えていたそうだ。
その時は、亡くなった男児
「うん それでいい」と答えた、という。
でも実際に決断を迫られるとなると、
話は違うだろうな。

生きられる、ただし輸血をすれば。
死ぬ、輸血をしなければ。
死んでも天国で会える。ただし、教えが真理なら。

そんなの輸血するに決まっているだろ、
とおもうんだけれど、
その宗教の信徒さんにとってはシリアスな問題だ。
信じているんだから。

この、「何も言えない」感がすごいな。壁が。
こりゃぜったいに届かないなという感じ。
いったいなんなんだろうな。
あまりに硬質な、強固な
「絶対伝わらない」感はすごいな。
人ってそんなふうになれるのか。
まだ見てもいないもののために
全部投げ出してしまうことはすごいな。
怖くないのかね。
尊重というか、こわいよ。
わたしは畏れる。彼らのことを。

著者は、信仰していないのに、
取材目的でその宗教に入信した。
その是非にかんしては議論の余地がかなりあるとおもう。
信徒の人たちはどうおもうのかね。
もし入会してくれた人が
実はそういう目的だったと知ったら。
まあ著者の場合は、少年時代に
自分もその宗教の信徒だった(いわゆる二世信徒)そうだが。
入信を表明する時、著者はちゃんとそれを打ち明けたのかなあ。
じつは自分は子どものとき信徒だった、って。
言ったのかなあ。
著者は、取材を終えると、転居を名目に
その宗教団体を脱会したようなんだけど、
そのへんの経緯経過も本書では不明だった。
いわば「信徒の人たちをだましている」感が、
著者にはあったとおもうんだけど、
それについての葛藤とかが
あまり掘り下げられていないことは
ちょっとわたしは不満だった。

まー
そのことは全然この本の中心部とは
関係がないと言えば、ないからな・・・ 
だから書かれてなくても
文句を言う筋ではないかもしれないが・・・ただ、
山崎朋子の『サンダカン八番娼館』(文春文庫)も、
本書と同様、取材対象の人物のふところに
真の目的を伝えずに入り込んで取材を試みるタイプの
ルポだったが、こちらは、そのあたりのことを
(真の目的をインタビュイーに伝えるか否かについて)
めちゃくちゃ赤裸々にちゃんと書いていたけどね。

ところで、著者の文庫版のあとがきには
本編の内容をぜんぶくつがえしかねないレベルの
とんでもないことが書かれていて正直引いた! 
なんだよ!そんなこと書くなよ!
↓これなんだけど・・・ 読む?

soshishablog.hatenablog.com



文庫版あとがきはもう二度と読まないことにして、
これからも、たまには『説得』を読みたいと思う。