BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

読書感想-『乙女の密告』『小さいおうち』/映画の感想-『ブラック・ダイヤモンド』-121004。

図書館で
赤染晶子乙女の密告』(新潮社)
中島京子『小さいおうち』(文藝春秋
を読んだ。

乙女の密告

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www.shinchosha.co.jp


自分にはよくわからなかった。
的外れなことを言ってたら
はずかしいんだけど、
少しだけなら、考えた。
この小説、「乙女」、「乙女」と、
作中に乙女という言葉が
100回くらい出てくる。
同じひとつの意味をあらわすにも、
乙女という言葉以外に、
表現のしようはあったはずなのに、
しつこく「乙女」をつかってくる。
もう乙女ゲシュタルト崩壊
他にも、おなじ言葉が
何度も何度もでてくる。

外国語大学の女学生たちの
スピーチコンテストなどをめぐる、
すごく狭い世界の、小さな物語だ。

ひとつの言葉の多用と、
変化のすくない狭い世界、
ページをめくるのも
おっくうになってきたとき、
どうやらこの小説は、
言葉それ自体について、
まずなにか、やりたがってるな
ということくらいは感じた。

ほんとに、飽きてみて
初めて思ったのだが。

学生たちが、ドイツ語で
アンネの日記」を講読している
という設定なのに
ドイツ語が、まったくでてこない。
学生たちや先生がドイツ語を
話しているとおもわれる場面も、
すべて日本語で書かれている。
そりゃあたりまえかもしれないのだが。
ドイツ語がわかんない人には
本作が読めないというんじゃ困るから。
よくかんがえたら
たとえば
ドイツ語で書かれているのを
日本語に訳したという設定の小説、
かもしれないのだ。
それもあり得るんだよなあと思ったら、
これは一種の叙述トリックって
やつなのかな、と。
それくらいしかわからなかった。
何年かたってまた読み返したら
まったくちがう感想を持つかもしれない。

一貫して
アンネの日記」が出てきて、
日記のなかのアンネと、
これを教材に勉強している
女学生たちの心の動きが、
リンクしているような
していないような。

アンネ・フランクたちの
オランダでの隠れ家生活は、
何者かの「密告」によって、
ある日、強制終了させられたと
言われているが、
この「密告」というキーワードも、
物語にからんでいるようだし。

だがよくわからない。
わかるように見せかけて
さっぱりわからん。

ただ「アンネの日記」や
アンネ・フランクのことやなんか、
それなりにたくさん本を読んできた
立場から感想を言わせてもらうと

アンネという少女の書いた、
あのひとつの複雑で深遠な有機体を、
勝手にチョキチョキほしいとこだけ切り取って、
まったく関係のない
現代の女学生のできごとに
リンクさせようとしているのは、
どうなのかと感じなくもなかった。

関係はまったくないはずなのだ。
なのに関係があるようにしようとしている。

自意識過剰なお年頃の女の子たちの、
ちょっとした青春と騒動、
みたいなそんなかんじか?

よく理解できない。
なにが言いたかった小説なのか。

共感はしなかった。
好きでもなかった。
良いか悪いかは、わからなかった。

・・・


『小さいおうち』

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こちらは比較的よく理解できた。
第二次大戦前、中、後の
中流家庭がよく書かれていて、
具体的なのに驚かされた。

ある会社重役一家。
そこで住み込みで10年あまり
働いてきた女中さん。
彼女が、そのころから
何十年も経過したいま、過去を振り返り、
手記を書きつづっている。
それを、彼女の甥が
たまに盗み読みしているみたいだ。
甥が読んでいることに気づきつつ、
彼女は書き進める。

なにかがあって
それを誰かが見ていて
見ていたころのことを回想していて
それをまた誰かが盗み見ていて
しかもそれは気づかれている

キャラクターの位置関係と
時間のありかたとが
入れ子構造になってておもしろい。
ちょっと、谷崎潤一郎の「鍵」みたいだ。

手記が読まれていることが
わかっている、ということは
読まれる前提で
内容を操作して書くことが
ありえるということだし、
回想であるということは
記憶の混乱や勘違いなどで
事実とちがうことが
手記に書かれているかもしれない
ということにもなる。

なにがほんとなのか
もう誰にもわからない。

でも、完全に迷宮入りという形には
なっていなかった。
わたしのような
雑な読み方しかしない者でも
ある程度
「こういうことかもな」と
自分なりの結論を出せるくらいには、
ヒントを残してくれていた。
ドキドキさせられた。

やっぱりちゃんと結末があって
理解できる物語のほうが
気が楽だな。

・・・

お昼のテレビ映画枠で
放送されていたなつかしい映画。

『ブラック・ダイヤモンド』
原題:Cradle 2 the Grave
アンジェイ・バートコヴィアク監督
2003年、米

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www.youtube.com



ジェット・リー
40歳手前くらいのときの出演作だ。

この映画に、ジェット自身はそれほど、
思い入れみたいなものが
なかっただろうなと思う。
そうとうデタラメな出来の映画だ。
つまらないとはいわないが、
ちょっと、いい加減すぎるのだ。
なんだかほほえましいくらいだ(^_^)
いくらなんでも、もうちょっと映画として 
がんばれただろ、というような。

だけどわたしには、ジェットに会える
貴重な2時間をあたえてくれる
映画のひとつだ。

わたしはジェットを観ていると
なにか
「いまの自分はジェットの前にでて
恥ずかしくないだけの生き方をしているか」
といったことを思う。
彼を観る資格が 
いま自分にあるかどうかなどと。

彼はわたしを知らないが、
わたしは彼に強く
影響をうけている。

彼をめぐるすべてが、
わたしにはほんとに重要なことなのだ。