BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『若者のすべて』-120612。

原題:Rocco e i suoi fratelli
ルキノ・ヴィスコンティ監督
1960年、伊・仏

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50年くらい前の作品ってことか。

とてつもなかった。
3時間もあったにしては時間がたつのが早く感じた。

これだけはまず言っときたい。
アラン・ドロンの美しさが神懸かり的。
ヨーロッパの俳優でこれほどの美男子を他にみたことがない。
個人的な好みとかそういうのを超越していた。
眼をそらしてもそらしても、また彼の上に視線がいってしまう。
美しくないところや普通なところを探してみても、ムダだった。
容姿の上では、彼はカンペキとしかいいようがない。
なんだこの男! いい男すぎるだろ!
アラン・ドロンをながめるために本作を観る、というのも
あり、とわたしはおもう。
なんたって3時間も彼を鑑賞できるのだから。

・・・

ストーリーはそんなにむずかしくない。
ひとつの貧しい家族の崩壊を
貧しい人々の社会の現実を下敷きに描き出すものだ。
ある母子家庭が、総出で田舎からミラノに越してくる。
一足先に出稼ぎにきている長男を頼って、
母と、残り4人の弟たちがやってきたのだ。

長男ヴィンチェンツォはミラノで出会った女性と婚約。
よい家庭を築こうと、はりきっている。
ふたりは同郷出身ということから親しくなったのだが、
ミラノが長いためか婚約者の家族は都会に染まりきり、
ヴィンチェンツォのことを田舎者と内心見下している。
若いふたりの婚約披露宴の最中、ヴィンチェンツォの家族が
野暮な旅装もそのままに、どかどかと訪ねてきたものだから
両家のあいだでケンカが勃発。
ヴィンチェンツォは家族もろとも会場を追い出されてしまう。

低所得者向けの集合住宅で、一家の新生活が始まる。
ヴィンチェンツォはすぐにこのアパートを出ていき、
婚約者と所帯をもつことに成功した。
次男シモーネは、すぐ下の弟ロッコと一緒に
ボクシングジムに通い、有望な選手として期待される。
しかし、娼婦ナディアと出会って骨抜きにされてしまい、
以降は堕落の一途をたどることとなる。
三男ロッコはまじめに働いていたが、突如退職を迫られる。
職場で起こった盗難騒ぎの犯人と疑われたのだ。
しかし、これは濡れ衣で、真犯人は兄シモーネだった。
職を失ったロッコは兵役につき、入営する道を選ぶ。
その時期に偶然ナディアと出会い、ふたりは恋に落ちる。
ナディアをめぐって、また、ボクシングをめぐって、
シモーネとロッコの間に確執が生まれる。
この次男と三男の関係をメインに、
兄弟それぞれの歩む道と家族の絆が、熱く克明に描かれていく。

長男について語るチャプター、次男を描くチャプター、
という感じに、物語には一応の区切りがあって、
チャプターが切り替わるたびに
「ヴィンチェンツォ」「シモーネ」「ロッコ
・・と大きくテロップが表示される仕組みとなっている。

元もとそんなに頑張れるたちの性格ではないのか、
シモーネは、せっかくボクシングで期待されていたのに
自ら可能性に背をむけ、自虐的、露悪的な態度をとり、
周囲に迷惑をかけまくるという救えない男となりはてる。
シモーネのどうしようもなさは、まさにどうしようもない。
おぞましくさえある。この男が画面にあらわれると、
背中を重くて不快なものがヌルっと這うかのような
ゾッとする感じを覚えるほどだ。
シモーネさえいなければみんな平穏に暮らせるのに、
と思わずにいられなかった。
彼は、劇中で3人か4人から「人間のクズ」呼ばわりされる。
「人間のクズ」という言葉が、シモーネにとってなにか、
堕落へのトリガー的なものになっていた。
言われるたびに彼の中の「ダメ男スイッチ」がON。
現段階でも十分すぎるほど最低の人間なのに、
さらにもう一段階、最低になっていくのだ。

この悪魔のような次男に寄生されている家族たちは、
さぞかしシモーネが憎いだろうと思ったんだけど、
不思議なことに、どうも、そうじゃなかった。
そこがこの映画を観ていて一番衝撃的だった所だ。

そもそも、冒頭から眼をみはった。
イタリアの庶民の家庭って、こんなに仲がいいの?!
こんなにつながりが強いの!?
いい歳をした息子たちが母親と同居し、かしずいて、
老いの繰り言にニコニコと耳を傾けたり・・
この映画がイタリアで受け入れられたということは
この一家の姿がおおむね一般的だったということだよね。
一般的でなかったなら、みんなわたしのように驚いただろう。
この一家の心のつながりよう、切っても切れなさこそ、
「絆」と呼ぶにふさわしいと思う。

母が恨むのは、シモーネではなく、ナディアなのだ。
この女が愛する息子を堕落させた、と目の敵にする。
どんなに息子に泣かされようと、金を盗られようと、
赦すという選択肢しか彼女にはない。
母は、息子のために、法をおかそうとまでする。

兄のせいで職を失い恋もままならなくなったロッコは、
それでも兄を受け入れた。彼は、シモーネのために、
自分の人生の最も大切な時をなげうつ決意までした。

四男チーロは、シモーネ以外の家族たちを救おうと、
法に従って正しい選択をするのだが、ここまでくるともう
正しいはずのチーロが、家族の裏切り者みたいに見える。

この家族の絆のまえには、
法も常識も意味を失ってしまうのだ。

末っ子のルーカはまだ、ほんの子どもだ。
家族の騒動に対し明確な意思表示をすることはない。
だが、この兄たちや母を見て、何を思っていることか、
いったい将来どんな大人に育つことか。

チーロはロッコを評して
「彼は聖人さ。
でも、自分自身を守ることができない」。
たしかにロッコは、心優しく、繊細だ。
シモーネとも、最後まで向き合う努力をしていた。
だが、兄がナディアにご執心だったことを知りながら、
兄に見られてもおかしくない圏内でデートをしたのは、
明らかに配慮が足りなかった。
また、勝手に辞めたとはいえボクシングで挫折した兄が、
いまだボクサーとして活躍しているロッコの姿を見れば
良い気持ちにはならないことは容易に想像できたはずだ。
ロッコは、シモーネに邪魔されないように、
所属ジムを変えるくらいの用心は必要だった。
なのに周囲の意見に流され、策を講じなかった。弱さだ。

兄にひどい目にあわされながら、ロッコは一度として
その悔しさや憎しみを、言葉にしなかった。
こういう場合、本当に憎むべきは自分の弱さなんだけど、
それがわからなければ、せめて兄を憎んだとしても、
べつにロッコを責める者は一人もいなかっただろう。
けれど彼は、一度として「兄が憎い」と言わない。
胸の裡のすさまじい葛藤と憎悪を対戦相手にぶつけることで
ボクシング界で勝ち上がっていく。
「その感情をぶつける先を、君は本当にわかってないの?」
と思った。
彼は、わかっていません、という顔をするのだ。
自分の激しい感情におびえて、ただ泣くのだ。

ナディアを傷つけたシモーネを最後には守ろうとした、
あの発想も、解せない。
ロッコまでもがあんなことを言い出すんじゃ、
ナディアがあのあとどんな扱いをうけたか心配になったよ。

ロッコがイヤなやつだとまでは思わない。
シモーネがダメなのは誰のせいでもなくシモーネのせいだ。
しかしロッコの心ばえに、疑問は感じた。
無自覚のようだが、ロッコには独善的なところがある。
自分の心の都合の悪い部分を、ちゃんと見つめていない。

矛盾をいくつもかかえたまま、家族は勢いで突き進む。
彼らの姿が、でもリアルで、身につまされた。

大団円にならなかったところにも、納得。

四男チーロと末っ子ルーカのいたわりあう姿や、
チーロの恋人の存在は、この物語の救いに思えた。

・・・

話はちがうが、
シモーネが、かつて自分をジムにスカウトした
男のもとにおしかけて、金を無心する場面がある。
暗い部屋の中で立って話す彼らのちょうど中間地点に
テレビがある。
その画面にダ・ヴィンチボッティチェリのような
ふくよかな裸婦像が、うつしだされる。
しかも「さあよく見てください」といわんばかりに、
そこにカメラが接近していくのだ。
なぜ、そんなシーンを入れたのかなと最初は思った。
真っ暗な部屋のままテレビをつけたりしないほうが、 
金を無心するダメ男とそれを拒絶するスカウトマンの
緊迫したシーンが、よりひきしまっただろうに。
でも、あとで はっと思い当たった。
性的関係のメタファでは、と。
シモーネとスカウトマンの同性愛的な関係を
示唆していたのではないかと。

おそらくスカウトマンが、シモーネに関係を迫った。
それも多分、一度や二度ではない。シモーネは、
それをネタに彼をゆすり、金をせびったのではないか。
あのスカウトマンはボクシング界で名の知れた男だった。
本来、シモーネなどに金を無心されたとて、
まともに取り合う必要もない立場だったのだ。
なのに相手をしたということは、弱みを握られていた
ということではないのか。

50年前ともなると、表現手法の点で、
いまほど自由ではなかったのかも。
でもだからこそ、そこには工夫が生まれ、
あのような おしゃれな表現にもなったんだろう。
そんな気がする。

うん・・すごくなんというか、はかりしれない映画を観た。

一生に一度、観る価値はある。