BRILLIANT CORNERS-2

観た映画・読んだ本など関心ごとへの感想メインの、なんということのなさすぎる身辺雑記帳です。 少しずつ、いろいろ更新してまいります。 お気が向いたらお読みいただければさいわいです(^O^) ブログのタイトルは、セロニアス・モンクのアルバムから。「すみずみまで光り輝く」というような意味だそうで、なんとなくいいなとおもうもんで。

「若者のすべて Rocco e i suoi fratelli(1960)」。

6月6日、
若者のすべて
ルキノ・ヴィスコンティ監督 1960年、白黒、伊・仏)
という映画を観た。

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いま2012年だから・・50年くらい前の映画ってことか。
第二次大戦がおわって間もないころだ。




とてつもない映画だった。
3時間もあったのでたしかに体は疲れたけど、
3時間もあったにしては時間がたつのが早く感じた。
集中がとぎれなかった。


こんなすごい映画がごろごろしてるというのなら、
やっぱり古典的名作をこれからはどんどん観ていこうと、あらためて思った。


そして、これだけはまず言っときたいが

アラン・ドロンの美しさが神懸かり的だった。
わたしはヨーロッパの俳優さんでこれほどカンペキな二枚目をほかにみたことがない。
個人的な好みとかそういうのを飛び越していた。
眼をそらしてもそらしても、いつのまにかまた彼の上に視線がいってしまう。
美しくないところやふつうなところを探してみても、むだ。
容姿の上では、彼はカンペキとしかいいようがなかった。

なんだこの男! いい男すぎるだろ!




アラン・ドロンをながめるために「若者のすべて」を観るのも
ありだとわたしはおもうよ。
なんたって3時間も彼を見られるのだから。







ストーリーはそんなむずかしいことはなく、
あるひとつの家族の崩壊を
貧しい人々の社会のリアルみたいなものを下敷きに描く物語だった。

ひとつの家族が、イタリアの田舎のほうからミラノに、引っ越してくる。
一足先にミラノに出稼ぎにきていた長男をたよって、
母とのこり4人の息子たちがやってきたのだ。

長男ヴィンチェンツォはミラノで同郷出身の恋人ができ、彼女と婚約。
よい家庭を築こうとはりきっている。
でも、婚約者の家族は、もっとまえからミラノに住んできたせいで
すっかり都会に染まっており、
ヴィンチェンツォのことも田舎者と内心ばかにしている。
ふたりの婚約おひろめパーティーの最中に、
ヴィンチェンツォの家族たちが、野暮ったい旅装も解かず、
どかどか訪ねてきたもんで、両家のあいだでケンカがおこり
ヴィンチェンツォは家族もろとも家をおいだされてしまう。


低所得者向けの公営アパートみたいなところで、一家のあたらしい生活がはじまる。


ヴィンチェンツォはすぐ家をでて、婚約者と努力のすえに所帯をもつ。


次男シモーネは
弟ロッコ(このロッコを演じるのがアラン・ドロン。)をさそって
ボクシングジムに通い、
はじめは有望な選手としてちやほやされる。
しかしナディアという、夜のおねえさんに骨抜きにされ、
堕落の一途をたどることになる。



三男ロッコはクリーニング店でまじめに働いていたが、
シモーネが店のものを盗ったのが、彼のしわざと疑われ、退職。
兵役につき入営する道をえらぶ。
その間に偶然、シモーネがご執心だったナディアと出会い、
ふたりは恋愛関係となる。

ナディアをめぐって、
また、
ふたり一緒にはじめたボクシングをめぐって、
シモーネとロッコのあいだに確執が生まれる。


この次男シモーネと三男ロッコの関係をメインに、
5人兄弟それぞれのえらぶ道と一家の心のつながりみたいなものが、
ものすごくていねいに語られていく。


長男について主に語るチャプター、
次男について描くチャプター、というかんじに
一応の区切りがあって、
「ヴィンチェンツォ」「シモーネ」「ロッコ」・・と大きくテロップが出る。

シモーネは、もともとあまり根性がないのか、
ボクシングで期待されていたのにみずから可能性に背をむけ、
自虐的、露悪的な態度をとり、
周囲にめいわくをかけるどうしようもない男になりはてる。




シモーネのどうしようもなさは、まさしくどうしようもない。
この男が画面にあらわれると、
なにか背中をぬるーっと重くて気持ち悪いものが
這い上がってくるかのような
ゾッとするかんじを覚えるほどだった。

この男さえいなければロッコたちが平穏に暮らせるのに、
と思わずにいられなかった。

彼は映画のなかで3人か4人の人から、
「人間のクズ」呼ばわりされており(-_-;)、
この「人間のクズ」という言葉が、
シモーネにとってなにか、キーワード的なものになっていた。
言われるたびに彼の中の「ダメスイッチ」がON。
すでに最低の人間なのに、さらにもう一段階、最低になっていくのだ(-_-;)

この一種、悪魔のような次男に、とりつかれている家族たちも、
さぞかしシモーネのことが、憎いにちがいないと思ったんだけど、

どうもそうじゃなかった。

そこがこの映画を観てていちばん衝撃的だった。


ぜんたい、さいしょのほうから眼をみはった。

イタリアの庶民の家庭ってこんなに仲がいいの?!
こんなにつながりが強いの!?
いい歳をした息子たちがみんな母親と同居し、かしづいて、
彼女の手にキスをしたり、繰り言をニコニコときいたり・・

この映画が受け入れられたということはこの一家の姿が
(シモーネの悪魔っぷりは無論ぬきにして)
一般的だったということだよね。
もし一般的でなかったならわたしみたいにみんな驚いただろう。

この一家の心のつながりよう、切っても切れなさこそ、
「絆」と呼ぶにふさわしい。


母は息子をではなく ナディアを、息子を堕落させたと目の敵にし、
どんなに泣かされようと、生活をめちゃくちゃにされようと、
息子を赦していた。赦すという選択肢しか彼女にはなかった。
息子のために、法をおかそうとまでしていた。

兄のせいで職をうしない、恋もままならない弟ロッコは、
それでも兄を受け入れた。
兄のために、自分の人生のもっともだいじな期間をなげうって、
お金にかえる決意をした。

シモーネ以外の家族たちを救おうと、
法に従って正しい選択をした四男チーロが、
ここまでくるとむしろ「裏切り者」みたいになってしまってた。

この家族の絆のまえには、法も常識も意味をうしないかけていた・・


末っ子のルーカはまだ子どもで、この家族の騒動にたいして
はっきりと意志的な行動をとってはいなかった。
けども、兄たちや母の姿をみてなにを思っていることか、
どんな大人に育つことか、とおもった。


チーロはロッコを評して
「彼は聖人さ。でも、自分自身を守ることができない。」
というようなことを語っていた。


ロッコはたしかに、心優しく、繊細な青年だった。
兄シモーネにたいしても懸命に向き合う努力をしていたかとおもう。

けども、兄がナディアに尋常ならざる激しさでご執心だったことを知りながら、
兄に知られてもおかしくない圏内で、
彼女とデートをかさねたりしたのは、配慮が足りなかったし

ボクシングで挫折した兄が、嫉妬するのを見越して、
所属ジムを変えることくらいできたはずなのに、
周囲の意見にながされて、なんら策を講じなかったのもおかしい。

そして、兄にこれほどの目にあわされながら、
一度としてその悔しさや憎しみを言葉にしなかったこと。
こういう場合ほんとに憎むべきは自分の弱さだろうが、
それがわからなければせめて兄を憎んでも、
べつにロッコを責める者はなかっただろう。
けど一度として「兄が憎い」と言わなかった。
言わなかったけど、内面に渦巻くすさまじい葛藤と憎悪を
対戦相手にぶつけることで、ボクシング界で勝ち上がっていくところなどは

なんというか
「その感情をぶつける先を、ほんとにほんとにわかってないのか?」
とおもった。
彼はわかってないかのように、自分の感情におびえて、ただ泣くのだ。

ナディアを傷つけたシモーネを最後には守ろうとした、
土壇場でのあの発想も、ちょっと解せない。

ロッコがあんなことを言い出すんじゃあ、
ナディアがあのあと、どんな扱いをうけたか、すごく心配になったよ。

ロッコがいやなやつだとは、決しておもわない。
シモーネがダメ人間なのはだれのせいでもなくただシモーネ自身のせいだ。
しかしロッコの心ばえに、疑問は感じた。

自覚はないかもしれないにせよロッコは一種、
独善的なとこがある人間だったかとおもう。
繊細なわりに、自分の心の都合のわるいとこを、
ちゃんと見つめてないというか。


矛盾をいくつもいくつもかかえたまま、いきおいで突き進む家族だった。
彼らの姿が、でもやたらとリアルで、身につまされた。

大団円にはならなかったところにも、とても納得がいった。




チーロとルーカのいたわりあう姿や、
チーロをそれでも愛してくれる恋人の存在は、
この物語の救いだったかなあとおもう。




話はすこしちがうが、
シモーネが、かつて自分を強豪ジムにスカウトしてくれた男性のとこにあらわれて、
お金を無心する場面があった。

夜で、暗い部屋で酒を飲みながら、ふたりが話してるのだが、
ふたりの立っているあいだにテレビがあって
そこにイタリアルネッサンスの・・たぶんダ・ヴィンチとかボッティチェリとかの・・
ふくよかな裸婦像が、つぎつぎとうつしだされた。
「よく見てください」というかのように、そこにぎゅーっとカメラが接近していった。

なぜ、わざわざそんなシーンをいれたのかなとおもった。
テレビをつけたりしないほうが
金を無心するダメ人間と それを拒絶するボクシング界の重鎮とのシーンが、
ひきしまったかもしれないのに。

でもあれって、
なにか、性的なものをほのめかしてたようにおもえてきた。
つまりシモーネと、あの男性のあいだに、同性愛的な行為が、
たぶんあのときだけでなく何度か、
あったことを示していたんじゃないかと。

シモーネはナディアを愛していたから、同性しか愛せないわけじゃないだろうが、
たぶんあの男性のほうにそういう傾向があり、
シモーネを相手に求めたことがあった(という裏設定があった)のかもしれない。
シモーネはそれを逆手に、男性をゆすってたか、たかってたんじゃないかな。
弱みをにぎられてなかったら、シモーネなどいつでも切り捨てられたはずだ。

50年前の映画だから表現のしかたの点で、いまほどなんでもありというわけじゃなかったろう。

でもだからこそああいう、考えようによっちゃなかなかカッコイイ表現にもなったんだろう。

そんな気がする。





うん・・すごく
なんというか
はかりしれない映画を観た。


あんまり古すぎるし、すすめるわけでもないが
一生に一度、観る価値はある映画かとおもう。