BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

「市販薬」=仕事ザツだけど定時で帰ります至上主義社員-190716。

不眠が重くなってきた。
眠れねえーーーーーーーーー!!!
なんなんだーーーーーーーー!!!
眠らせろ!!!
夜が長い!!!!!!!!!!!

昨日、その状態で長時間 電車に乗る必要があった。
いつの時間帯も むちゃくちゃ混んでる路線だ。
まず座れない。・・・となると
絶対 途中で気持ちが悪くなるだろうなと。
ちょっと迷ったが 特急を利用した。
特急は指定席に座れる。
が、追加料金がかかる。

こういうことをいつもやるわけにいかない。

というか体力的に
あきらかにしんどくなってきた。
近く必ずまた病院に行ってこようと思う。
ゆうべは、薬の力をかりて眠った。
病院でもらった睡眠導入剤はもうなかった。
市販の睡眠改善薬なるものを1箱、
開封のまま 持っていた。
どうしてもしょうがないとき用のものだ。
どうしてもしょうがないと思って、それを飲んだ。

眠れたけど 体と頭がすっごい重いな・・・
なんか頭がフラフラするし 寒いし・・・
眼の奥の方がなんか乾いてる感じがする・・・
こんな風に翌日に響くことなんて
病院で出してもらう薬では ないんだけどな・・・
なんか
「ハイッ 眠れたからいいですよね??
 これでいいですよね??」
って開き直られているような気がする。薬に。

市販薬って、こういう「開き直り」の姿勢を
わたしに見せてくるからムカつくんだよな。
「総合感冒薬」
「イブ」「バファリン」などの解熱鎮痛剤のたぐい
あと ゆうべ飲んだ睡眠改善薬
どれも一応、飲めば、
効いた実感が得られる。
だが、
妙に体の調子がおかしくなる。

なんか「効いたからいいですよね?」って
言われているような気がする・・・
とくに
「イブ」には腹立つ。
頭が痛いときなんかに飲むと
たしかに頭痛はおさまるんだが
全身症状的に体調が悪くなる。
悪くなるというか調子がめちゃくちゃに狂うというか
何かそういう感じだ。
かんじんの頭痛の消えかたを、わたしなりに説明すると
「消しゴムでザツにゴシゴシゴシっと
 かき消されたような感じ」だ。
ザツだからちょっと 端っこの方とか残ってる。
端っこの方とか残っているだろ。
ちゃんと丁寧に消してくれよ、と言いたい。
だが言おうとしたとき ヤツはもういない。
「ハイ消しときましたー!!!
 定時なんで お先に失礼しまーす!!!」
引き継ぎもなしにサッと先に帰ってしまっている。
でも定時だし 仕事は確かにしていったらしいから
ちょっと待て、残れ、とも言えないしな・・・と。
イブは大っ嫌いだ。
たとえどんなに頭が痛くても
イブ以外の鎮痛剤がないというのなら
薬なんか飲まない。
ロキソニンもしくはロキソプロフェン
わたしが鎮痛剤として受け入れるのはこれだけだ。
しかもドラッグストアで市販されているものではなく
ちゃんと病院で処方してもらったものを用いる。
ロキソニンのほうがイブよりも
区分としては強度で
注意を要するレベルが高いらしいが
わたしにはとても優しくしてくれる。

こういうのは気分の問題でもある。

病院で出してもらうものなら安心できる。
それで体の調子が良くなったり
体の調子が悪くならずに済んだりするなら
安いものだとわたしは思う。

映画の感想-『光(大森立嗣監督)』-190712。

大森立嗣監督、2017年、日本

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www.youtube.com


『さよなら渓谷』(2013年)の監督なのか・・・
それにしちゃ、そんなに良くはなかったな。
比べるとしたら『さよなら渓谷』の方が
映画としては 圧倒的に良かった。

york8188.hatenablog.com

york8188.hatenablog.com


音楽がところどころ、悪い夢かと思うほど、
作品とまったくマッチしていなかった。
ジェフ・ミルズが悪いと言うんじゃないが
合ってなかった。
どうしてあんな、走ってる感じの音楽を
当てる必要があったのかなと思う。
全然受け入れられない。
それこそが何よりも作品を破壊してた。
そのことだけは言っておきたい。
音楽がとにかくマッチしてなかった。
実は本作は ちょっと前にネットフリックスで
配信されているのを発見して
そのとき、最初の十数分だけ観てみたんだけど
あの音楽がイヤすぎて 
途中で観るのをやめてしまったのだ。

けど、三浦しをんの同名小説の
映画化であることを把握していたので
原作の文庫本を購入して読んだところ、
小説はかなりの傑作だった。
やっぱり、どんなふうに映像化されたのか
知りたいような気がしてきて、
今回もう一度、映画を観てみることにした。

序盤は子役による過去パートで、
全員 あんまりにも演技がまずくて、
観ててしんどかった・・・。
そこにあの音楽がおっかぶさってくるから
ほんとにイヤになっちゃう。
ヒロインの美花、そんなに「蠱惑的」って感じじゃないし。
ヒロインとコトに及んでた旅館の客も
大人の役者にも関わらず、
素人目にみても演技がひどかった。
ルックスもなんか バカにしてんのかって感じの
いかにも気持ち悪い男だったし。
というかセリフがひどい。
たしかに原作小説に 
ほぼ同様のセリフがあったのだが、
映画化するにあたって完コピすれば
それで良いというものじゃないだろう。
小説だからこそ許容されるセリフ、
そういうのって、あると思う。

そんなこんなで、やはり序盤は相当しんどかった。

けど
「25年後」を描くパートになってから
けっこうおもしろくなってきて
最後まで観ていられた。

井浦新(信之)と
瑛太(輔:たすく)と
長谷川京子(美花)
良かった。
3人とも大好き。

小説を読んだときは、
島を中心に八の字にめぐる潮流のように
ぐるぐると、運命がまわってる
そんなイメージが頭にうかんでた。

だが、映画を観たらちょっとその
イメージが変わって、
「生」 ⇆ 「性」 ⇆ 「死」
と 直線的かつ双方向的に
いったりきたりする図式を、感じる。

圧倒的な暴力と、強烈な性衝動と、
「お母さんのおなかのなかに戻りたい」
「生まれるところからやり直したい」
といった潜在的な願望とが、
ある あまりにもトラウマティックな
できごとによって
ほどけないくらい複雑に結びついて
その精神に根付いてしまった。
そんな子どもたちの物語だったかもしれない。

彼らには帰る場所がもうないのであるし。

親じゃないものを親だと思い込んで、
すがっているフシもあった。
親に求めるべき役割を
親じゃない人に求めてしまってたというか。
生まれて間もない小鳥が
最初に見たモノをお母さんだと思って
それが機械仕掛けのおもちゃだろうと、
無邪気に あとについて回るように。

輔はそれが顕著だった。

「その言葉が信じられたら・・・」という
輔のセリフの意味が、
そのあとに続く彼の話を聞いてても、
よく理解できなかった。
輔は信之の行動原理をよくよく知っている。
だから、信之が「お前のためにやってやる」
的なことを言ったとしても
そんなのは本心ではないとわかってた、
ということだろうか。

音楽がまずいのと
子役がまずいのと
大人の役者も一部まずいのと
余計なシーンがところどころあったのは残念だが
意欲的な作品ではあったと思う。

輔のセリフの意味が気になるから
もう1回 小説を読んでみようかな。

読書感想-吉田修一「さよなら渓谷」-190711。

「さよなら渓谷」
吉田修一
2008年6月 単行本発行
2010年12月 文庫発行

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www.shinchosha.co.jp

文庫版の表紙デザインも確認したけど、

www.shinchosha.co.jp単行本のデザインの方が、良いな。
作品の雰囲気と、合っている。
文庫版のデザインには品がない。
「慟哭の谷」(文春文庫)の表紙みたいだ。

books.bunshun.jpこういう感じじゃないでしょ~。
タイトルに「谷」が入ってる点が共通してるから
頭のなかのおんなじ引き出しから出てきたんだけど。
100年前の人食いクマ事件の
ノンフィクションだったな
「慟哭の谷」は。
クマが人を襲う事件は
「熊害(ゆうがい)」と言うんだって。
怖かったな~
同じ事件を取り扱った吉村昭
「熊嵐」(新潮文庫)も
家のなかとか狭い場所とか見晴らしの悪い場所に
ずっといるのを避けたくなるくらい
怖かったけどな。
著者の苗字に「吉」がある点が
吉田修一と共通してるから
引き出しから出てきてしまったんだけど。
こういうののあとに
ゴールデンカムイ」のクマバトルシーン読んだら

youngjump.jp「クマと出くわしたらどうしよう」妄想に
とりつかれて 数ヶ月は まいらされた。
あのかどを曲がったらクマがいるんじゃないかとか・・・
妄想は、この本を読むまで解消できなかった。

www.chikumashobo.co.jp

・・・
話がそれまくった。なぜクマの話が出てきたんだろう。
・・・
「さよなら渓谷」の話をしたいのだった。

映画を先に観た。
読み終えた直後は、映画の方が、良かったなという気が
していたんだけど、
少し考えてみて、今はなんとなく、
原作小説にもまた違った良さがあるなと思っている。

映画を観たとき、
俊介はできることなら
「幸せをつかむために一緒にいる」ように
妻との関係を進展させたいのだ、と感じた。
「不幸になるために一緒に」・・・
それで彼女の気が済むなら、いつまででもそうしよう、
最初は本当にそう考えていたんだろうけど、
やっぱり、彼女に心の平穏や幸福を感じて欲しかった。
そして、もしかしたら、そうできるかも、という気が
してきていたんだろう。
ウソの通報をした張本人が彼女と知ってから
その通報内容を事実と認めるまでの 
長い長い時間と 俊介のあの苦渋の表情は
「彼女はあくまでも、幸せになることを拒むのだ」
という事実を呑みくだすまでの 苦心と観た。

原作小説を読んでも、やはりその部分は
自分の解釈で間違いないなと思った。
というのも俊介自身にも 
「本当は、俺には、後悔と不幸の日々こそ妥当」
という気持ちがあったことが 確認できたからだ。
つまり
俺だって幸せなんて高望みは許されない男なんだから
彼女の言うとおりずっと不幸でいるべきだ、と。
彼女のかたくなな態度を「やっぱりそうだよな」と
納得できるだけのわけが、俊介の方にもあったのだ。
以下は、俊介の述懐。
「あんな事件を起こした俺を、世間は許してくれるんですよ。
 驚くほどあっさりと許してくれるんです。
 もちろん嫌な顔をする男たちもいます。
 でも、心のどこかで、俺がやってしまったことを
 許しているというか、
 理解しているのが分かるんです。
 許すことで自分が男だってことを改めて確認するみたいに。
 だから、俺も自分で自分を許そうとしました。
 許さなければ、許してくれる男たちの中に
 入れなかったんです。
 そこにしか、生きていける場所がなかったんです」
 (単行本 P175)
だが俊介は、そうやってなんとなく許されてしまう
空気感のなかに、自分を置き続けることができなかった。

この小説は 繰り返し繰り返し
男女間の、ものごとの感じかたの温度差について
また、ホモソーシャル問題について
描き出そうとしてたな。
性犯罪、子ども虐待、子ども殺しの
犯人、または被害者に対して
どんな感想を抱くかは
男性と女性で かなり差があるということ。
個人差はもちろんあるだろうが傾向として。
以下は、俊介とその妻の過去を追う
雑誌記者・渡辺のセリフだ。
「・・・取材相手が男なら、なんとなく分かるんだよ。
 <中略>自分と同じ男だって気を許してるところがあってさ、
 手加減ってわけじゃないけど、相手が何も答えなくても、
 うまい嘘ついても、どっかでそいつが何考えてんのか
 分かるような気がするんだよ。
 <中略>でも、これが女相手となると、
 本当に分かんないんだよ。なんで何も答えないのか。
 なんでそんな見え透いた嘘をつくのか。
 だから男のとき以上に、マイクを強く突っ込んじゃうんだよ。
 大勢で取り囲んでさ。男の犯罪者が謝る以上に、
 謝ってほしくなるんだよ。
 本当に苛々してくるんだ。
 殴りたいのに絶対に殴れないときみたいに」
「・・・怖かったと思うよ。そんな男たちに、
 そこで囲まれてたんだから」
 (単行本 P142~143)

これら、
男社会だとなんとなく、許してもらえる感じがあった
という俊介の述懐や
同じ男だったらなんとなくわかる部分があるんだけど
女相手だとわかんないから、わかんなくて、乱暴に
迫ってしまうんだ・・・という
渡辺のセリフは
映画にはなかった。
文章で表現する小説だからこそ書けたことだ。
このセリフを映画で役者に言わせたら
説明じみるというか 言い訳じみるというか、
とにかく映画でこれが再現されてたら・・・
セリフ聞いててうんざりしただろうな。
小説じゃないと表現できなかったであろうこの部分を 
バッサリ割愛しただけに
映画は、観るほうが想像をふくらませなくっちゃ
いけないように なったけれども、
映画「さよなら渓谷」は、それで成功していた。

記者の渡辺が、この件の真相をつきとめていくなかで
自分と妻の関係をも見つめ直すという展開は 
逆に、映画だけのものだった。
小説にはなかった。
それで良かったんじゃないかな。
なぜそうなったのかは観る者それぞれが
想像できるようになっていた。
それがしやすいようにちゃんと構成されていた。

渡辺の部下の小林(若い女性)が
「渡辺さんが加害者のことばっかり調べているから
わたしは被害者のこと調べてきましたよ」と言って
俊介の妻の過去を洗ってきたりとか。
女性の小林に、過去の事件の感想を語らせる
シーンをきちんと確保したりとか。
同じひとつのできごとを男性キャラ・女性キャラ
両方の視点で見つめる構成をキープすることで
お互いに、わからないから、わかろうとして
不器用だけど近づこうとする。そんな感じを
強調していたと思う。


渡辺の同僚は、
自分の息子が、性犯罪事件起こしたら、どう思う?
と聞かれてこう答える。
「そんなバカなことで、息子の一生がさ、
 台無しになると思うと、がっかりするよ。親としては」
(単行本 P166)
だが、
自分の娘が、性犯罪被害に遭ったら、どう思う?
との問いかけには、
「そ、そんなの、相手の男、ぶっ殺すよ」
(単行本 P166)

隣家の子どもが殺された事件が
「話の発端である」ということ以外に
この物語にとってどんな意味があるのか
映画を観ても、わからなかった。
それが わたしが原作を読むことにした理由だった。
映画でも、原作でも、結局
「母親の里美が本当に子どもを殺したのか」どうかは
厳密には、明らかにされないままだった。
「母親に殺された子」であるという属性で
あの子、「萌(めぐむ)くん」を見ることは
できないと思う。
でも、
「殺された子」であり
「死んだ子」であり
「もういない子」であり
「本来ならまだまだもっと生きられた子」であり
「目をかけられ慈しまれるべきだった存在」
・・・と
そのへんで見ることは、できるだろう。
以下は、確か映画にはなかった、俊介のセリフだ。
「・・・俺、あの子に何かしてあげられたのかな?」
「なぁ、俺たち、あの子に何かしてあげられたんじゃ
 ないかな?」
(単行本 P190)
妻は、これに答えない。

「何かしてあげられたんじゃないかな」
は、
「何かしたはずだと思うよ」ではなくて
「何かしてあげられたはずなのに、
 俺たちはできなかった/しなかったよね」
のニュアンスだとわたしは取った。
つまり、さらに言うなら
「いつかは、何かできるはず/してあげたい」だ。
先に述べたように俊介は
できることなら「幸せをつかむために一緒にいる」ように
妻との関係を進展させたかった。
でも、彼女はそう思ってないってことを知っていたから、
未来、明るい可能性、発展性を思わせるこうした言葉は
厳重に慎むべきタブーであったと思う。
映画でも、炊飯器買い替えよっか、と提案するだけで
彼女は心を閉ざしちゃうんだから。
ましてや「子ども」に関することなんて。
物語も終盤において 俊介のこのセリフは
すっごく勇気が要ったものだろうな。
一度は伝えることをあきらめたことに
思い切ってもう一度トライした。
俊介は、こう言ったのだ。

「子どもに何かしてあげようよ!」
「子どもを作ろうよ!」
家族になろうよ!」
幸せになろうよ!」

だが、妻は応えない。

もういない子どもであるところの「萌」くんは、
かき消された「春の萌し」、
立ち消えた可能性、未来、発展の象徴だ。
適切なネーミングであったのだ。

アニメ「ヴィンランド・サガ」-190710。

ヴィンランド・サガのアニメ版始まった。

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vinlandsaga.jp

すごくイイ。

家畜の作画からして頑張りまくっている。
これからもずっとこのクオリティでいくなら
わたしが知るテレビアニメでは間違いなく
一番の作品ということになると思う。
ヘルシングOVAくらい。

トルフィンのその後を知っているだけに
観てると涙が出てくる。

読書感想-角田光代「愛がなんだ」-190709。

「愛がなんだ」
角田光代 著
2003年 単行本刊行
2018年 文庫初版
2019年 文庫18版
角川文庫

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www.kadokawa.co.jp

この前 映画を観て、おもしろかったから、
文庫を購入して読んでみた。
わたし、角田光代さんと山本文緒さんを
混同しちゃってるみたいだ。
じつはずいぶん前に
「恋愛中毒」(山本文緒著、角川文庫)
を読んで、ぜんっぜんハマらなかったんだよな。
あれで山本文緒さんの小説をもう読まなくなって、
どこかで角田光代さんとまざったみたいだ。
角田光代さんは「八日目の蝉」(中公文庫)
くらいだな。読んだのは(おもしろかった。映画も)。

「愛がなんだ」、
単行本、2003年刊行だって。
15年前か。
読んでも、古い感じが全然しなかったな。
ヒロインの親友が「携帯電話を持ってない」
ってところくらいか。
でも携帯持ってない人なんて今もいなくはないもんな。

映画よりも、ヒロインがより一層ヤバかった。
好きな人のために尽くしすぎて
遅刻とか無断欠勤とか無断早退とか
勤務中の私用電話とかを繰り返したあげく解雇される
恋の悩みで頭がいっぱいでハローワークの失業認定日を忘れ、
失業給付を受けられなくなる
過去には彼氏の浮気の証拠探しに夢中なあまり
大学を2回留年する・・・

まあ大学留年はわたしも人のこと言えないが・・・

このとおり、ヒロインは相当ヤバイのだが、
だが、小説では、映画よりも
不思議と いろんなことそれなりに自分で
わかっている感じが強調されていた。
映画では、もっとポヤーンとした性格で、
わかっている部分もあるが、
病的にわかってない部分の方が多く
まだらな感じがあったと思う。

例えば
「自分のなかに、自尊心らしきものが未だにきちんと
 存在することに驚いた。そして、その自尊心すら
 不必要だと思おうとしていることに、さらに驚いた」
 (文庫版 P130)
映画では、ヒロインは、これを自覚してなかった。
会社の最終出社日に、同僚の女性から
「自分のことも(重要じゃないんですか)?」と問われて
きょとんとしてたのだ。

それから、
どんなワガママも通してきたおかげで
己の残酷さや傲慢さに鈍感になってしまった、
中国の王さまの話。
悪いのは王のワガママなのか、それとも
そういう王にしてしまった家臣たちなのか。
たしか映画では ヒロインが元から知っていた話ではなくて
誰かから聞かされるシーンがあったと思う。
それで、「あなたも好きな人のいうことをハイハイなんでも
聞いてあげちゃうから、男をつけ上がらせているのよ」との
指摘を受けるも、ヒロインはピンときてないみたいだった。
そもそも彼はワガママを言ってるわけじゃないよとか
なんとか わけのわからんフォローを必死にして。

このとおり小説ではけっこうヒロインは
自分の心に起こっていることとか
案外いろいろわかっていた。
でも、それでも、自分を止める気はないのだ。
わかっています的な描写がけっこうあったからこそ
「自分を止めようとは思ってない」感が強く迫ってきた。
映画よりも小説の方が そこは良かったような気がする。

あれほどまでに傷付いても、
「マモちゃんのそばにいたい」が最優先とは。
ヒロインは
「うまくいかなかった恋愛」(文庫版 P175)
と、ちゃんとわかっているんだからね。
過去形であるし。
自分の恋が 恋としては
もうとっくに終焉を迎えたことを 知っているのだ。

だから恋じゃないわけだな。
彼女のこれは、なんなのだろう。
「私を捉えて離さないものは、たぶん恋ではない。
 きっと愛でもないのだろう。
 私の抱えている執着の正体が、
 いったいなんなのかわからない。
 けれどそんなことは、もうとっくに
 どうでもよくなっている」
 (文庫版 P211)

わたしとしては ヒロインに
その執着を手放してラクになって欲しかったがなあ・・・
でも本人がこのままがいいっていうんならしょうがないか。
「神林くん」とのフェイク恋愛が 案外本物になったり
しないかな。
なったとしても また同じことの繰り返しか??

映画の感想-『さよなら渓谷』-190709。

大森立嗣監督、2013年、日本

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www.youtube.com


ものすごく徹底的で、よかったな。
とにかく徹底的だった。

98年の大学ラグビー部の集団性的暴行事件が
一部ベースになっていることは事実みたいだ。
ベースになっていると言っても、
事件の本当に概要程度のことだと思うが。
あと、多分2006年の、秋田県の児童連続殺害事件も
モデルとして少しだけ取り上げられているのだろう。

キャタピラー』(2013年)で、
寺島しのぶの相手役を演じていた
大西信満が出演してた。
キャタピラー』のときは、
彼のことも、彼が演じた役のことも何とも思わなかったか、
あるいはむしろちょっとキライくらいの感じだったが、
本作ではすごく彼のキャラクターが、好ましかった。
話が話だけに、笑顔のシーンが少なかったのだが、
大西信満が演じる俊介は、子ども好きという設定であり
スーパー銭湯の休憩ルームではしゃぐ子どもたちを見て
口元を少しほころばせた表情は、本当に印象的だった。

風景や、人間関係のありかたは、どことなく
『ゆれる』(2006年)に似ていたように思う。
真木ようこが出てたせいもあるかもしれないけど。
わたし彼女のこと大好きだ。

大森南朋も良かった。
彼が演じる雑誌記者が、
できごとの真相を突き止める探偵役だった。
俊介たちをめぐるできごとと、
この記者のプライベートは、本来、何の関係もない。
でも、俊介たちのことを知っていくうちに、
彼も自分の妻との関係を見つめ直していく、
というのがおもしろかった。
誰かとの関係を、修復したり発展させたりしたいときは、
相手が何かしてくれるのを待ってないで、
まず自分が頑張れば良い、っていうのはわかる。
でも、相手の反応が怖くて、
それがなかなかできないのも人情だと思う。
妻の一言で、記者が、ふっと素直になれたのが
いじらしくて良かった。

大森南朋とコンビを組む女性記者を演じた
鈴木杏もかわいらしかった。
彼女の神経がしごくまともで、優しくて、健康的で、
この物語にとって救いだった。

問題の、過去の事件が発生したとき、
直前までナツミといちゃいちゃしていた男子生徒が、
すなわち俊介だと思われる。
他の男子たちに「オザキさん」と呼ばれていたし。
画面が暗くて、声も判別しかねたのだが
そこは何度も観て確認した。
あの男子生徒は、他の男子がナツミに手を出すのを、
阻止しようとする態度を見せていた。
(結局、その場の雰囲気に流されてたが)
ならば、のちに 
ふたりの間にのっぴきならぬ関係が生まれたのも
理解できなくはないですね、ということに、一応なる。
せめて、俊介との間にあったのが単に憎しみだけでなく
「のっぴきならない」関係だったのだと
願わずにいられないくらい、
ナツミの過去は、何もかもが、悲惨すぎた。

憎悪から生まれる愛や、憎しみを含む愛もあるのだなと思った。

俊介は、ナツミのウソの通報のせいで
(「俊介は隣家の女性と不倫関係にあった」)
隣家の女性が起こした殺人事件の、
首謀者と疑われるはめになった。
だが、俊介は苦悩の果てに、ナツミがしたことを耐え忍んだ。
おそらく、みずからの負い目と、 
「俺たちは幸せになろうとして一緒にいるんじゃない」
という事実があったからなんだと思う。
でも彼は、やはり希望を捨てきれなかったのだろう。
ナツミと、「幸せをつかむために一緒にいる」関係に
なりたいという希望を。
自分はそう願っているのに、ナツミが幸せを拒んでいる、
その事実を受け止めるのに時間がかかったように見えた。

ナツミは、俊介との関係に幸福を感じることを
みずからに徹底的に禁じている所があった。
例えば、炊飯器を買い替えようかと、俊介が提案した瞬間、
彼女は急に、パタンと心の扉を閉ざした。
(このときの真木よう子の演技は素晴らしかった)
ふたりの生活が、間違っても
「幸せな暮らし」と似ることがないように、
ナツミは細心の注意を払っていたのだと思う。
幸せを受け入れるには、心が傷付きすぎていたのだ。

けど、俊介が彼女を探し出してくれると良いな、と願う。

それにしても お隣の子が殺された事件は、
この物語にとって、いったい何だったんだ。
考えてみても、位置付けがよくわからない。

病むということ-98年の大学運動部集団レイプ事件の被害者女性によせる-190709。

20年前に、大学運動部のメンバーが
中心となって起こした集団レイプ事件の、
その後をたどる記事を読んだ。

www.tsukuru.co.jp

被害者女性は20年経った今でも(掲載当時)
PTSDに苦しめられており
日常生活もままならないようだ。

被害者女性の手記を読むと
彼女が自分を激しく責めていることが伝わってくる。
また、頑張ろうとしてしまっていること、
「申し訳なさ」を感じていること、
それゆえに 本当の意味では
休養できていないということも。

彼女を支えている人たちのなかでも、
お母さんの苦労はひとかたではないだろう。
お嬢さんに、本当は伝えたいんじゃないか。
そんなに頑張ろうとしなくていいよ
いつまででも寝ていていいよ
生きているだけでいいよと。
それが言えたら、そしてお嬢さんにそれが伝わって
心から安心して休養してくれたら
どんなにいいか、と思っているんじゃないか。

だけど、お母さんの心のなかも、
実のところそうそう単純じゃないはずだ。
お母さんは、元気だったころの、お嬢さんを知っている。
事件のことは、お嬢さんが悪かったのではないと知りつつも
元気じゃなくなったお嬢さんを見ていると
やり場のない不満がふつふつと、わきおこるだろう。
「自分の娘なのに、元気じゃない」ことに。
どうして元気じゃないの? 
どうして治らないの? 
いつ、あと何年で、何月何日に治るの?
壊れてしまったお人形のように(修理すれば直るかのように)。

被害者女性の苦しみが長引くことを危惧して示談に応じたことも、
その選択自体が間違いだったはずはないが、
損をしたような、失敗だったような、
わだかまりとなって、残ってしまったのかも。
示談で終わったんだからもういいでしょ、
もらうものもらったでしょ、と
加害者側からは言われるだろうし。

結婚して子どももできたんだから
レイプされて心の傷を負ったといっても
大したものじゃないんでしょ?
くらいのことは 今でも
方々から言われるのではないのか。

お嬢さんがのちに結婚されたとき、
お子さんが生まれたとき、
どんなに お母さんは、期待したことだろうか。
これがいい機会になって 
娘も以前の元気を取り戻すかもしれないと
何度 希望をかけただろう。

被害者女性の思いが、
かなり想像できるように思う。
彼女ほど重度ではないにせよ、わたしも
自力ではまず癒やせないと思われる
心的外傷を負っているからだ。
わたしも、今でも、
一昨年の暮れのできごとを忘れることができない。
不眠や、フラッシュバック反応には
ほとほとまいっている。

退院して退職したあとの自分の受け入れ先となった、
親を、信頼することができなかった。
親は、休めと口では言うが、
休ませてはくれないだろうと。
内心では わたしが休むことや 
元気がないことに不満を抱え、
条件付き期限付きでの休養を
要求したいんだろうなと思っていた。
わたしは、もし、具体的に
何かの条件を提示されたとしても
それは別に良かったと思う。
だが、おかしな話かもしれないが、
心のうえでは無条件で 自分をいたわって欲しかった。
いつまででも寝ていてもいいと言って欲しかった。
でも
もし親が「寝ていていい」と思ってくれていたとしても
思ってくれている、ということを信じられないのだった。
期待しておいて、信用できなかった。

足の切断手術を受けたとか、胃を半分とったとか、
「どう見ても休んでなくちゃいけない」状態だったら
数ヶ月くらいは自分も気楽だったろう。
でも、目に見えない部分の問題で 
休んでいたいなんて、
甘えだと思われるだろうなと思った。
・・・
非常におかしなことを言ってると自分でも思うけど、
わたしは要するにこう考えてた。
「休養なんて甘えだと思われていることを察知する」
「甘えだと認識して、つらくても奮起するか、
 奮起できなくて申し訳ないというようすを見せる」
「早々に床上げをする」
「さっさと働き始めて、元気な姿を見せる」
これらすべてをクリアしなくては、
休養することが許されない。・・・と。

こんなつまんないことをせわしなく
グルグルと頭のなかで考えているんじゃ
休まらなくて当然だと思う。

そばで見ていてさぞかしうっとうしいだろうな、とも。
家で落ち着いて寝ていることなんかできなかった。
寝ているところに、いつ親がどなりこんできて、
いつから仕事をするんだ、いつ病気が治るんだと
「いつ、いつ」と言ってくるだろうなという意識があった。
また、
「暗い顔で家のなかをうろつかれるとイライラする」
「治す気があるのか」
いつそういうことを言われるかと おびえてた。
親の口癖でもあったので。
まいっているときにこういうことを言われると
傷つくものだ。

そこへタイミング良く、以前の職場仲間から声をかけてもらい
早々にバイトを始めてしまった。

わたしは、実際には、寝ていようが、働こうが、
それはどうでも良かったのかもしれない。
ただ、無条件に、休んでいていいと言って欲しかった。
休んでいていいのだと、自分自身、思いたかった。
それなのに、
「自分は休んでいるべき時なので、休ませてくれ」と
一言でも言わなかったことをまず後悔している。
正直なところいうと、言ってもどうせ本当のところは
通じないと思っていた。
一昨年のできごとについても、
どなられたり、物を投げつけられたり、
吊し上げられたりしたときに、
やめてくれと、言わなかったことを後悔している。
何を言われても何も感じやしませんといったふうに
バカなキャラを演じてきたのも良くなかった。
「こいつは こういうふうに扱ってもいい奴だ」と
相手に思わせてしまった。
それも自分のせいだと思っている。

親に内心で思っていることがあっても
その1%も伝えてこなかったことも
「思っていることがあるなら言え。
言わないなら、思ってないということ」
と言われればそれまでであるから
今さら 思っている、と言い出すこともできず。
怒鳴られるのが、否定されるのが怖くて
何も言わずにきたことも、
自分のせいだと思っている。
しかも、
悔やんでいるし、自分のせいだと思いつつも、
同時に、相手を責めたくてしかたがない。
責めてもいいはずだと思っている 
そのことも認める。
自分にも落ち度があると思うから言えないのだ。

つまり、自分もずるいわけだ。

自分と、この記事の被害者女性は他人であるから
すべてが同じとは思わない。
だが、
この女性も、心のなかに
とても一言では言い表せない いくつもの激しい感情が・・・
それも、矛盾する感情が 混在しているんじゃないのか。
暴行被害によって負わされた心身の傷以外にも
彼女をむしばむものはあるのだ。

病人であるということは、気まずい。

自分は病人だから休んでなくっちゃいけないんだよ、
働けとか何かをしろとか言わないでね、
すぐ治らないからってイライラしないでね、
治療にすごくお金がかかっても全部払ってね、
ずっと寝ていても、怒らないでね、
いつも優しくしてね、
できないことは全部手伝ってね とか
なんの気まずさもなく言える病人が、いるもんかね。
わたしは、見た目に感情が読みにくい病人・・・
意識がないとか いわゆる植物状態の人・・・でさえ
見えない心の奥底の部分では
ふがいなさや気まずさを感じているはずだと思う。
その反面で
看病する人自身が気づいてもいない本心をも
残酷なまでに読み取っているだろう。
ある意味で疑い深く、敏感になるのだ。
「口ではこう言っているけど
内心(どうせ)〇〇だろうな」とか。
期待しては何度となく裏切られた気持ちになり、
強い孤独を感じているだろう。
誰にも伝えられなくても、 
激しく葛藤しているんじゃないのかな。

看病する側も、病人が悪いのではないと知りながら
イライラとか どこにもぶつけようのない不満とか
いろいろ噴出してくるもんなんだろう。

病気や、病む人は、それ自体にはなんの悪意もない。
でも、病気は、病気に苦しむ人は、
とりまくすべての人を程度の差こそあれ混乱させ、
見たくもない本当の姿とか、汚らしい部分とかを
露呈させてしまうものなんじゃないかな。

だけど病む人を救うのもまた人なのだ。