BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

ちょっといちにち休憩しますわ/荒川弘「アルスラーン戦記」11巻-190511。

きょうから始まるはずだったことがあったが、
予定が変わり、
約2週間後から始まることに決まった。

じつのとこ このことでずっと
ひかえめにいっても毎秒ゲロ吐きそうなくらい
緊張してる。
自分で決めたことであるので
さいわい イヤとか苦痛とかいうのではないが
わたしにはこの心の緊張は 並大抵ではない。
おとといあたりから眠れなくなってきていて
ついでにブラックコーヒーか
飲むヨーグルト」くらいしかのどをとおらない。
昼は職場にいるので 休憩時に食べないでいると
周囲に心配をかけるから いちおう食事を口にするが
30分以内にはぜんぶ外にでてしまう。
なんかつねにおなかをくだしている。

ゆうべ 予定の変更がきまり、
帰宅後はお薬の力をかりて すぐに就寝した。
ひさしぶりにまともに眠ることができた。

こんなちょうしではあと2週間 身がもたない。
一人で考えてないでもっとまわりに相談したい。
猶予ができたことをまえむきにとらえて
しっかりもう一度 準備をしなおしたい。

・・・

今朝、目をさましてみると
だいぶ気持ちがマシになっていた。
2日くらい前に購入だけしておいた
荒川弘アルスラーン戦記」11巻を
読んでみる気になった。

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kc.kodansha.co.jp

ギーヴがイスファーンとぶつかって
陣営を離脱する場面、
サンマヌエル城の攻防、
そしてアルスラーンとエトワールの再会。

ギーヴ
「俺の心は変わりません」が
「陣営を離脱したいという考えは変わりません」
では じつのところなく
「殿下の力になりたいというきもちに変わりはありません」
である、という点が
彼らしくていい。
アルスラーンが自分をほんとうに尊重してくれていると
わかるからこそ あのように
ひとこと言う気になったのだろう。

ザラーヴァントはイスファーンと
なにかとはりあっているが
ギーヴと決闘したイスファーンのそばによって
気づかっている姿なんかはカワイイ。

トゥース、イスファーン、ザラーヴァント
それぞれのキャラクターが
はっきりと描き分けられていて
見ているとたのしい。
トゥースはゴリラみたいなルックスのわりに(?)
案外と保守的、慎重で口数が少ないが、屈強で頼りになる
イスファーンはマジメでいい男だがまだまだカタすぎる
ザラーヴァントはややケンカっぱやく単純で
いいとこのおぼっちゃんならではの悪気のなさが
幼稚にみえてちょっとイタイ。
でも、天真爛漫なところがあり、表情がクルクル変わり
よくもわるくもわかりやすく、わたしはけっこうすきだ。
原作ではたしか
国の土木事業などに民衆を協力させるとき
率先して楽器や歌で盛り上げたり
お菓子や小遣いをばらまいたりして
みんなを楽しませながらうまくノせる場面があった。
ジャスワントともちゃんと仲直りしてほしいがなあ。

オオカミを殺さないイスファーン。

作者が北海道出身で
ご実家が酪農業者というのもあり
動物の描写がほんとにみごとだとおもう。
生き物がみんな、かわいらしさと野生の烈しさを
あわせもって いきいきとしている。
鷹のアズライールや
ダリューンの愛馬シャブラングが
登場するのをいつもたのしみにしている。

パルス国のことだけでなく、
侵略者ルシタニア国の側の事情も
しっかりと描いているので
ルシタニアをただの悪者、とか単純にとらえずに
より多角的な視点で 争いそのものの
かなしさ、むなしさを
思うことができるのが いい。
王弟ギスカールを描くことでルシタニアのマクロを
エトワールを描くことでルシタニアのミクロを
それぞれにあぶりだしている。
サンマヌエル城の集団自裁のシーンは
とても悲惨なものだが
あれを数ページもつかって
ちゃんと画で表現したことは
けっこうな決意のいる選択だったんじゃないかとおもう

ギスカールには同情してしまう。
スゴくいい軍略家であり政治家だ。
思考にかたよりがなく 苛烈だが柔軟。
もし王であったなら、とおもうと
なんかきのどくなのだが
わたしごときが案じるまでもなく
タフな人でもある。

エトワールの行く末を しっているだけに
アルスラーンとエトワールのやりとりの
みずみずしさ、いじらしさのようなものに
胸をうたれる。
原作におけるエトワールのことをおもうと
涙がでてくる。
エトワール「星」というよりは
ひなぎくとか なにかちいさくてかわいい
一輪の野花のような存在だとおもう。

きずつくぜ-190508。

職場で、立って、同僚Bさんと
仕事についてのかるいやりとりをしていたところ、
それにおおきな声で遠くから話しかける形で
よこからはいりこんで
やりとりをめちゃくちゃにしてきた人がいた。

Bさんに急ぎの電話が入ったとか
そういうことならしかたがないとおもうが
ぜんぜんそういった内容ではなかった。
プライベートについての 与太話だった。

その人 Aさんは、
わたしの話し相手であった同僚Bさんが
わたし以外の人と会話をしているときには
けっしてこのようなことはしない。
AさんとBさんの関係は普段から良好だ。

わたしとAさんの関係は微妙である笑
わたしはこの職場の人たちと
幸運にもほんとうにみんなと
良好な関係をきずけているのだが
Aさんとだけはダメなのだ笑
だって怖いんだもん 

Aさんが わたしにしたようなことを
ほかの人にもしているところを 
すくなくとも 
わたしは見たことがない。
だが、過去にAさんは 
わたしが誰かと話しているときに
(これまでは、今日ほどには
わかりやすいやりかたじゃなかったが)
似たようなことをしてきたことが、
何度かあった。

感触としては
まずわたしがAさんに好かれていることは
ありえないので
わたしが好きなYorkさんが
どこぞの馬の骨と仲良くしてるのがヤダ」
方面のきもちからきている行為である
系統の仮説はすべて除外するとして
考えられるのは
Yorkごときが職場の人と仕事のことなんか
わけしりがおで話してるのがヤダ」
Yorkごときが職場の人となかよく
しているのがヤダ」
系統だ。

Aさんは、
Bさんと話していた相手が
「わたしであったから」
このような行為に出たとわたしは感じた。

よこからわりこまれたことにぎょっとして
わたしが目を丸くしたのを見て
BさんはAさんをたしなめようとしてくれた。
でも、Aさんはそのようすを
意に介するそぶりもみせず
自分のしゃべりたいことを
おわるまでずっとしゃべりとおした。

「わたしだからこんなことをするのかな」
と思うものだから、わたしは気分が悪かった。
人間、まわりへの配慮をつい忘れて
つまらないことを有頂天でしゃべりたててしまい
あ、自分はいま 場の雰囲気にそぐわないことをしてる
とか気づいたときには もう口が止まらない
そんな失敗は けっこうだれしもあるもんだが、
会話中のふたりのあいだに 割って入るなどと
いうことをしたら 相手を
イヤなきもちにさせるだろう、ということが
わからないのか、この人は。

でも、さらに言えば
「わからなかった」のではない、とおもった。
Aさんは
「わからなかった。だからしゃべり続けた」
のではない。
話に無遠慮にわりこんだら
わたしにイヤな思いをさせるとわかっていて、
でも
わたしをイヤなきもちにさせることなど
なんともおもわないから、しゃべり続けた、
のほうが 正しいらしいことに気づいた。

つまりわたしはAさんに
こう扱ってもかまわないやつだ」と
思われたということだ。

考えもそこまでおよぶと
勝手に心がきずつくなあ。

できることをやれ/坐骨神経痛におびえる-190508。

思考がうまくまとまらない。
こういうときはたいてい
気ばかりあせっているか
能力以上のことを ムリにやろうとしている。

できることをやればいいのだ。
キーボードをたたくのだ。
わたしにできることなんか
そんなもんだろ。

・・・

腰痛がほんとにつらい。
身長があるのと筋肉がないのと
座ってやるようなことばかり好きなのと
体が非常にカタいのとで
わたしは中学生のころから 腰痛もちだ。
経験上、腰の痛みが長引く場合、
施療にかようあいだずっと、
ゴッドハンドに毎日、毎回確認される。
「ケツや足には しびれはきてねえだろうな」。
今回もそう。きのうも聞かれた。

腰の痛みが腰よりも下にひろがってきたような場合
坐骨神経痛のうたがいがあるそうだ

学生時代と7年くらいまえと
2回ほど やったことがある。
あれは最悪。
トロくてどんくさいわたしは
いままでいろんな種類、いろんな程度のケガをしたし
整形外科的な苦痛もさまざまなものを味わったけど
記憶しているかぎりでは
坐骨神経痛こそ
ダントツで人生最凶の痛みだった。


・・・
きのうまでは
「ケツや足はしびれてないか」と聞かれても
「大丈夫しびれてない」と言えてたけど
なんか きょうになって 
あやしくなってきた。
思うにたぶんもうすこしまえから こうだったんだろう。
腰の痛みがつよくて 気分が落ち込むせいもあり
どういう痛みであるか、どのへんまで痛むか
自分で自分の痛みの内容を
うまく分析できなかったのかもしれない。
失敗した。
もう坐骨神経痛がでちゃってるかもしれない。
あれ ひどくなると もう
原則 立って生活することになるんだよ
そもそも腰が痛いんだから
立っているのだってつらいのにだよ涙!!
治すためのマッサージも
大の大人が泣くほど痛いしさ涙

さらにわるい事態になるまえに
またゴッドハンドのところにいかなくちゃ・・・
めちゃめちゃ怒られるだろうな
最悪だ・・・


パソコンバッグが気に入った/メガネは最低5台もち/無条件/なんのために書くのか-190506。

ノートパソコンの携行用バッグを購入した。
見た目にはそこそこ それっぽさというか
重厚感があるが
バッグじたいは ぜんぜん重くない。
ハンドルの部分は丈夫で持ちやすい。
中身をつめて持って歩いてみても
おもったよりずっとラクで満足だ。
2㎞くらいなら パソコンや周辺機器を入れて
肩にかけて歩いても すこしもつらくない。
走ったらさすがにつらそう。
あと、毎日はまだ試してないから
毎日2㎞だとどうかは まだわからない。

・・・

きのう、あたらしいメガネをひとつ作った。
来月から環境が激変するので
それにともなって気分を変えようと。ふんぱつ。
カッコイイフレームがみつかって 
気分はさいこうだ。

コンタクトレンズをつかわない
メガネ専門ユーザーであり、
メガネがなくちゃ自宅のなかですら
安心して歩くことができないほど
視力にもんだいがあるにもかかわらず
まともにつかえるメガネを 現状1つしか持ってない。
これはけっこうゆゆしい。
最低でも5つくらいは ほんとは持っていたい。
うちわけとしては
気分とか服装とかシチュエーションによって
かけかえる外向きのもの3つ、
家でかけるもの1つ、
家でかけるものの予備1つ、ってかんじ。
家でかけるものの予備とは
たとえば 「お風呂掃除」みたいな作業・・・
湿気とか熱などの、
おもにレンズを劣化させる要素のある環境で
作業しなくちゃならないときに かけるものだ。
コーティングがはがれてたりキズがあったり
デザインがもうおよびじゃないなどなどの事情で
外向きにはもう使えないけど
視力矯正の用途には なんのもんだいもないみたいな。

メガネ5台、まずはこれが理想だ。

なのになかなか手持ちのメガネを増やせない理由だが
メガネって けっこう高いのだ。これがまた。

・・・

メガネ屋さんに一緒に行ってくれた
友人夫妻と食事をした。
ふたりと話すのは とてもたのしい。
このふたりと話すといつも
わたしひとりでは
とても到達できなかったようなレベルで
考えのヒントが 発見できたり
わたしがうまく表現できない考えやきもちに
名前をつけるのを 手伝ってもらえたりする。

わたしは自分まで頭がよくなったような気になれる。

それに、わたしのものではない別の頭脳や
別の感性の持ち主と話をすることの
きわめて新鮮なおもしろさやおどろきを
感じさせてもらえる。

わたしがふたりに なにかを提供できたと
思えたことは1回もない。
でも、
わたしがふたりに
なにも提供しなかったとしても
わたしとずっとかかわりたいと
ふたりは言ってくれる。

それは わたしにとってみれば
そこにいるだけでいい、
生きていればそれでいい、と
言ってもらっているのと同じだ。

・・・

「なんのために書いているのか」か。
ほんとにむずかしい。
それを面と向かって聞かれると弱る。
できれば聞かないでいただきたい。
聞かれたらその場その場で
てきとうなことを言っちゃうとおもう。

書くことが、ストレスの発散や
ヒーリングにつながることを実感しているので
ストレス発散目的で、とか
答えることもおおい。
本心で言ってる。
でもそれだけじゃない。

自分が、書く性質の持ち主であることを
苦痛に感じることも ひんぱんにある。
ストレス発散目的の側面もあるのだが
書くことや 書くことをめぐるいろんなことが
ストレスになることもあるのだ。
書くとだれかのきもちを傷つけかねないし
傷つけたと知ったらわたしも傷つく。
そんなことがあった日には
もう書くのやめようかなとかおもう。
でもやっぱりやめるのはしんどい。
うまいこと書けないことにいらいらする日もある。
書くのやめようかなと 
自分で思うのはつらくないが
他人に 書くのやめろ、とか
そういうことは書かないでとか
そういうこと書くなんてあなたらしくないとか
不用意に言われようもんなら
めちゃくちゃ怒る。
その服を着るのはやめろ
そういう服装はしないで
そんな服を着るなんてあなたらしくない
これは 人に言われても平気なのだが。
すじのとおった理屈もへったくれもありはしない。
他人に入ってこられることには
がまんができないのだ。
すごくむかつくとおもうね。
あんたになにがわかるのかと。


いつも 
わたしはいじいじしている。
書くことについて 使命感などといったものはおろか
まだ どんなちゃんとした覚悟もない。
あるのは 
ほかのもので代替がきかないかもしれない
衝動と欲求だけだ。

たぶんだけど、
なんのために書くのか、なんて聞く人は
たとえこちらがどう答えようと
理解してくれない。
理解ができる人は、
なんのために書くのかなんて
いちいちわたしに聞かないでも
理解してくれるんじゃないかとおもう。

なんのために書くのかと言われたら
困る、というのの
いいわけにしかなってないかも
しれないけど。

ラフォルジュルネ2019-アブデル・ラーマン・エル=バシャ-190504。

有楽町の東京国際フォーラムで開催中の
ラフォルジュルネ・オ・ジャポン2019にいった。

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今年は2公演 聴くことができた。
どちらも心からたのしんだ。

アブデル・ラーマン・エル=バシャ
サン・サーンスのコンチェルト第5番
すごくよい思い出になった。

1番と2番は何枚か CDを持っている。
エル=バシャの演奏のものも。
でも5番はあんまり聴かないなあ。
エジプト風なんて名前もついているし
ちょっと変わったメロディで有名だと思うんだけど
生演奏を聴いたことはわたしはない。

きょうは貴重な機会だったんだとおもう。

技巧でゴリゴリ華やかにアゲる系じゃないが
これたぶんすっごく表現技法的に
難しいんじゃないかな、って
おもわされる曲だった。

第3楽章 美しかった。

彼のピアノを聴いたとき、 
わたし、たしかに幸福を感じた。
すごくかっこわるいみじめな日々だったけれど
それでも、今日まで生きてきて、よかった
この演奏を聴くことができるんだから、と
はっきりと感じたのだ。

そんなふうにおもえたことがうれしかった。

ややスモーキーで やわらかい音だが
音色の透明感や 音の輪郭、
やろうとしていることの姿そのものは 
しっかりと保たれている。
わたしのなかでのビジュアルイメージは
アンデルセンの「雪の女王」に登場する女王の宮殿。
つめたく昏いが、同時に、あたたかい。
心によりそう、思いやり。ほほえみ。
緩急は自在ながら
あまりキツく歌わないでいてくれる。
ぜったいにはずさない安定感。
深く遠く響く。
よけいなことをしないところ。
調和を感じさせてくれる。
そして彼は一度たりとも汗をふかない。
汗をかいて青筋たてるような演奏じゃないのだ。

求道的な演奏、ってかんじじゃないかなとおもう。

わたしはこの人のピアノを
深く信頼している。

リサイタル聴きたいなあ。
もっと長く彼の演奏に触れることができたら
どんなにいいだろう。

映画の感想-『ザ・スクエア 思いやりの聖域』/海外ドラマ-『GET DOWN PART-2』-190503。

あした朝から出かけるので
はやめに休もうとおもうのではあるが。


・・・

以下 映画と海外ドラマについて書きますが
ただの 一時的な感情、感想を吐露したもので
客観的な批評まではしてません
そういうのを期待しておいでくださったかたには
すみません。

・・・


ザ・スクエア 思いやりの聖域』
原題:THE SQUARE
リューベン・オストルンド監督
2017年
スウェーデン、ドイツ、フランス、デンマーク合作

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www.youtube.com


なんつう残酷なもんを提示してけつかるのか。
忘れられなくなっちゃうだろうが。
どうしてくれるんだ。
わたしのキャパシティを完全に超過している。
『フレンチアルプスで起きたこと』(2014年)と
やろうとしていることが似ているなとおもったら
同じ監督脚本じゃないか。
みてられなくて逃げだしたくなるような
映画だったぜ あれは。
この人はそういうの作る人か。あれか。
ラース・フォン・トリアーみたいな
アンタッチャブル系監督か。
北欧の映画監督ってのはこういうのか。
なんだこの ぜったいいまのわたしにマネできない
超高度な自己批判と昇華能力。
ふざけんなよまったく。涙が出てくるわ。

・・・

米国の完結ずみドラマシリーズ
「GET DOWN」は第2シーズンを観始めた。

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www.youtube.com


エゼキエルたちが結成したHIP HOPグループ
ゲットダウンブラザーズ。
メンバーの一部が、より効率的に金をかせごうとして
音楽活動の裏でやってきたあんなことやそんなことが
彼らの保護者に、ついにばれた。

いままでばれなかったことが逆にふしぎだ!
息子たちのやっていることを知って
あれほど厳しく、正当に、叱ることができる保護者なのに
なぜ、ことここに及ぶまで無知でいられたのか。

よっぽど仕事とかが多忙だったんだろうか?
そんなかんじ、なかったんだけど。 中には、
ブロンクスの街で10年続く美容院を営む母親がいる。
彼女は自分でいっていたではないか、
「ここは街のみんなのコミュニティ」。
だったら客とかから少しは話が入ってきたはずだ。
おたくの息子さん最近ちょっとアレよ、と。
うちの息子/娘が言ってたけど・・・と。
そういう情報は 広まるのにはまさに一瞬。
それすらも聞かなかったというのだろうか。
おかしな話だ。

親ってそういうもんか? 親ってそこまでバカか?
友人や同級生も みんな程度の差こそあれ何かしら
親に気まずいことをやっているので
お互い様ってことで 何をみても聞いても黙っておく、
とかそういう
紳士協定的なものが発動していたのか?
そこまでの関係が あの若者たちのあいだに
あるともおもえないんだが。

でも、ばれてよかったじゃないか、と
正直 観ててほっとした。
まだ中学生程度のメンバーもいる。
音楽活動なら、いいとおもうけど
裏であんなことやるのを
あと少しでも長く保護者が見過ごしていたら
もう人生終わったも同然だったろう。

彼らのグループのDJを担当する
シャオリン・ファンタスティックという人物
何者なんだこいつはと 最初からおもってたけど
もう、要するにただのクソ野郎だと
断じてしまいたくなってきた。
あの男とのかかわりは
はやく断ち切ったほうが
グループのためじゃないかなとおもう。
でも・・・
親はなく おそらくまともな教育も受けられず
泥水をすするようなことに 耐えながら生きてきて
たったひとり、彼なりにたいへんだったのだ。
そういう生きかたしか知らない、
というのを 考えに入れて
解釈してやらないと気の毒だ、
あの男の行動は。
相当考えかたが ゆがんではいるけれども 
メンバーに「ああいうこと」をやらせたのも
仲間を守りたいがために
危ないやつとかかわらせるくらいなら
自分のそばにおいたほうがいいと思うがゆえに
せいいっぱいの策を講じた、それだけのことだ。
基本的にあの男はいつもそう。
仲間をおとしめようとしてやっているのではない。
自分が「ああいうこと」から足を洗えないのも
けっきょくのところ
いきがってもシャオリンには
限界がある ということだ。

マイリーンの父親も むかつくな。
自己欺瞞が人の服着て歩いてるようなやつだ。
おろかで いっそけがらわしい。
つまりあの役者さん、名演だ。
所属事務所のやつらどものほうが
ハイぼくたちの至上目的は金儲けです、
というスタンスを はじめからはっきりと
うち出してきている点で
だんぜん信用できる。
彼らならマイリーンを任せるのにベストか、
というと そうとも言いたくはないんだけど
将来への踏み台にする程度なら・・・。
とにかく最低でも
あの父親とはさっさと絶縁。
事務所のプランに さくっと
乗っちゃうべきだとおもうね。
事務所の連中、
なかなか感心なところもあるではないか、
マイリーンに手をだそうとしない。
そういうことしてくるやつらだとしても
おかしくはないとおもってたのに。
存外クリーンだ(くそくらえ)。
父親とおじが ガッチリと
マイリーンのナイトになっているとも
正直おもえないんだよな。
おじはとくに 
多忙で いつもマイリーンの
そばにいてやれるわけではないし
あれで相当 事務所のいいなり、
姪っ子ラブにも盲目がすぎる。
ちょっとたよりにはならないのだ。

なんかわたし 保護者目線になってきた。

はやく寝なくては。

髪の毛切ってスッキリ/ゴダールが生きてた!/小型化、無線化になぜこだわるか-190503。

とてもいい天気で 気分も良好だ。

おもえばこの連休は一度も
フラッシュバックを体験してない。

わたしはほんとうにほんとうに
よわい人間なんだなあ涙

・・・

髪の毛を短く切ってもらって非常にすっきりした。
美容師さんに点検してもらったところ
おもったよりはパーマはとれてないと。
むしろ、美容師さんとしては、わたしは
パーマがものすごくかかりにくく、
かつ とれやすい髪質だと考えていたので、
そのわりには 意外と残ったことに、
ちょっとびっくりだと言われた。

自分なりに経過をみてきて わたし自身
「パーマとれたけど、ゼロになったわけではないな」
「パーマとれたことよりも 長くて重いことが気になる」
というきもちが 自分のなかにあることを把握していた。

パーマをかけた日は髪の毛洗っちゃいけないことを
知らなくて、洗っちゃったと話したら
きもちわるかったら洗ってもいいよ、とのことだった。
おそらくは美容師さんひとりひとりや 
用いられる薬の種類などによっても
意見があり、扱いかたも異なるのだろう。

というわけでけっこう全体に
ゆるいパーマがまだ保存されているので
このうえにさらにかけなおすことはせず
活かしながら 短く切ってもらうにとどめた。
やっぱ短いほうがわたしはすきだな・・・
耳 見えたほうがイヤリングつけるの楽しいし。
長いとイヤリングひっかかるしな・・・
頭が軽くなったせいなのか
慢性的な肩こりや頭痛が
ちょっと軽くなったような気さえする。

しばらくはこれでいこう。

いままでずっと髪の毛を短くしていて
そのなかで 短いのがいちばんだな・・・と
おもってきたけれど
いまは 髪の毛をのばす体験を経たうえで
やはり短いほうがいい、と考えるようになった。
感覚は、やはりだいぶちがう。
のばしてみたといっても
背中を覆うほど長くということもなく
肩にかかる程度までではあったが、
実感として得たものは多かった。
のばしていくのは、あるところまでは
非常にしんどいのだが それを乗り越えると
ぜんぜんイヤじゃなくなる、とか。
髪の毛が肩につくとピョンピョンはねだす、とか(笑)
短いときにはわからなかった、髪のクセの出かたとか。
そういうのぜんぶ
のばす過程ではじめて知ったことだった。
髪の毛をのばした9ヶ月は
いまふりかえると おもしろかった。

・・・

あしたは朝早くから有楽町に向かう。
ラフォルジュルネにいってくるつもりだ。

・・・

フランスの映画監督
ジャン・リュック・ゴダール氏が
存命であることを きのう知って
いまさらながらおどろいた。
ヌーヴェルヴァーグの旗手として並び称された
トリュフォーやシャブロル、ジャック・ドゥミなどは
みんな 30年前くらいまでに亡くなっている。
ご健在だったとは・・・
生きておいでなだけでなく
映画監督として現役であり
このたび「イメージの本」という新作を
発表されたそうだ。

もうこの世におられないと
てっきりおもいこんでいた人が
いると わかるとうれしい、
つげ義春さんとかのように。

・・・

スマートフォン用のケースと
ディスプレイ保護用フィルムを
購入しようとおもって家電店にいってみたが
ぜんぜんどれがいいんだかわからなくて
もう立っているのもつかれてきて 
買うのをやめた。

モバイルバッテリと
ポータブルハードディスクと
腱鞘炎悪化防止のマウスも買わないと。
わたしのパソコンは
15.6型ノートパソコン1台のみだ。
今後当面 これをあっちこっちに持ち歩いて
仕事をすることになる。
携行用のバッグなんかをそろえつつある。
・・・このことについて
いかなる疑問も感じてなかった。
でも、
家に届いたそれらを
ためしに使ってみておもう。
15.6型は、でかい。そして重い。
持ち歩くのしんどい。
わたしは きっとすぐに音を上げる。
こういうことって
当事者になってみないと わからないもんだな。
なぜ15インチよりもちいさいノートパソコンがあるのか。
なぜモバイルバッテリなどというものがあるのか。
なぜ無線でなんでもつなぎたがるのか。
なぜウェアラブル端末が流行るのか。

身軽になりたいからだ。
できるだけ荷物を減らしたいからだ。
バッグから荷物の出し入れをする手間を
へらしたいからだ。
どこでもすぐに作業をしたいからだ。
やっとわかった。そうだったのか・・・
というか この
「どこでもすぐに作業したい」というきもちが
かくも切実に、重要なこととして
せまってくるものだということを
わたしはいままで知らなかったのだ。

持ち運びに便利! みたいな
スマートでオシャレ、的な感覚とはわけがちがうのだ。
べつにみんな スターバックスでパソコンをひらいて
おしゃれになんか書いたりとかしてる
おしゃれビジネスパーソンになりたいとか
そんなことのために
便利で、つながる、ちっちゃなデバイス
探し求めているんじゃないのだ。

スゴく大事なことだ!!
すこしは真剣に考えなくては。