BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

花粉/太宰治『斜陽』『満願』/だんごむしからのカフカ『変身』-190306。

今年は花粉すごく飛んでいるなと感じる。
マスクしてないとかなりしんどい。
朝 会社に到着したとき
メガネをはずしてみると
レンズに花粉らしきものが
いっぱいついてる。
メガネを もしかけてなかったら
これぜんぶ目に入ってたのか、と想像すると
それだけで もうかゆい。

・・・

太宰治の『満願』と『斜陽』
カフカの『変身』を
読み返してみた。

満願と斜陽はゆうべ
変身はきょう昼休みに
書店で立ち読みした。

・・・

『満願』

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わたしはこれを持っているけど
ほかのなにかの作品集にも
おさめられているんじゃないかな。

青空文庫でも読める。

www.aozora.gr.jp

「八月のおわり、私は美しいものを見た」
・・・からの ラストシーンが
なんだかとてもいいなと読むたびにおもう。
太宰の作品にしちゃスキッとして明るくて
すずしい香りがする。
高校か大学かの授業で習って、
このラストシーンを鮮烈に覚えているという人は
けっこういるんじゃないだろうか。
それによくよく考えると
はじめからおわりまで、
また、伏線のはりかたも、完璧なのだ。
みなまでいわず スマートにぼかし
でも考えればちゃんと
答えがでるようにつくられている。
お医者さんがシンプルな善悪二元論者であり
自分の細君を悪玉に分類していた、とか。

「あれはお医者の奥さんのさしがねかもしれない」
という一文。
「あれ」の解釈は二又に分岐する。
ふたつは
「年つき経つほど、私には、
あの女性の姿が美しく思われる」
でもって きれいにつながる。
太宰治 スゴイなやっぱり。



『斜陽』

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中学時代に読んだのと
高校時代に読んだのと
大学時代に読んだのと
今回読んだのとであまり
印象が変わらなかった。
生きることに邁進するヒロインの
姿がとても印象的だ
自死を選択する ヒロインの弟の
きもちもよくよく理解できる。
ああいう意味でのいわゆる
「中二傾向」は
大人になってもずっと残るものだ
ああいう意味での中二傾向を
わたしももっているので
だからいまもわかるのだ。




『変身』

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青空文庫版は訳者が
わたしが読んだものとちがう。

最後、どうおわるんだったけなと
急におもったのだ、ゆうべ寝る前に。
というのも わたしここ数日
腰が痛くてしょうがないので
接骨院の先生におそわった
ストレッチを
ベッドの上でやっていたとき
その姿勢が、ひっくりかえった
「だんごむし」みたいだなと
われながらおもって、それで
ザムザを連想したわけ。

ラスト
なにあれひどいね!!

でもそれ以上に
虫になって
会社の人 来ちゃってどうこう
の 最初のほうがかなりおもしろい
虫の姿で 部屋の内カギをあけて
外に出ようとして
錠前にとりついて 
アゴの力でカギをなんとか
ひねろうとして
「鍵が回転するのにつれて
彼は錠前の周囲を踊りまわった。
体もいまはただ
口ひとつで立っていた。
必要に応じて彼は
鍵にぶらさがったり、
あるいはまた全身の重みをかけて
鍵を下に押しもどしたりした」
新潮文庫 高橋義孝訳版)
笑っちゃいけないかもだけど
状況を想像すると
爆笑ものだ。

妹がザムザの部屋を
大掃除するところが
彼女の兄への思いやりと
表裏一体の支配欲みたいなものを
おもわせてすごく興味深い

ザムザの部屋の三方を囲むように
母と父のいる居間、
妹の部屋、
女中さんのいる部屋が
あるという 
家の構造もおもしろい
ザムザの部屋の
ほぼすべての面に
ほかの部屋につうじるドアがある。
変わってる。
舞台とかにできそうだ。

兄さんが
いつもどおりの時刻に起きて
会社に行かない、
わけも言わず部屋でぐずぐずしてる、
ただそれだけのことでもう
妹などはいやに動揺して
シクシク泣き出したりする。
家族がちょっと いちにち
寝坊したか何だかで
会社に行くべき時間に
起きてこないくらいで
泣いたりしないもんだと
わたしはおもうし
ザムザの父や母のように
なぜ部屋から出てこないんだと
問い詰めたり怒ったり
しないとも おもう。
でもザムザは
そういうことをされる。
しかも部屋の三方を
囲いこまれている。
筋を追ったところでは
両親がなにかの事情で
ザムザの勤務先から
金をかりているらしく
その返済などの必要もあり
ザムザひとりが家族を背負って
働かなくてはならないようだ。
冒頭の時点では
両親と妹は 働いてない。

ザムザのストレスをおもう。

なんか、内にも外にも
もう いっぱいいっぱい
なんだなとおもう。

不条理とかなんとかじゃなくて
いっぱいいっぱいなとき
誰もが一度は いだく願望、
それが『変身』だなと感じる。

ラストはほんと気の毒だなあ。

「ザムザ嬢が真っ先に立ちあがって
若々しい手足をぐっと伸ばした」。
もぞもぞと無意味に動き
しかも細くてたよりない
ザムザの手足と正反対だ。

粗大ごみを出す作業を完了/トップ・シークレット・ドラム・コー Top Secret Drum Corps-190304。

不要になった寝具を
粗大ゴミに出す作業を行った。
実家にいたときは
やったことがなかった。
兄の仕事だった。
自分でやるのはこれが初めて。
車をもってないから
自宅までとりにきてもらう。
朝ちょっと早く起きて
共用玄関口に 出すものを持っていく。
ほかのお部屋のかたの
出入りのじゃまにならないところ、
・・・と考えると
屋根がないとこまで
出ていく必要がある。
雨が降っていた。
雨でも回収は行われる。

地べたにおかれて
ぬれてるふとんって
寒々しくて、みじめだな、
なんか。

ふとんに
かわいそうなことしたような
気になった。
でも、残念だがきみは
いまのベッドには
ほんとうに大きすぎるのだ。
ふとんみたいなものって
おさがり欲しがる人も
いるとは思えないしさ。

夕方 仕事から帰ってくると
寝具たちは
すべて回収されていた。
手続きを 正しく
すませることができたことには 
ほっとした。

・・・

わたしはおもうのだが、
どうしても
戦争しなくちゃいけないと
いうのなら
殺し合いではなくて
音楽やダンスで
やったらいいのに。
そんなことに利用しては、
音楽やダンスに
悪いような気もするが
盛り上がるし、
お国のカラーがでるし、
なにより、楽しいではないか。
きっと勝ち負けを決めなくても
たのしかったね!って
お互いイイかんじに
終われるとおもうね。
決めたければ 勝ち負け決めても
いいけど・・・
どうするかだな・・・

ドラムラインバトル、
わたしとしては 希望したい。
ヨーロッパの軍属音楽隊とか
カッコイイ。
息をとめて見入ってしまう。
これからの戦争は
ドラムラインでしょう。

スイスの
トップ・シークレット・ドラム・コー
大好き。
軍属音楽隊がイイとか
いまさっき述べたばかりなのに
トップシークレットはいきなり
軍属じゃない団体なのだが笑。
彼ら、アマチュアらしい。
会社員や教員、大学生など
いろんな人がいるのだとか。
驚きだ。

ところで
ドラムラインとは
「歩く吹奏楽団」すなわち
「マーチングバンド」
金管木管+打楽器)
から
金管楽器木管楽器をのぞき
打楽器群だけで編成した
音楽隊をいう。
旗とかきれいな布を振って
パフォーマンスを彩る
「カラーガード」という係が
入ることも多い。

そして
「ドラム・コー」は
厳密には
ドラムライン」に金管楽器
ときに、カラーガード
まで含む編成をいうそうだ。

「トップ・シークレット・ドラム・コー」は
ドラム・コーを名乗っている。
だから
トランペットなどの金管楽器
シンセが入ってもよさそうだが
動画をみていただければわかるとおり
入ってない。
打楽器と、カラーガードの
すごくシンプルな編成だ。

このへん、どういうことなのか
よくわからない。
日本では、
今 わたしが解説したような
かんじでやっているのだろうが、
海外ではとらえかたが
ちがうのかもしれない。

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www.topsecretdrumcorps.com


マーチングは例外なく
みんなそうだなと おもうんだけど
この人たちも
「まじめくさった顔して
何しちゃってんの笑」って
かんじが たまらなくいい。
とくにメンズバンドは
絶対に歯を見せない。笑わないのだ。
女性はにこにこすることもあるが。
なんか
基本的に こういうのは
「ナンセンス」であることが
いいのだとおもう。

「トップシークレット」は
やっているのが
欧州の人、というのが
なにかよけいに
わたしに刺さる。

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これだけ
複雑なことをやっていれば
スティックを
取り落とすことも そりゃ
たまにはある。
だいたい3本か4本のスペアが
楽器の脇のホルダに入れてあり
音が不自然に消えないタイミングで
すばやくとりかえて
なにくわぬ顔で音楽に合流している。
ちなみに
本番中に1回でもスティックを
落とすなどのミスをすると、
心がくじけてしまって
何度もヘマをしちゃいそうな気が
わたしなどは するのだが
TSDCのメンタルは
そんなにヤワじゃない。
動画を観察していても
1回ミスをした人が
そのあとガタガタと崩れていく
そんなようすは
まったく見受けられない。
練習が、徹底的に
行われているんだとおもう。

落ちたスティックは
落ちたままであり、
拾って使うことはない。
誰かが足をすべらせることがないように
さりげなく蹴っ飛ばして
むこうにやる配慮も忘れていない。

すべてのことを
ポーカーフェイスでやってのけるのが
ほんとうにスタイリッシュで
カッコイイ。

アクシデントとは別だが
スティックのとりかえさえも
おしゃれなパッセージにしているのが
よく見ると わかって、すてきだ。

スティックのホルダから
すごくいろんなものが出てくるし。

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彼らは
いったいどうやって
この怪奇現象にもひとしい
超高度なプログラムを
頭に入れているのか。
だれかひとりでも動きを間違えたら
たいへんなことになるのに。
そういうハラハラを
ちっとも感じさせず
ただただ楽しませてくれる。

街のフェスティバルなどにも
頻繁に登場しているようで
たくさんの動画でそのようすを
みることができる。
歩行者天国にされた路上を
演奏しながら行進していくとき、
彼らの対応力の高さが
かいまみえる。
路上駐車で道幅が
せまくなっているところがあると
すばやく隊列を変える。
横列の両端の人が
後方に下がるくらいではあきたらず
上からみたとき三角形にみえる
フォーメーションに変えたり。
臨機応変に 高度な対応をみせる。
そんなことをやりながら
演奏はけっして崩れないし
歩幅や行進のスピードも
きれいにそろっている。
また、
先導するカラーガードもすごい。
何百メートルも離れても
ドラムラインが所定の距離感まで
おいついてくるのを
いちいちふりかえって
確認しなくても
完璧に把握している。
フレーズを何回繰り返したか
正確に数えていて
それで判断しているか
うしろから聞こえてくる
音の大きさや
かすかな地響きに
耳をすませているのかも。
容易なことではない。

人間にこんなことが
できるのか・・・
やらないと殺すとか
脅迫されてるわけでもないのに。

つくづく見入ってしまう
美しさだ。

最高。
しかも
わたしはこのTSDCが
とくにだいすきではあるが
軍属音楽隊、
マーチングバンド、
ドラムライン
TSDCだけではもちろんなく
世界にたくさんあり、
それぞれの特色をもち
活躍しているのだ。

もし戦争のかわりに
ドラムラインバトルやろう!
ということになったら
地球全体がそれこそ
沸きに沸くだろうな。

世界の大舞台で
こんなにたのしいことを
自国の音楽隊がやってくれたら
それだけで 
自分がそこの国民であることが
誇らしくてたまらなくなるだろう。

戦争は、
なにもかも、ぜんぶ壊しちゃう。
でも芸術は、創る。
戦争するくらいなら
芸術をやればいいとおもう。

やろう!
ドラムラインバトル!

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TSDCと他団体の合同練習の風景

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本番ではおひげをそって
髪の毛もちゃんと
切っているんだね・・・。
若いのに感心だねえ・・・涙

その場で足踏みをしながら
練習をするメンバーが多いみたいだ
本番は行進を前提としているので
あたらしいプログラムを覚えるときも
足踏みしながらのほうが
いいのかもしれない。

エジンバラバーゼル
ミリタリータトゥー
観に行きたい・・・

映画の感想-『小さいおうち』-190303。

山田洋次監督、2013年、日本

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なまぬるい。
また、深みにかける。
こうなってしまうならば、
わざわざ映画化する
必要はなかった。

足りてない。
ぜんぜん足りてない。
たぶんいろんなことを
中途半端にやりすぎたのだとおもう。
量産型2時間ドラマよりも
さらにスカスカで
みみっちい仕上がりになっている。

足りてないのに、多弁すぎる。

あと かんじんの
おうちの外観と
背景のつくりこみが
眼をうたがうほど安っぽい。

『母と暮せば』の
吉永小百合
「あの子が死ねばよかったのに」
よかったなあ。


山田洋次監督は、
『小さいおうち』でも、
『母と暮せば』で描いたようなことが
描きたかったんじゃないのか。
だって、
「だれもが不本意な選択を
強いられた時代だった。
みずからそれをとりにいき
嬉々として従った者までいた。
だけど自分のやっていることが
おかしいと、
誰も気づくことができなかった」
そんなようなセリフを
言わせていたではないか。

むしろ
本作のほうがより複雑化し
深化してもよかった。
戦争とは関係ないけど
でも戦争があるゆえに燃え上がった
「姦通」を
テーマにすえていたんだから。

でも、本作は
まったく 
とどいてなかった。

ただ、松たかこの 
あかるく華麗な
雰囲気がとってもいい。

黒木華も 
ついなんとなく見ちゃう
独特のなにかをもっている。

ノートパソコンふんじゃった/カレーチャーハンの夢/ネコ(ふんでない)-190301。

今朝、ねぼけてベッドからおっこちた。
ちょうどもう起きるべき時刻でもあったので
そのまま体を起こして、
手洗いにいこうとして、
ベッドのすぐ下においてあった
本の山に足をひっかけ、
体のバランスをくずし、
こたつテーブルの天板を
おもいっきりひっくりかえした。
ころんで天板が右ひじにぶつかった。
天板のうえにのせてあった
ノートパソコンが床に落ちた。
立ち上がろうとして
よろけたわたしは
それをおもいっきりふんづけた。
左手を床についたひょうしに
左手首をややひねった。

なにをやっているんだわたしは。

仕事をしているあいだというもの、
今朝ふんづけたことによって
ノートパソコンが壊れなかったか、
そのことで気が気じゃなかった
と ここでわたしがいっても
なんらおかしくないくらいの
ふんづけ具合だった。だが
じっさいはそこまで心配することもなく
いつものように
たいへんよく集中して仕事に取り組んだ。
ノートパソコンは
まあたぶん大丈夫だろうと信じてた。
けっこうわたしは運がいいのだ。
おみくじ 大吉だったし。
帰宅して、ノートパソコンの電源を
いれてみたら、
もんだいなく起動した。
もんだいなく使用できる。
このブログもノートパソコンで書いている。
よかったよかった。

・・・

ねぼけたこととは
そんなに関係がないのだが、
今朝、夢を見た。

カレーチャーハンを食べる夢。
夢のなかの
シチュエーションとか舞台装置って
ほんと 謎だよね。
今朝見た夢もやはり
キテレツきわまりなかった。

いまわたしがじっさいに働いている
職場の仲間たちといっしょに、
帝国ホテルでバイトをしていた。
大規模なパーティー
お給仕の仕事だ。
外国から招かれたシェフが
お料理をてがけた。

パーティーがおひらきとなり、
お料理がかなりたくさんあまった。
捨てるのはいかにももったいないので
(より正直にいえば、ぜひとも食べたかったので)
シェフに 
これ食べてもいいですかと聞いたら
温かいうちにおあがりと いってくれた。
わたしたちはみんなで 
残ったお料理を
おいしくいただいた。
わたしはカレーチャーハンをもらった。
バターチキンカレー風味で
辛いものがまったくダメなわたしにも
ちょうどよい。
野菜もたくさん はいっていて
たいへんおいしかった。

という夢だった。

か、カレーチャーハン・・・???

感覚としては、
おいしかったし、
温かかったし、
楽しく、うれしい夢だった。
内容をよく覚えていた。
そういうことはめったにない。
これさいわいと
あとでインターネットで てきとうに
「高級ホテル」「大宴会」
「パーティー」「チャーハン」
「カレー」などといった
キーワードに
「夢」「心理」「分析」を加えて 検索。
すると
性格的に暗いところのあるわたしには
ほんとうにめずらしいことなのだが
よいことの前兆ですよ的な
分析 見解ばかりがでてきた。

高級(そうな) ホテル
・・・これまでになかったような幸運
   決定的な出会いのおとずれ
   交友関係の拡大と発展

宴会(場) たくさん 人
・・・人との交流がさかんになる


ホテル 食事 たのしい
・・・気力 体力の充実
   相手が異性ならば恋の予感?
   (異性、登場したけど職場の弟たちだからな笑)


プロ シェフ 料理 作ってもらう
・・・想定外の幸運 
   

料理 おいしい
・・・環境に満足している、将来願いがかなう


(あたたかい)チャーハン 食べる
・・・幸運の予兆 吉報のおとずれ
   現在の環境への満足度が高い


おいしい カレー
・・・ものごとがよい方向に向かっている


カレー 食べる
・・・刺激や成長への欲求


外国人 
・・・環境を変えたい、変わりたい
   おおきく生まれ変わりたい


シェフ
・・・努力をかさねることで念願がかなう
   近い将来 念願がかなう


ネガティブな内容の暗示もあった。


ホテル 働く
・・・人間関係で苦労する
   出会ったことがないタイプの人に出会う
   人に強い影響を受ける


夢に職場の仲間があわられる
・・・職場の人間関係に悩んでいる


「チャーハン」などという
具体的な料理の
夢と心理の分析がなされているなんて
知らなかった。
「ワイン」「野菜」といった
古来からある食べものならば
昔から 心との関係を
研究されていそうだな、とおもうが
チャーハンて わりとこう・・・
新しいというか 通俗的というか
現代っぽいというか。


いや 
しかしこの結果は・・・
これ おおむね かなりイイのでは。
イイ波が きているのでは。

なにしろ今年はおみくじも
大吉だったからね!


・・・

今朝、ねぼけてよろけて
床に 手をついたときのことだが

敷いてあったカーペットの
てざわりを 感じたその瞬間
あ、この感触は
昔 実家で世話をしていたネコの
あの毛並みに 似ているのだ、
と気づいた。

ネコは、東日本大震災発生の
およそ3か月後に死んだ。
震災直後から弱りはじめ
おかしいと気づいたときにはもう
腎臓と肝臓をわるくしていて
手遅れだった。
あの時期はヒトにとって非常時。
直接の被災者かどうか
なんてことにかかわらず
日本中きっとみんな 
心が落ち着かなかった。
動物にも心があり 
その心はとても繊細だ。
あのネコも、
飼い主であるわれわれの 
ふだんとおおいに違う 
さしせまった心を
敏感に かんじとって 
ストレスとして体にためこみ、
ネコの弱点になることのおおい
腎臓や肝臓に顕著にそれが出た、
というのも
おおいに考えられることだとおもう。
なにせあの震災のすこしまえに、
動物病院で健康チェックを
してもらっており、
そのときはあきらかな不調は
発見されなかったのだ。
しかし
おもえば当時10歳で
人間でいえば50代後半のけっこう
それなりの年齢でもあった。

ネコが死んで、
わたしはとてもかなしんだ。
といっても ほんとうのところ
かなしむ資格が あったかどうか。
弱っていくのを見るのが怖くて
ろくろくそばにいてやらず
看病にも消極的だったのだ。
それを いまも悔いている。
当時も恥じた。

あのちいさなネコが、
たったひとりで病気と向き合い、
死を受け入れる過程はきっと
並大抵のものじゃなかったろうと。
なぜ そういうことにいっしょに
むきあってやらなかったのか
いっしょにむきあうことができないまでも
体をふいてやるとか
添い寝でもして 
荒い息遣いを 夜通し聞いていてやる
くらいのことを
してやらなかったかと
後悔してる。いまも。
どうせ心配で気がかりで
部屋でベッドに入ったって
ろくろく眠れてやしなかったんだから。

死んだときはとてもかなしかった。
初夏の明け方のことだった。

いちばんつらかったのは、
火葬にしてもらい、
お骨になって 
ネコがもどってきたときだった。
お骨のポットを いくら手でなでても、
もうあの ふさふさの体の
毛並みのやわらかさ、ぬくもりを
感じることは二度とできない
と、わかったときの
さびしさといったらなかった。

そういうさびしさを、
今朝、ねぼけてふらついて
カーペットに
手をついたときに まざまざと
思い出した。
あのときの
かなしかったきもちを
ふたたび体験した。

けれども、
カーペットの手ざわりは
ほんとうにあのネコのものに
よく似ている。
とてもなつかしいと感じたし
うれしかったこともたしかだった。

わたしはネコに
何もしてやらなかった。
あと、ネコはわたしを嫌っていた。
ネコが、われわれと10年一緒に過ごして
たのしかったか そもそもわからない。
捨てネコだったから 
外で暮らしていたほうが
気ままでよかったのかもしれない。
でも ネコは
あの かわいらしさや 
ツンとした冷淡さや
ヒザにのってきたことや
おやつをねだる鳴き声や
ヒザにパンチを食らわせてきたことや
あたたかかったことや
やわらかかったことで
つまり一緒に生きてくれたことで
何度となく
わたしのなぐさめになってくれた。

覚えている。

ご近所さんと、お2階さんと、おとなりさんと、わたし-190226。

★ご近所さん
・・・あまり接点がないが
ゴミ出しのときなどに
道ですれちがえば 
ごあいさつは必ずする。
このまえ庭で洗濯ものを干していたとき
(庭などというすてきなものがある!)
むこうのお宅の2階のベランダで
おなじく洗濯をしていた奥さんが 
「パーカーのフードに
洗濯ばさみが入っちゃってるよ」
と 教えてくれた笑
しかも
わたしがそのとき着てたパーカーの
フードに笑
どうやったら
今 着てるもののフードに
洗濯ばさみが入るんだろうね笑


★お2階さん
・・・現状、上階におすまいのかたのみ
面識がありお話したこともある。
40代後半くらいの男性だ。
まえに玄関先でばったり会ったとき
ちょっとお話した。
紳士的でおやさしいかただ。
引っ越しのあいさつのとき
どこの部屋のかたとも
結局 直接会うことはできなくて
ちょっとした品物に手紙をつけて
それぞれのポストに
いれておいたのだが
すべての部屋のかたが
翌日お返事のお手紙をくれただけでも
スゴイことだとおもうのだけど
この お2階さんは 
ていねいなお返事のお手紙に
コーヒーのつめあわせのお返しまで
くださった。
お手紙に
「わたしは足音がおおきいので
うるさかったら申し訳ありません」
と あったのだが
このかたは
たしかに 足音がでかい笑
それにすごく歩くのが早いみたいだ
いや天井も うすいんだろうけど笑
そしてたいへんなきれい好きで
すごくこまめにお部屋の掃除をしている。
えらいな!!とおもう。
ご自分も引っ越してきたばかりだと
おっしゃっていたから
最初ははりきって、きれいに使おうと
つとめる気持ちになるのはわかるのだが
いまも、毎朝ちゃんと
床に掃除機をかけているのだ。
それから お風呂にはいるとき
ごきげんで鼻歌をうたっている。
演歌にしかきこえないのだが
なにかなあ、この曲・・・
聞き覚えがあるような・・・と
すごくひっかかることがあり
半日がかりくらいで
よーーーーく考えてみると
ワンオクロックだったりする笑!!
それから、たまに
海外の女性シンガーの音楽を
ひかえめにかける。
たいへんいいスピーカーを
つかっているみたいだ
だれかわかんないが
エンヤみたいなかんじの、ああいう音楽だ。
でも、すぐ音がやむ。
かけておいてくれてもいいのに笑

おとなりさんや
お2階さんの物音が
気になってイヤでしょうがない
場合もあるんだろうが
わたしはいまのところ
そういうことが
ぜんぜんきにならない。
というか
もちろん音がきこえることは
把握しているし、
上記のとおりむちゃくちゃ
分析ずみなのだが
けっして めいわくには
感じてないということだ。
むしろ 音がきこえて 
うれしいくらいだ。
わたしひとりじゃないんだ、
ってかんじがして
ほっとする。
会ってお話したことがあり
お人柄やお顔を把握した
そのうえで であるから 
というのも あるとおもうけど。


★おとなりさん
・・・となりはふるい一軒家だ。
まえは高齢のご夫婦が
おすまいだったようだが
わたしがきて2ヶ月くらいたったころ
引っ越していかれた。
そのあと、40歳代くらいのご夫婦が
すぐに引っ越してきた。
以来
手入れのいきとどいたロードバイク
いつもワイヤーキーで
玄関前の階段の手すりに
くくりつけられている。
このご夫婦がやってきたあとに
さらに何人かが
このおうちで一緒に暮らしはじめた
かもしれない。
シェアハウスみたいなことを
やっているか・・・
いや、やっぱり一緒には住んでないかも。
入れ代わり立ち代わりお仲間がやってきて
古いおうちをみんなで一生懸命
リノベーションしてるのかも。
よくよく考えるとそんなかんじが
いちばん近いような気がしている。
外からみえる窓のカーテンが
ちょっとめくれていて、
そこにたくさんの工具や木材や
まだちゃんと設置してない
デスクトップパソコンなんかが
がさっと置いてあるのが見えるのだ。
たぶんあれらを 今後すこしずつ整えて 
生活空間をきれいにしていくんだろう。
なんにせよ たのしそうなかんじの
雰囲気や話し声がきこえてきて
なかなかいいかんじだ。


★わたしの部屋
・・・本棚がようやく入ったのを機に
きもちがかなりおちついた。
このまえ
家具のレイアウトを変更し
作業用の机を入れる準備をととのえた。
家具とかいったが いまのところ
レイアウトを変更できるような家具は
ベッドくらいしかない笑
本棚は自力で動かしたりなんてことは
絶対できない大きさだから。
ようするにベッドだ。
ベッドの向きを変えたら
部屋をどう使えるか、という
可能性がすごくひろがった。
なによりうれしいのは
本棚がまだまだおけるかんじになったこと。
じっさい じつのところ
住所不定の本がまだまだ
たくさん床に積んであるどころか
まだまだ増え続けているので・・・
べつに無理して本棚にぜんぶ
おしこめようとはおもってないし
それができる冊数でもないことは
だれより自分がいちばん
よくわかっているのだ。
ただ
おさまるところを
作ってあげられるなら
それにこしたことはない。
つかえるスペースは できるだけ
本のために つかっていきたい。
そのように考えるのだ。

女のひとりぐらしで
1階住まいは危険だと
よくよく まわりのかたがたに
いわれたが こうなると
1階でほんとによかったな。
2階だったら 床がぬけてたかも。

本棚がはめこんである場所は
この部屋がもともと和室だったときに
「床の間」だったとおもわれる
スペースで
部屋全体から すこしひっこんでいる。
だから 巨大な本棚を入れたのに
そのわりに圧迫感がない。
それでおもったんだけど、
机をどこにおくかということを。
いちおう 今回 
ベッドのレイアウト変更をしたときに
ここに机を置く、と想定した場所は
あるんだけど
そこじゃなくてむしろ・・・

机というと 壁に沿わせて置くものだ
というイメージがなんとなくあるが
本棚のまんまえに
机を配置しちゃってもいいかも
(パイプオルガンみたいに)
そうすれば目の前が一面本棚だから
いつでもひつような本がとれるし。
意外とこれは いい考えかもしれないぞ。
いい考えというか
見た目を想像するとおもしろい。
ただ この場合 
机の高さはすごく重要だ。
採寸をちゃんとしなくちゃ。
あと プリンタをどうおくか。
本棚の棚を1個
そのためにつぶすなんてことは
したくないからなあ。

机を入れたあとで
こんどは押し入れ収納を
整備したい。
これもまた 
採寸とか計算とかが苦手な
わたしにはすごく
たいへんな作業におもえて
あとまわしになりまくっている。

また、本棚や机の話をはなれたところでは
掃除をしたときに
ふとんとか毛布とかを
粗大ごみにだす準備をした
実家からもってきたふとんやらは
いまの部屋 いまのベッドには
大きすぎる。
ぴったりの大きさのものを
すべて新しくそろえたので
まえのものは不要になったのだ。

このまえ知った。
「かけぶとん」一式の 
「かける順番」について。

www.kaimin-niigata.com


じつのところ、環境によっては
毛布とか何枚も重ねがけをしても
あたたかさを確保できない
こともあるという。
また、あたたかいということと
快適に眠れるかどうかということは
別問題とか。

室温と かけるものの素材
(ウールなのか化学繊維なのか)
を考えあわせたとき
場合によっては
羽毛ぶとんを直接かぶって
毛布を下に敷いたほうがよかったり
下に何も敷かずに
ただ羽毛ぶとんだけかぶって寝たり
羽毛ぶとんのうえに毛布をかけて寝るのが
正解だったり
いろいろあるみたいだ。

ということをおもいだし
まず、
このたび 
家から持ってきて
いちおうまだ使ってた
毛布とタオルケットを
完全に撤廃した。
大きすぎるので
床についてしまって
衛生的じゃなかったのだが。
(夏になるまえに ちょうどいいサイズの
タオルケットは購入しようとおもってる)

そしてあらためて考えたすえ
いまは、
羽毛ぶとん1枚と うすい毛布1枚を
かぶって寝ている。
結論、これでまったく問題ない。
じつのところわたしは
夏の暑さよりは冬の寒さのほうが
耐えられるたちではあるのだが
それを考えにいれても
これでぜんぜん、寒くない。
もっと早く 導入するべきだった。

いままでの毛布や
タオルケットは
体のうえにかけておくと
重いだけだった。
重いのに でも寒いので
離すわけにもいかず 
あくまでかけておこうと
寝ながらにして格闘してたんだろう
体に重みがかかって
背中や肩がいつも痛かった
そのかんじから解放された。

あと、使う寝具がいくつもあると
やっぱ 
たたむのとか 手間だ笑

ダイニングやお風呂、玄関は
まだぜんぜん手をいれてない
ほぼ
もともとあったままの状態で
使っている。
お風呂のシャワーヘッドだけは
節水と塩素除去効果にすぐれるものに
交換したが。

殺風景このうえないのと
床になにも敷いてないせいで
さむいので
まあそのうちなんとかしたい。


というかんじで
おかげさまをもって
やりたい放題やっている。
引っ越してきてから1ヶ月くらいは
はやく部屋のなかを整えようとして
やたらがんばってたけど
それをやめて のんびりやるようになり
そのせいで とろくさくはあるが
でも いろいろ考えたりしながら
たのしくやれている。
誰に せっつかれているでもない。
仕事にもいかなくちゃいけない。
体を壊しては
ほんとうに 元も子もない。
その危険性がやや高めのわたしは
人にもまして
だらだらやらないとだめだ。
ムリをしないように
ちんたらやっていくつもりだ。

失態/もようがえ/高橋和巳「邪宗門」考-小休止-2-190224。

きのう小林賢太郎
コントプロジェクト
「KAJALLA」の公演を
観に行く予定だったのに
開演時刻を1時間まちがえて
記憶していて
もういまから行っても
まにあわない、という時間に
出発してしまったことにきづき
会場まで行かずに断念
時間についての失敗・・・
約束の時刻をまちがえて遅刻するとか
ぎゃくにうっかり早く行き過ぎるとか
そういうのだが・・・
わたし、あんまり するほうじゃない。
スゴイショック・・・
大失態ってかんじだ。

夜になってから都内に出た。
わたしの部屋に本棚をつくってくれた
大道具作家の宮本洋平くんと
彼をわたしに紹介してくれた友人のKと会い
お礼をかねて みんなで夕ご飯をたべた。

york8188.hatenablog.com


宮本くんはこの街の在住ということで
夜遅くまで開いている とある
新刊専門のおおきな複合型書店に
つれていってくれた。
とてもおもしろい書店だったので
これからはひとりでも訪ねたい。
近所の書店で売っていなくて
まだ購入してなかった
津島佑子の「狩りの時代」を買って帰った。

books.bunshun.jp



・・・

きょうは きのうにひきつづき
体調もよく大変元気にすごすことができた。
掃除をしつつ
部屋の家具の配置がえを行い、
いくつかのものを
粗大ごみやリサイクルにだす準備をした。
作業用のデスクを配置することを想定して
部屋が広く使えるように
ベッドの向きを変更し
パソコンまわりのケーブルの
配線もととのえた。

壁がさびしいので
ポスター貼りたい。とかおもった。
あと、本棚 もう3基くらいほしい。
ダイニングも使えばあと3基くらいは
入れられるからな・・・

そのようなことをきのう
宮本くんとKに話したら
床一面をスケルトン仕様でかさあげして
ぜんぶ本入れにしたらどうかといわれた。 
わたしにはぜったいおもいつかない
イデアだったので
ものすごくわくわくした。
それもいいかもしれない。
そこまできたら
もう一般人の居室ってかんじじゃない。
よくわからないけど
でもなにであるかといえば やはり
本屋だとおもうねそれは。

・・・

高橋和巳邪宗門」を
何周目かだが 読みおえた。

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www.kawade.co.jp



大阪のタコ部屋における
さいごの場面は 
何度読んでも涙がでるが
なぜ涙がでるのか 自分でも正直わからない。

腕に傷した行者、というのが
誰だったかなと いままでずっと
読んできて わかんなかったけど
たぶん大川春夫。
教団が最終的な瓦解にいたる前夜に
腕を負傷していて
傷口に塩をぬって応急処置するという
場面があったし
それに流れから推測するに
さいごのさいごに近い段階まで
彼は千葉と行動をともにしていた。

エスペラント語が得意な
変人の小早川勇も
この一行に参加していたのでは
ないかとおもう。
だけど
大川も小早川も
千葉のためにここまでする
キャラだったかな、というかんじが
わたしには ある。
大川はとくに 
べつに彼単体での活躍とか
ふかい人物描写はなかったにせよ
三高時代の千葉の最大のライバルという
位置づけだった。
そんな男が千葉の下についたばかりか
ここまでのことをするなんて。

「変なことに巻きこまれたな、俺も。
ひどいなあ、実際。
ひどいぜ、千葉さん」
そんなことを思いながらも
けっきょくは千葉の
革命に殉じた後輩・落合武彦もそう。

なぜこのキャラクターがこんなにまで、
という展開が 多いなとおもう。

吉田も、大川も小早川も
落合武彦も、
千葉も、教団も、
いったいなぜこんなことに
なってしまったのだろう。
あぶなくなってきたら
とちゅうでやめちゃえばよかったのに
さいごまでやるしかないと考えたのは
なぜだったのだろう。
正直わたしにはほんとにそれが
わからない。

5人の行者とは。
千葉、堀江民江は確実として
あと3人・・・ 
女は女行者とはっきり書かれるから 
民江だけとわかるので
あとはみんな男性のはずだが
大川、そして小早川だとしてあとひとりは
だれなんだろう。
南米造とかなのかなあ・・・


佐伯という医師が登場する。
かつて教団づきの医師のような
かんじのポストにあったものの
当局によるはげしい弾圧を機に本部を離れ
いまは関西の いまでいう 
あいりん地区あたりで
町医者をやっているという人物だ。

彼は千葉潔らのさいごをみとどける。

佐伯医師が
タコ部屋にやってきた謎の行者たちと
せっするなかで
なにをおもったのかちょっとほほえんで
それからウイスキーをラッパのみした
(佐伯はアル中なのだ)
という描写があるのだが
でも、このあとを読み進めると
彼はこの段階では 
行者がかつて親しく交わった教団の
人びとの一行であることに
気づいていないことがわかる。
気づいたけれども「久しぶりだね!」とか
おおさわぎするのも野暮というので
あえてだまっておいた
というかんじでも、ないのだ。
佐伯医師が
ちょっとほほえんだ、というのは
なぜなんだろうなとおもう。
行者たちは
たどりついた簡易宿泊所
産気づいた女性が
やすらかに出産できるように
ささやかながら力添えをする。
佐伯医師は
彼ら行者たちの心映えに
「いまとなっては遠い昔だが
かつては自分も
こういう人たちがたくさんいた
あたたかい場所に身をおいて、
なに不自由なく充実した
医療活動をしていたんだよなあ」
とかいうことを回想して
ちょっとにっこりした、
ということなんだろうか

でも
佐伯医師が教団と距離をおいた
背景やそのてんまつは
とうてい そんなほんわりした感傷を
ゆるしてくれそうもないかんじなんだけど笑!

尾智少年はどうなったんだろう。
彼の手になるモールス信号が
ぷっつり断絶したとき
彼の身になにがあったんだろう。

阿貴と吉田という人物は
この物語にとって何なのか。
わたしにとってはふたりは
「いてくれてよかった」と 
ほっとさせてくれる
役まわり というのが第一だが。

「私たちの信仰はどこへ行ったの」
阿貴の嘆きに胸をつかれる。
彼女が教団のありかたについて
明確に自分のきもちや考え
らしいことを言うのは
このときが初めてであるようにおもう。

吉田が千葉にたいして
説得というかむしろ哀願といってもいい
ことをする 岩場の場面も
とても強烈だ。


わたし高橋和巳がなにを
わたしにいいたかったのか
まだなにもわからない。

でも
書くならそろそろ
何か書いてみちゃどうだと
高橋和巳にいわれている
ような気もする。
やさしい人だったと聞いているので
わたしがまぬけな解釈をしても
怒らないでいてくれるだろう。
でもガッカリはさせたくない涙
書いているうちに
考えがまとまっていくこともあるだろう。
すこしずつ 歩きはじめてみたいとおもう。

なぜ、大学。-190221。

まえに、転職活動が
なかなかうまくいかなくて
よわりきったときに、
心のよりどころがほしくて
宗教書や哲学書を読みまくった。
仏教キリスト教を中心に
新しいものも古いものも
トマス・アクイナスも
デカルトニーチェ
カントもサルトル
なんでもかんでもとりあえず読んだ
そこに書かれていることから
今をのりきるうえでのヒントを
得ようとしたとか
そういうことではない
宗教や哲学って
「そういうかんじ」がするから
最初は 救われたい
助けがほしいとおもって
手に取った本たちだったかもしれないけど
でも
むずかしくって とてもじゃないが
自分には理解できなかったんだから、
どれも。
自分の「今」に適用できる何かなんて
まったくみつくろえず 
抽出もできなかった。
それなのに やめないで
読みつづけたのは、
埋没したかったからだとおもう。
圧倒的ななにか、
ぜったいに理解できないとおもうような
高度ななにかに
いっときでも挑み、
迷いこむことで
つらい現実から目をそらしたかった。

そのとき道元の「正法眼蔵」も
いっしょうけんめい読んだが
期待どおりぜんぜんわからなかった。

だけど、今よみかえしてみると
案外 もしかして
「むずかしく考えすぎてただけかもな」
と ちょっとおもう。
道元の著書のなかでも
正法眼蔵は難解だと
いわれているから
その情報をどこかから仕入れて
必要以上にびびってしまったことは
わたしの性格的に
かんがえられる。

※ただ 道元はそんなかんじで
まだしもな気がしてるのだが
空海とかは 本気でまったくわからない。

いったん のたうちまわるほど
苦しんでからでないと
ここにたどりつくことは、
いつも、できないんだけど
だいたいどんなことも、
たいせつで、しかも変わらないことは、
かならず とてもシンプルだ。
そして、いつの時代であろうが
誰がいったことであろうが、
根っこはおなじだったりする。
光のあてかたが異なっていたり
言葉がちがっていたり するだけで
みんな 共通することをいっている。
やっぱりまたこれか、と 
おもうこともあるのに
でも、触れてみないと
またか、かどうかは わからないし。
いっぽうで
やっぱりなぜだか
初めて触れたような気もする。
わかっていても、知っていても、
それを
実践できているかというと
できていない。だから、
新鮮に思えるのだろう。

正法眼蔵は、
もどれない過去でなく、
どうなるかわからない未来でもなく、
いまこのときを大切にして
生きるのがいいんだよ
ということをいっているんだと
今は 感じる。

・・・

体調が安定しないことが
われながら心配なのだが
できれば この春にも
大学に入り直したい。

学士とらないと大学院にいきたいと
おもってもいけないからなあ。

うーん。
でも 体調がなあ。
どうなのかねえ。
迷っているくらいだったら
科目履修生
(4年間124単位の卒業をめざす正科生でなく
とりたい科目を1科目とかからとる学生)
としてでも とにかく
半年 やってみるのが先決か。

でも体調がなあ。
まいったなあ。
わたしの心と体は
これからどうなっていくんだろうな笑
なんか、もう しっかりと元気には
ならないだろうなというかんじはするね
5年前、編集の仕事はじめたときと
おなじくらいにはもう
戻れないだろうな。

それがわかっているんなら
気にしてもしかたがないともいえるか。

あと 
どうして大学そんなに行きたいのか
自分でも正直わからない・・・
それがわからないことが
なにか非常に問題のような
気がしなくもない。

はっきりいえるのは
一生勉強してたい。
机にむかって 
いじいじ読んだり書いたり
新しいことを知って
へー、ほー、とか
言ってたい。
そして、それをもとに自分でなにかを
一生懸命かんがえては
こういう場所で
書き散らしたい。

そういう 
ほの暗くなかば狂人じみて
でも確実に熱いヘンななにかを
わたしは うしないたくない。
机とかイスとかノートとか
パソコンとか
書庫とか図書館とか
うすくらがりの 
本のある場所で起こることどもが
とても性に合っているのを
自覚している。
そういうところにいたほうが
落ち着くし、
なんのストレスも感じずに
ひたむきに、真剣でいられるのだ。
それだけはわかる。

資格とかはとくにいらない。
お金もそんなにほしくはない。
1ヶ月 借金とかせず
誰にもたよらずに
まわしていけるだけあれば
それでいいとおもう
だいたい かなしいかな
わたしが勉強したいことは
すくなくとも
そういうのとは無縁。
いつもそうだ。
わたしはお金になるからとか
将来有益だからというので
賢く次の行動を決めることがない。
というか 興味をもつことがいつも
一銭にもならない、将来無益なことなのだ笑

だから大学いっても
お金をうしなうわりに
べつになにも これというものは
獲得できない自信がある。
えられるのは自分の満足だけだ。
それなのになんで独学でなく大学かと
いわれたときに自分でもわからない。

学生だと 
いくら毒にも薬にもならねえ勉強してても
いじいじ本読んでても
部屋でひとりで本読んで
へーとかほーとか言ってても
学生だからとうぜんだ、と
ゆるされるような気がするから
だろうか笑

わからん・・・
大学を卒業しなかったことへの
後悔があるのかもしれないし。

どうなんだろう 
でも・・・

なぜ大学に自分が行きたいのかが
考えたらわかるか 
それともわからないかに
関係なく
体調にも関係なく
大学行きたいんだよな~
だからやっぱり
行ってみないと
心の整理もつかないだろうな。

通信制大学の科目履修生に
とりあえず なるか。
そして同時進行で
いちばんやってみたい学問の
通信講座があるようなので
それを1年間うけてみるか。
その講座の専門性が
いかほどのものかさえ
いまのわたしにはよくわからないのだが。
なにせやったことがないんだから。

もしまた体を壊したり
自分の頭が悪すぎて
ぜんぜんできないとわかったとしても
いつでもやめていいのだし
自分のお金だから
だれにもめいわくはかからないからな・・・

いやー わからんね。
そもそも大学とはいったいなんなのだ笑。
なぜわたしをこんなにまどわせるのだ笑