BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

朝はやる気とか出さない-181112。

寝付きにくい日が、
またすこし増えてきた。
今朝、いつもよりもはやい
電車に乗ったら、ひどく混んでいて
気もちが悪くなったついでに
ごぶさた!元気してた?とばかりに
みじかいフラッシュバックに
襲撃された。
駅のホームでしくしく泣いて
ひとしきりすわりこみ
けっきょく出社がぎりぎりに。
つまんないとこで急にやる気だして
いつもとちがうことしたり
がんばったりするのよくない。
とくに朝はダメだ笑


やっぱり油断はいけない。
まだこういうことがある。
ねんのためちかぢか
眠れる薬をだしてもらいに
また病院にいく


そんなこともたまにはありつつ
でも、おおむねすごく元気だ。
毎日、ひとり暮らしの
いろんなことを
おもしろがっている。
いろいろなものが足りてないけど
そんななかでとりあえず生活してみて
ほんとに必要なものがわかることも
おおい。
やっぱりここにマットが必要だ、とか
「じゃまになる」と友だちは言ってたけど
やっぱりダイニングに
ワゴンがほしいなあとか。

まだまだ家は家らしくなってない
今週末ついにネットがつながる。
パソコンがつかえれば
ネット通販でいろいろ
そろえられるようになる。
12月前半までになんとか
家を家らしくしたい



活字が、すこしまえよりもだいぶ
頭にはいってくるようになり
本の内容を理解しようという
きもちがちゃんとわいてきて、
おもしろいものは
おもしろいと感じるようになった


上原善広
内田樹
佐藤優
ハイデガー
織田作之助
坂口安吾
本田靖春
吉村昭
大岡昇平
高橋和巳
中上健次
アクイナス
ハンナ・アーレント
ボルヘス
シーラッハ
ウンベルト・エーコ

クセがあって
場合によっては嫌われてて
でもアツくて
なんかざらざらしてて
表現がじつにビビッドでカラフル
勇気とやる気いっぱい
それにとってもじゃないが
ついていけないような切れ者ぞろい
ほぼわけわからんが
読んでいてたのしい


ながいとすぐ疲れちゃうけど。


活字との関係が修復できてきたのは
うれしい。
本がぜんぜん読めなくなってこっち
友だちを失うかもというときのような
不安感になやまされた。
自分が相手に悪いことをしたなら
しかたないともおもえるだろうが
なにもしてない
ただ弱ってただけだ笑


本があれば
歩いていける。そんな気がする

アルスラーン戦記10巻-181011。

アルスラーン戦記
(荒川弘コミカライズ版)の
10巻がでてた。

kc.kodansha.co.jp


クバードメルレインのところ
とてもたのしかった。
クバードがでてきてくれると
ほっと息がつける。

ヒルメスが成長していくようすが
原作よりもわかりやすいかたちで
描かれていると感じた。

ヒルメスにはヒルメス
ああでなくては生きてこられなかった
深い事情があり
彼なりにいつだって真剣だ。

ただ・・・
ヒルメスはもう大人であり
性格のせいもあり
かんじんの成長の速度は
アルスラーンよりもおそく、
程度も小さい。

というか いまおもったのだが
おなじ成長でも、その方向が
ヒルメスアルスラーンとでは
真逆だ。

ヒルメスは内へ過去へと掘り進み
アルスラーンは外へ未来へとひらいていく

ヒルメスアルスラーン
パルスの王位継承権を主張する者、
という立場はおなじで
それが彼らのありかたの
重大な基礎になっていること
彼らの成長の動機付けに
深くからんでいることもおなじ。
それにどちらも
それぞれのわけがあって
立場が磐石とはいえず
戦って奪い取らないことには
王位につくことがむずかしい。
自分の立場をよりよくするのに
どちらも味方を求めている
味方を納得させるためには
王の器たるものとして
きのうより今日、去年よりいま
立派でなくちゃならない
よくなっている、よくなっていく、
自分は正しいと証明し
成長しつづけなくちゃいけない。

ヒルメスの成長は
ヒルメスが成長したいときに
彼のためだけに、起こる。
アルスラーンのそれは
アルスラーンが成長したいときに
起こるのではないが
自分のためでなく
今このときのためでもなく
人のため国のためにこそ
大きくなっていく

ヒルメスがだいじなのは
王になってなにをするかじゃない。
王位を簒奪された父のうらみをはらし
自分の顔に消えない傷あとをのこした
アンドラゴラス陣営への復讐をちかう
アンドラゴラスやその息子アルスラーン
王位にあるのはまちがいであり、
正しいかたちにもどすこと
自分こそ正統の次期国王と
みんなにみとめさせること、
それがどんなことよりだいじだ。
父を殺したアンドラゴラス
ぜったいに許すことができないから。
そのために必要とおもえばこそ
かたくななところをすこしはゆるめ
ふつうならくさいものにフタ、の
自身の深刻なトラウマとも、
勇敢に立ち向かう。
だけどそれはいつも
自分が許せる範囲内で、だ
自分ひとりの努力によってのみ
壁をつきやぶって一歩前に進む。
自分の目がとどき腹のうちがみえる、
ほんの数人の者しか信じない。
ヒルメスの部下たちは
彼に心酔してはいるが
あくまで
ヒルメス殿下のおおせのままに」。
ヒルメス
彼らの力を自分がほしいときに
ほしいぶんしか引き出さない。
そうやって
自分ひとりでできることしか
やらないのがヒルメスだ。
王族のおぼっちゃんだから
みんなが自分のいうことをきくのは
あたりまえなんだろうが
そのわりにまわりを頼ることや
まわりの力を活かすことはしらない。
でもそれでちゃんとやれていると、
ぬかりはないと思い込んでいる。

アルスラーン
国王になってからのことを
いつも考えている。
それにヒルメス
決定的にちがうことがひとつ。
アルスラーンの周囲には
彼よりも優秀で能動的な
部下がたくさんいる。
部下たちは王太子の夢を
かなえていくための
道づくりに助力をおしまない。
アルスラーンのやりたいことを
実現するのに
何千何万の人や莫大なお金が
適切に動く。
アルスラーンには
こんなことが可能だと想像すら
できなかったようなことが
短時間で、効率的に、形になる。
アルスラーンがそれを
受容できるか使いこなせるかに
関係なく、さきに道が作られる。
たぶん
やっぱりこっちじゃなく
あっちに行きたかった、
そうひと言いえば
部下たちは身を粉にし夜を徹しても
道を作りなおしてくれるだろう。
それを考えてアルスラーンは驚く。
でも怖じ気づかない。
これだけやってくれたみんなを
がっかりさせない王にならなくちゃと
結果にみあう成長をしようとする。
それが自分に可能かとか
自分がやりたいかんじの成長かとか
そんなことは考えてない。
日に日におそるべき速度で幅で
ダイナミクスレンジを
おしひろげていく。
アルスラーンは自分のためでなく
自分のために働いてくれる人、
国のためにこそ
限界知らずの成長をとげる。

ヒルメスはどこまでいっても
ヒルメス、なんか変わったな」
ヒルメス、すこし丸くなったな」。
だがアルスラーン
ちょっとみないうちに
「これがほんとにアトロパテネで
ひーひーいってたあの子どもか」
と見違えるほど、変わる。


アルスラーンは、
自分の存在は
自分ひとりのことじゃないと
しっている、という意味で
王の器。

ヒルメスも世が世ならと
いちおうわたしもおもう。
でも
つらかった過去の境遇からくる
つよい猜疑心や攻撃性、
苛烈さ、偏狭さ。
ごくちかくにいる男たちは
彼の孤高に惚れるだろうが
すごく誤解されやすく
敵を作りまくり
不器用でさびしい人物だ。
がんばっているけど
いまのかんじで、しかも相手が
アルスラーンのような男では、
かわいそうだがまにあわない。

耕してもらったから咲いていられる-181110。

晴れて一日じゅう暖かだった。
昼から
職場仲間の女性ばかり5~6人も
育児休暇中の同僚宅にあつまった。
お昼をつくって、みんなで食べた。
(つくったといっても、
わたしは言われたとおり
春巻きをまいただけだけど笑)


いまの勤務先に
この10年間で何回か
でたり入ったりしている。
大学をでて24のときに
はじめて就職したのがこの会社で
以後 転職をするときなどの節目に
つぎの職場がみつかるまで、というので
半年とか1年半とか1年とか
戻っては、バイトさせてもらってきた。
会社のほうもその間に
営業所の統廃合や
人のいれかわりがあり
バイトさせてもらうたび
勤務地は変わったし、
そこで出会う顔ぶれも
いろいろ変わった。
さいしょわたしが就職した
営業所はなくなって、
となりの市の営業所に統合された。
けど、
さいしょから今にいたるまで
どこにいこうとも、
そこにいる人がだれであろうとも、
さいわい
仕事でもそれ以外のときでも
ずっとつきあっていけるような
友人との出会いにめぐまれたし、
この会社であるかぎり
こと職場の人間関係がらみで
つらいことや傷つく目にあうこと
(たぶんわたしがだれかをつらいめに
あわせたりひどく傷つけたりしたことも)
一度としてなかった。
つらいのはむしろいつも
彼らとお別れすること、だった。
わたしは仕事がいつでも
たいへん好きなほうであるし
全人格的にとりくんでしまう
ほうでもある。
一日のうちのながい時間をすごす
場所だけに
だれにとっても「職場の人」との
関係やできごとは
すごくおおきなことだろうが
わたしもそれはおなじだ
わたしはいつも職場の人のことが
たいせつだし愛しもする。
そういうのってあまり
みっともいい心のもちようじゃ
ないんだろうなとおもうが
おもってはいても、
容易に変えられない。

いまの勤務先とのつきあいは
そんなわけでけっこうながく
たくさんの人とかかわったが
ぜったいもういやだとか
おむうような
つらい思いをしたことなんて
一度だってなかった。
ぎゃくに
べつの所で
いろんなことを経験して
傷つき神経がすりきれ
つかれたときに
わたしはこの場所に帰ってきて、
心が救われ、元気をとりもどす。
いまもそうだ。

なんかあんまりうまく説明できてる
自信はないが。

ただ
この会社においてはそうやって
心おだやかに楽にやれるのに
ほかではそれができない、のは
つまり自分に問題があるからだと
考えることももちろんある。
というか
そうなんだろうなとおもう。
本来の、ただひとりのわたしは、
目も当てられない
社会的生活をおくるうえでの
欠陥まみれだ。
未熟で幼稚、あまったれ
腺病質、攻撃的、ムラッケがつよい
神経質でめんどうくさい
うまくやれてると考えるなんて
思い上がりもはなはだしい
できそこないだ。
できているわけがない。
できているように感じるとすれば
それはまわりの人たちが
そう思わせてくれているからだ。

古巣であるいまの職場で
もどるたびに勤務地がかわり
人のうつりかわりがあったと
さきほどのべたが
以前会ったメンバーが
3年後にはひとりもいなくなってた
とかいうのではもちろんなく
まえの同僚がいまも勤続している
というのや
まえにA営業所でいっしょだった人が
B営業所に異動していて
そこにわたしも着任し
再会していっしょに仕事
といったことも、ある

わたしがこの会社に
一度やめたのにまた戻ったり
また出たのにまた戻ったり
そんなことができたのは
そんなことが可能なくらい
いつもどこでも
良好な人間関係をきずき
なんの問題もなくさよならができたのは

ひとえに
さいしょにここに就職したときに
上司だったひとのおかげだ。
彼女がずっと勤続していて
わたしが困ったときなどに
つぎがみつかるまで
バイトをしにこないかと
声をかけてきてくれた
彼女がわたしをそれなりに
つかいものになるように
育て上げてくれた。

きょう遊びに いった育児休暇中の
女性というのがまさにそのひと

わたしとそのひとは同年齢だが
わたしより彼女のほうが
たしか半年~1年はやく入社していた
わたしは仕事のなにもかもを
彼女から教わった。

能力スキルの発達に
すさまじい偏りがあり
できないことのできなさかげんや
苦手意識もいささか病的なレベル、
さらに対人コミュニケーションが
あんまりうまくない
自意識がすごくつよい
わたしみたいなのと
とてもうまくかかわってくれた。
それまでできなかった多くのことを
できるようにしてくれた。
もともとできたことは、見いだして
仕事で活かさせてくれ、
わたしに価値をあたえ、居場所を
つくってくれた。
みんながわたしを受け入れるために、
まず彼女がわたしを受け入れてくれた。

わたしにはできないことが
できるひとだといつもおもう。

わたしと彼女は見た目も性格も
得意分野も
すごくおおくのことが
正反対くらいちがう。
さいしょは彼女はたぶん
わたしのことすごく
扱いに困ったんじゃないかと
おもう。
すごい頑固者で頭でっかちで
いこじになるところが
当時のわたしはいまより
よけいにひどかった。
勝てるわけもないのに
ぶつかってしまうことも
しょっちゅうだった。
それでも、短絡的に
もうこいつはいけないと
決めつけたりあきらめたりしないで
いてくれたのだとおもう。
わたしはなにかあるとすぐ
いやになって相手を勝手に
見かぎったりしてしまうことがあるけど
彼女はそうじゃなかった。
雇ったからにはむだにならないよう
根気よくわたしのつかいみちを
探ってくれ、
みんなのなかに
とけこめるようにしてくれた。

いまは
おたがいになんでも話せて
こまったことがあれば
頼ったり頼られたりする準備がある
そういう友だちになれている。
(9割がた、わたしが頼る側。)

彼女は、わたしが悩むとき
いっしょになって悩んでくれる。

わたしがこの会社で
みんなと関わって働いていくとき
そこになんのさしさわりも
ひっかかりも起こらず
のびのびとしていられるのの
土台の部分には
彼女が力をつくしてくれたことが
ぜったいにあるとおもう。
この会社から外にでたときいつも
自分ひとりのときの無力や
弱さや不足を、欠陥を
骨身にしみておもいしらされる。

でもだからこそ
この会社にずっとは
いちゃいけないんだろうとおもう。
出ていって自分でやれるように
ならなくちゃいけない。

今回が最後だ。と感じる。


わたしはそういうこと
だいじそうなことなにもかも、
理解するのがあきれるほど遅い。
たぶんわたしの同年代の友人たちが
10年まえにとっくにすませてきた
心のなかのいろんなことを、
思考し実行すべきだったことを、
いま、やっている
なのに年齢だけがもう大人であり
それどころかもうすぐ
人生の半分のところにくる
でも過ぎてしまったことは
もうしかたがない。
わたしはとても恥ずかしいけども
もうまわりとくらべるべくもないし
自分は自分ひとりをこれからどう
燃焼させるかを
考えていくしかないんだとおもう


ただ
この同いどしの上司である
彼女のお膳立てなくしては
ありえなかったこととはいえ
わたしみたいなのと
ふつうにこんなに楽しく
つきあってくれる友だちたちが
いることはほんとに幸せだ。
きょうみんなといっしょに
あつまってお昼を食べたり
話したりしていて
ふっとその光景を
自分だけ遠巻きにみているような
感覚におちいり
わたしにこんなことが可能だなんて
ほんとうはありえないんだと
つくづく思った。

わたしはこの友だちたちに
なにひとつ
ほんのささいなことでさえ
してあげられたためしがない。
わたしにそんな力も余裕もない
いつも自分のことで必死、
しかもそれさえすべて的はずれ
いつもむだに疲れてて
おもえばいつだって
つまんないことで
この世のおわりみたいに哀しんでいて
ただただ助けてほしかった
有形無形をとわずとも
なにか人のためになるものを
人に与えることができたっていう
感覚がほとんどない。
なのに
この友だちたちは
ずっと仲良くしてくれている
というか数にいれてくれている。
それが、あらためてかんがえると
ほんとうにわけがわからない。

わたしひとりでは
いま与えられているものの
どれひとつだって獲得できなかった。

いま、すごく幸せだ。
ひとりだけど孤独感に傷つかない
やさしくしてもらえて、
笑顔や思いやりにふれられる。
口をきけば聞いてもらえる。
したことは評価してもらえる。
つまらないことで苦しまないでいられる
死にたいようなつらいきもちに
おしつぶされないでいられる。

庭のおじさまと電車のおじいさん-181109。

おととい、アパートの内庭の
除草作業をしてくださったおじさまは
きのうもきていたみたいだが、
お会いすることはできなかった。


・・・


けさの電車内で、
わたしのまんまえに
座っていらした
90も越えていそう、というかんじの
おじいさんが
からだのまえに立てていた杖を
倒してしまった。
わたしのほうに倒れかかってきたので
キャッチしてそのまま
おじいさんのほうに向け、
手にもたせてあげようとした。
けれど、そのとききづいた。
おじいさんは手の指が
10本中9本までなかった。
左の親指以外は
完全に欠損してつるっとしてるか
ちょっとだけあるが
根元がやや盛り上がってるくらい。
その見た目にびっくりしたことを
隠すことはとうていできなかった。
手がお悪かったんですね・・・、
と とにかく自分がおもったとおりの
ことを言うしかなかった。

「かったいでのうなったよ」。

かったい。

それでもしかしてとおもい
おじいさんのお顔を
まともに見てわかった。
おそらくハンセン病だった。

ハンセン病のじっさいの
もと患者さんと会うの初めてだった。

北條民雄の作品や
石井光太の「蛍の森」(新潮文庫)で
ハンセン病、またはその患者さんを
「カッタイ」と呼ぶシーンが
あったから覚えていた。
(漢字変換すると「癩」が
ちゃんとでてくることに今きづいた)
でも作中での「カッタイ」は
あきらかに蔑称
(身内に感染者がでた家を
「あそこのうちはカッタイ筋」と
陰口をたたいたりする)
それに
あるきまった地域だけでの呼び方と
いうかんじでもあった。

いまもこの言葉があるのか。
それも患者さん本人が
ご自分について
カッタイ、と言うのか・・・

でもわたし、
なにを言えばいいのかと。
なにも「正しいこと」というか
おじいさんにとって失礼じゃない
反応ができる自信はなかった。

「その言葉、本で見たから知ってます」。

「なーんも。
かったいもんがでてくる本かよ」

「でてきます。すごくいい物語
だったとおもってます。」

「俺のツラをあんた怖がらないね」

でもびっくりはした。
きっとびっくりしちゃったこと
ばれただろうなあ。

もうどうしていいか
ぜんぜんなにも
わからなかったから
おじいさんの
指が1本ある左手のほうをとって
倒れてきた杖を
その指にかかるように
もたせてあげた。
おじいさんの手はちいさく震えてた。
ひんやりしていた。

また会うことがあるかなあとおもう。

「マイゲーム・マイライフ」/「青の祓魔師」-181108。

テレビゲームのたぐいを
まったくやらないわたしも

ライムスター宇多丸さんがやってる
「マイゲーム・マイライフ」っていう
ラジオ番組
(TBS、FM90.5、たしか21時から)が
けっこうおもしろい

宇多丸さんが各界のゲーマーを
ゲストにまねいて
ゲームへの愛情やハマってるゲーム、
ゲームありきのライフスタイルを
語り尽くすというトーク番組だ

たぶん
「ゲーム」と
「映画」「アニメ」「音楽」「マンガ」
あたりは、いろんな意味で
すごく仲のいいコンテンツ
なんだろうとおもう
宇多丸さんとゲストたちの
ゲームへの愛情の注ぎかた、
それを語るときの言葉のつかいかたは
なんか映画とか音楽とかについて
人が語るときのそれに似てる
だからわからなくても、わかる。
わたしはゲームはやったことないし
これからもやらなそうだが
あとの4つはぜんぶだいすきだから
「マイゲーム・マイライフ」を
聴いてると
おもしろく感じるんだとおもう。

アサシン・クリード」シリーズの
新作「オデッセイ」がでるのが
宇多丸さんは楽しみで
しょうがないみたいだ
アサシン・クリード
わたしは映画を観た。

york8188.hatenablog.com


だから宇多丸さんが
なにを言っているのか
なんとなくわかった。
アサシン・クリード、ほかの
エピソードの続編やらないかなあ。
いまおもいだしてもけっこう
おもしろい映画だった。


・・・



青の祓魔師
(加藤和恵ジャンプスクエア)
の 最新刊がでてたから
買って読んだ。
「そこまでやっちゃいますか」
と、おっと思わせてくれる
マンガがすきだ。
青の祓魔師」も
そういうところがあるとおもう
獅郎の「弟」の場面とか
なにかぞっとするものがあった。

昔からの友人で
青の祓魔師」の
ファン仲間でもある子に
新刊読んだ?とメールを送ったら
「まだ読んでいない
いま『マギ』を
さいしょから読みなおしてる」
との返事があった
「マギ」(大高忍)も
わたしはおもしろいとおもっている。
完結して、いま作者の大高忍さんは
たしか「オリエント」という
新作の連載を開始している。
まえの職場で
「マギ」のファンブックを作ったとき
職場の人たちにはかなり
つまらないマンガだと、
不評だったおぼえがある。
でも、わたしはおもしろがって
仕事がおわってからもずっと
自分でコミックスを買って読んでた。

「『マギ』知ってるよ、おもしろいよね」
「秋の夜長にマンガだねえ」
と返してみたら
送信ボタンを押したのと
ほぼ同時くらいにむこうからも
メールがきた
「読書の秋だから」。
考えることはいっしょで
しかも芸がないのはおたがいさまだ笑

おじさま/認定-181107。

今朝 部屋をでたとき
アパートのまえに
作業服をきた60代くらいの
おじさまがいた。
これからなにか
仕事をするというかんじだった。
でもなにをするのかは
わからなかった。
このアパートにたいして
なにかをするのか、
このアパートにはなにも用がないが
荷物を置きたかったので
置いただけなのか、
おじさまが立っていた位置や
荷物があった場所からは
なんともあまりよくわからなかった。
いつもご近所のかたと会うと
お名前もなにもわからなくても
とりあえずそうしているように
ごあいさつだけして仕事にでかけた。
おはようございますといったら
おじさまは
ウンみたいな、ンーみたいなことを
口のなかでもぐもぐいって
にっこり笑っていらした。

帰宅してみると、
アパートの外塀の内側に
中身がぱんぱんにつまった、
白のおおきなごみ袋が
何個もおかれていた。
そしてかわりにアパートのまわりの
雑草がすべてのぞかれて
内庭がとてもきれいになっていた。
いま、自分の部屋の掃きだし窓を
あけて庭をみてみたが
庭もきれいに草むしりされていた。


あのおじさまは草むしりを
しにきてくれたんだな・・・
あの時間にもう、うちの前で
仕事の準備をしてたということは
たぶんわたしよりも
たっぷり1時間ははやく起きて
うちにきたんだろうな。
わたし、
庭や部屋のまわりの草むしりは
じぶんでするもんだとおもってた。
古いアパートだし
やってもらえるとおもってなかった。
すごくたすかるなあ・・・
あのおじさま あしたもくるかなあ。
会えたらお礼を言おう。


・・・


極限まで傷つけあった果ての和解
とかっていう話も
家族にはあるようなこともきくが
わたしの場合はないだろうなと
そんなかんじがする。
わたしはそばにいると苦しい。
それが変わることはないだろう。

わたしは親に
「おまえはきちがいだ」
「裏切り者」
といわれたという事実を
頭から消し去ることが
おそらく死ぬまでできない。
傷ついた、というかんじは
ふしぎとあんまりしないが・・・
なかなかふつうに生活してて
聞かれる言葉じゃないから。
異質感がおそらくすごく残ったのと
・・・
それに、たぶん
言われてわたしがどう感じるかを
考えるよゆうもなくあんなことを
言わなきゃいけなかったほど
親にはわたしの言うことすること
なにもかもがあまりに
不可解だったんだろう。
わからなすぎて、
受け入れることが不可能すぎて、
でも根拠はないがとにかく
ぜったいに、ぜったいに
許せなさすぎた。
だからなんでもいいから
徹底的に、決定的に
わたしを傷つけるための
(わたしをあきらめさせる、
あるいは屈従させるための)
言葉はなにかと
(検討するよゆうもなく)
とりあえず言っちゃった
というかんじだった。
そうわたしなりに理解している。


あなたはわたしを
きちがいだといい、
裏切り者だといった、
だからわたしは
あなたを許さない、
・・・
そんなふうにはわたしは思わない。
まあああいうこと言っちゃった、って
いうとき、人にはあるもんだとおもう
許さないとか、そんなつよいことは
思わない。
言ってくれてよかったとも
べつに思わないが。

だが
わたしのことを
ああまでののしった人と
あのように醜くぶざまに
わたしへの憎しみをあらわにした人と
わたしにあれほどまでに
暴力をふるった人と
どのつらさげてこれから
関わればいいというのか、
それがちょっと見当もつかない。
むこうもわかんないんじゃないかな。
わたしの選択はまちがっていたと
考えているんだろうし
きちがいなんて言ってごめんなさいも
ないだろうし。
むこうのそのかんじが
すごくよくわかるから
現実的じゃないとおもう
和解とかそういうのは。
他人だったら
ひきずられたって二度と会わない。
そう考えたところでだれもわたしを
責めないだろう
あの人がわたしにたいして
あんなふうになったことの
原因の一端がわたしにあったとしても
他人なら問題外だ
なのに血のつながりがあるというだけで
そこに親の情があったかもしれない
という話がまず入ってきて
なぜだかまた会う可能性が
ふつうにこうして論じられてしまう
そのわけもわたしには
自分で言っといてなんだが
わからない


でもいろんな事情、
いろんな人間関係が
世の中あるもんだとおもうしかない
壊れてしまった、
なくなってしまった人間関係も、
人間関係であることに
かわりはない


ただはっきりわかるのは
もう会いたくない
いまを失いたくない


わたしは
きちがいとか裏切り者とかじゃなく
どうせなら
「おまえのことはもうあきらめた」
「おまえなどどこぞで野垂れ死ね」
と言ってほしかった。

裏切り者のほうはまあいいとして
きちがい、のほうはなあ~
こっちのほうが
わたし気になっているみたいだ

わたしのようななまけものには
危険な言葉だ
きちがいなんじゃないかなとは
ふだんから自分でも
けっこう思ってて
これは
自分はどうせみんなとちがって
あたまがおかしいんだから
みんなできることが
自分はできないけど
いいんだ、という
なまけ心につながりやすい

親にきちがい認定されたら
ますます
よかったやっぱりきちがいなんだ
と わたしのような者は安心して
しまわないだろうか笑


まあいいんだけど。

自分はされても人にはしない。/古書店。-181106。

たとえ自分が
どんなに傷つこうとも
自分がされて傷ついたのと
おなじことを、人にはしない。
そう決めて実行したとて
それがなんになる、
だれが気づいてくれるでもない
自分の社会的評価が
あがることもない
たしかにそうだが、
でもしない。
しないように気をつける。
うっかりでも、無意識でも
しないように。
それと、おのれの立場をわきまえる。
つい忘れそうになるが
口はかたくつぐむ。
できるだけだまって
頭と手だけをただしく動かす。


・・・


神田の古本街のイベントに
出店するとかで
先週1週間閉まっていた
駅前の古書店が、
今週からまたあいている。
きょう帰りに寄ってきた
外のワゴンにこのまえはあった
中上健次の「岬」と「讃歌」の
初版本が、きょうはもうなかった
やっぱ神田で売れちゃったのかも
わたしがほしいと
おもったくらいなのだから。

でも初版本じゃないにせよ
中上健次作品が店内に充実してた。
ご主人がすきなのかもしれない。
また、ヨーロッパ史阿部謹也
本もあちこちにいっぱい置かれてた。
ハーメルンの笛吹き男」を
読んで以来
すっかり阿部謹也
だいすきになっている。
「中世の窓から」の
初版ハードカバーが
すごく安かった
おなじものがちくま文庫ででてるが
新品で買ったら
価格は軽くこの4倍する。
買っちゃいたい。

このところ
本を読むことや
音楽を聴くことが
まえまでそうだったように
またたのしくなってきた。


・・・


まだ心はすっかり落ち着いたとはいえず
波の激しいうきしずみにのまれて
つよい苦痛をかんじるときもある。
だけど、心おだやかに
ずっといられた日や
比較的ちゃんと眠れてきもちよく
起きられた朝は
とてもよい気分だ。
すなおなきもちでそれを
味わうことができる。
すごくイヤな夢やフラッシュバックに
ギッタギタにされても、
正気にかえったとき
くそくらえ、ではなく
よかった夢だった、
よかった現実ではなかった
もうイヤなことは終わってる、
ここは安全だから大丈夫、
そう考えて
比較的すみやかに
気持ちをおちつける
ことができる。

そんなきもちもつかの間のもので、
またつらいことが
ぶり返すんだろうけど
そのことをまえほどには
嘆かずにいられる。
落ちても
もどってこられることが
わかってきた。
今このときは安全であり
傷つくこともないと
信頼できる。