BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『パンク侍、斬られて候』-180709。

※ねたばれはしていないつもりですが 内容には触れています。

先日、『万引き家族』を観るつもりが気が変わり、
パンク侍、斬られて候』を観た。
石井岳龍監督
2018年、日本

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監督の石井岳龍という人を存じ上げなかったが
以前は「石井聰亙」名義だったそうだ。
石井聰亙なら知っている。
『エレクトリックドラゴン80,000V』や
五条霊戦記』『ユメノ銀河』の監督だ。

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そうとわかったうえで考えてみれば
浅野忠信永瀬正敏綾野剛も 
このかたの監督作品で おなじみの顔ぶれだ。

・・・

本作は
賛否が極端に分かれそうだ。
わたしは賛。

心からたのしんで観た。
役者さんたち、開放的な表情だった。
脇役のなかには、演技経験のあさそうな人もたくさんいた。
あとで調べたところによれば
本職はファッションモデル、などのような。
そんなかたがたも、
きっとほかの監督の、ほかの作品であったなら
このような表情を見せてはくれなかったのだろうとおもわされる・・・
通常なら出ない領域の力まで引き出されているかのような・・・
そういう かなり何か・・・
役者としてだいじなところを超えた
開けたかんじの演技をしていた。
声とアクションが でかかっただけかもしれないけど笑。
現場の雰囲気、ベテランの役者さんたちの
(浅野忠信なんかはもうフリーダムすぎだ。)
サポートのたまものだろう。
だれもがのびのびと演じていたとおもう。

主演の綾野剛も、
わたしなどが言うまでもなくうまい役者さんだし、
とてもよくやっていた。だがまあ、本作ばかりは・・・。
いや、この人がまずかったのでは、けっしてない。
共演者が共演者であるので・・・。
具体的には 豊川悦司浅野忠信
完全に食われるどころか はらわたを引きずりだされ
骨までしゃぶりつくされるありさまであった。

やすっぽくムリのあるCG演出や、
凝りも凝ったり浮きまくりの衣装デザイン、
とってつけたように存在が不自然な舞台装置
どこもかしこも しょうもない映画だが、
もう、そんなのネタ、ツッコまれるところまでおりこみずみとしか。

原作をよく咀嚼している人が、
相当うまく脚本にした印象。
時間内におさめるためには原作中のシーンやセリフを
すべてうつしとるわけにはもちろんいかず
うまく取捨選択、エピソードの配置順を入れ替えるなど
する必要があったはずだ。それをかなり成功させていた。
おおくの制約のなか、原作のエッセンスを確信的にとらえ、
まじめに映像化していた。

本作でいちばんわたしが好きだったセリフは
「次は『お豆ぴょんぴょこぴょん』だ。」笑。
何としても吹き出してしまわないように、
二度とテイクを重ねずにすむように
あごや肩にギリギリと力を入れ 
死に物狂いでポーカーフェイスを
保っているのが痛いほど伝わり 
染谷将太に深く同情した。
まだお若いのにこの人も優秀だ。
ぶっとんだ演技を、造作もないという顔でやってのける。
濱田岳とかを見ていても同じような感想をいだくが。
本作の染谷将太は、ほぼ全編にわたり、ふんどし一丁。

北川景子さんは女神のようだった。
欲をいえばもうちょっと本気で踊ってほしかったが
まあ あんなものかもしれない。

・・・

映画そのものについては、全体的な感想とかは、言えない。
この映画について的確に語るための言葉を、わたしは持たない。
これだけ書いておいてなんだが、
説明できるとおもって書いてはいない。
お知りになりたければ、
1800円払って観ればいいじゃない。としか笑。

でも、原作についてならば、すこしは語れる。

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原作のすごいところは、「文学」である、という点にある。
見た目はエンタメ。おふざけ。
おさるの軍団と人間の大バトル、
あやしすぎるカルト集団「腹ふり党」・・・
マジメに理解しようとするのもばかばかしい
「荒唐無稽」をたっぷり詰め込んだ娯楽小説だ。
でも、
目を細めてすかしたり近づけたり遠ざけたりすると、わかる。
わたしたちが生きる社会、
人の恥ずかしさ、ずるさ、愚かさをたくみに風刺した
真摯な文学作品だ、ということが。

作者の表現力は 卓越の境地にある。
基本的には 
「おもいついたことぜーんぶ書いちゃうもんね!」
というかんじの 言葉の垂れ流し、
ぷんぷんの肥溜めみたいなのだが、
その実、いたってまじめに書かれている。
ゆるみきった文体、言葉の決壊状態が
たまにピリッと引きしまるのだ。

たとえば主人公と刺客のバトルシーン。
「おほほ。あなたに拙者が斬れるかな。というかこちらからいくよ。
『悪酔いプーさん、くだまいてポン』かなんか知らんが、じゃあ
これはどう?僕の秘剣、『受付嬢、すっぴんあぐら』を受けてみよ」
<中略>
「ううむ。まじできるな、お主。それでは今度は俺の秘剣、
『蜜蜂ハッチの目って狂気だよね』を受けてみよ」
「メルヘンで攻めてくるな、君は。こいっ。」
・・・
いちおう江戸時代を舞台とする物語で・・・
こんな会話表現がえんえんとつづく。

なんつうものを読ませてけつかるのだ、と
愛想がつきはてるかとおもいきや

きゅうに
「誰もなにも言わなかった。
土間に湿気がたちこめていた。
掛は頬に汗が流れるのを感じた。
内藤は焦げ臭い匂いを感じていた。
外から樹が風に揺れる音が聞こえてきた。」
・・・などと すらすらと書かれれば、 
どうしたって
太宰治の魚服記とかを 思い出さずにはいられない。

「違うんだよ。
奴らはそれが合理的だから信じるんじゃないんだよ。
奴らは自分が信じたいことを信じてるんだよ。
お前ら全員アホだから死ぬまで無給で働け、と言ったら信じないよ。
おまえらはそもそも楽して生きるべきでそれができないのは
世の中が間違ってるからだ、って言ったから信じたんだよ。」
このように言われたら、なにかびびっと、心に痛みがはしる。

「・・・言葉の世界は言葉によって派生したものによって
もうひとつの世界と串刺しにされていると言うことだ。
変な関係だよね。」
「根源にかかわる問題をきちんと解決しないとどうにもならない。
でもあいつらは当面の問題の処理にばかり終始しているんだ」
などと しれっと言われようものなら、 
え、なになに・・・どうした?
いつからこんな話になっていた??と 
くやしいながら数ページさかのぼって
まじめに読まなくちゃ。というかんじになるではないか。

物語ることによって人の世の一面の真実を切り出す
そういうありかたはつまりまさしく文学だから、
パンク侍は確実に 文学作品であるとおもうのだ。
言葉の扱いかたと選びかた、描きかたにも
もうむしろそんじょそこらの「文学」作品に
あんまり見いだせないくらいの 執念、感性を
わたしは感じるので、その点でまさしく文芸だ。
だから町田康を読むのを、わたしはやめることができない。

まあでも 町田康の作品に触れるのに
いきなりパンク侍となると
それでいやになって一生読まなくなる人もいるかも。
それはもったいない。となるとパンク侍を読むのは、
たとえば「告白」(中公文庫)など、
(少し)かっちりしたものを読んでからでもいいのかも。

告白|文庫|中央公論新社

 

いとこの3きょうだいと、わたし自身のきょうだいと、母-180708。

内田樹さんが ご自身のサイトで、

内田樹の研究室


「死刑の存否について、『どちらか』に与して、
断定的に語る人を私はどうしても信用することができない。
死刑は人類の歴史が始まってからずっと
人間に取り憑いている「難問」だからである。」

「『答えを求めていつまでも居心地の悪い思いをしている』方が、
『答えを得てすっきりする』よりも、
知性的にも、感情的にも生産的であるような問いが
存在するのである。」

と書いておいでなのを読み、
自分としては深く共鳴した。
ずっと考えていていいんだ、
どっちだかどうしてもはっきり決められない、
というきもちでいてもいいんだと思えた。
考える時間ができた気がして、ほっとしたのだろう。

・・・

叔父の長女(わたしのいとこ)が 
この夏、結婚するので
母と兄、わたしの分のお祝いをわたすため、
叔父宅をたずねた。

長女は精神科の看護師さんだ。
もとは、母(わたしにとっての義理の叔母)が
ひどいアレルギー体質に悩んできたのをみて
看護師をこころざしたという できたお嬢さんだ。
ひょうひょうとして、からっとした性格。
だれにもわけへだてなく接するのですごく周囲にしたわれ
友だちが多い。
でも、繊細なところもある。
後述する次女は、楚々とした美少女といったルックスとはうらはらに
案外さばさばして 自分の感情の処理がうまい。
つらいときにはウワーっと泣いて 思いっきり愚痴って
おいしいものを食べて、ぐっすり寝て、
・・・翌日にはけろっとしている。
それにたいし、長女はストレスをためやすい。
つらいことがあっても なかなか人を頼るといったことができず
胸のうちにためこんでしまう。泣くこともできない。
女の子であるので そうしたところが体調にも出て、
思春期のころから、まいってしまっているところをたびたびみてきた。
しかし、ひとりでどんどん海外旅行にいったり 
(韓国、台湾とかいった近場だけでなく ポーランド、エジプト、
チベットフィンランド、アフリカなど ちょっと行くのが
大変そうなところにも、ひとりで行く。)
クーポン雑誌を片手に食べ歩きをしたりする趣味もあり、
快活ないい子だ。
勉強が大変な看護大学、激務の看護師とずっと忙しく、
あんまり 浮いた話をきかなかったが、
このたびとてもすてきなかたと出会ったそうで、
とんとん拍子に話がまとまった。

わたしは彼女が生まれたばかりのときからしっている。
赤ちゃんのころは、おねむになると人の耳たぶをつまんで
「シンドーサンなっちゃった」との 謎の言葉を発し
眠いということをアピールするという 奇妙な習慣があった。
わたしはそれがあまりにもおもしろくて、当初
叔母に「シンド―サンて何!!!」と何度もきいたのだが
叔母も当然わからないので
「わからないんだけど、この子は
眠くなるといつもこういうのよ」と言っていた。
(のちに、これを叔母に話したところ
「あなたも8歳か9歳そこらだったのに
なんでそんなことを覚えているのか」と驚かれた。
なんでといわれてもこまる。)
うちに遊びに来ると、いつもわたしの部屋にやってきて
わたしのひざの上にすわり、いっしょに机にむかって
絵をかいたり本をよんだりしてすごした。
のちに妹ができたので、ひざに乗ってくる子ももうひとり増えた。
わたしが中学3年生のころ、彼女とふたりきりのときに、
「おねえちゃんには、お父さんいないの」と尋ねられ、
どう答えたものか苦慮したことを覚えている。
「おとうさんとお母さんの仲がわるくなって一緒に住めなくなり、
おとうさんは別のところにいるんだよ」と
普通に話したのかなとおもうが。
大人になった彼女は、いまは他県で婚約者といっしょにくらし、
県内の精神科病院で毎日いそがしく働いている。
実家に帰ってくるのは原則年1回、10月だけだという。

叔父の24歳の次女が 今日はさいわい在宅。
いろいろな話をすることができた。
彼女は
このくらいの年ごろの女の子が
まず読むかどうかとおもわれるような本を読む。
(菊池寛山本周五郎スタインベックヘンリー・ジェイムズ)
50歳代以降のおじさまおばさまとかが好むんじゃないかなと
おもわれるような・・・映画やテレビドラマを好んで観る。
(「ダーティー・ハリー」シリーズ、タル・ベーラ
名探偵ポワロ」テレビシリーズなど)
中2くらいの子が好きそうな音楽を聴く。
(ワンオク、RADWIMPSケツメイシBUMP OF CHICKEN)
お人形さんみたいに端正な顔立ちの、
すごく聡明な、かわいい子だ。
親を気遣い こまごまと家庭のために立ち働く、できた子でもある。
食事のあとにはちゃんとお茶をいれて みんなに配る。
夜になれば叔父や叔母のために ふとんをととのえる。
叱られるからとか 家族のなかで立場を保持できないからとか
そういうことで しているんじゃない。
彼女にとってはこれがあたりまえ。
彼女は両親にときに スパッとキレのある悪態をつくこともある。

叔父は3人の子のなかでも
彼女をとてもかわいがっているとおもう。
そりゃこれだけいい子でキャラが立ってて美人さんなら
ひいきもするもんだろう。

わたしは彼女とは話がとても合うから
何時間でもしゃべっていられる。
謙虚で賢く、思いやりのある彼女からは
おそわることがとてもおおい。

彼女の弟である22歳の末っ子は
叔父の母校である大学にはいったが
2回の留年ののちに勝手に中退してしまい
いまは映像制作の専門学校にかよっている。
でも、次女や叔父は、
彼がそっち系の分野に関心があるとは ぜんぜんおもえないという。
かといって これというような趣味もなく、
うちこめるようなものもなく、
この子は、いまひとつ何を考えているのか わからない。
次女も叔父も、彼を心配している。
厳格な父に叱られることがこわいらしく
おりいって相談などをもちかけることもない。
できるだけ叔父と顔をあわせないですむようにということなのか
とにかく基本的に部屋にこもっていて でてこない。
夜遅く帰ってきて、明け方まで自室でゲームなどをし
みんなが仕事などで家を出払ったころにおきだして
いつのまにか出かけ、学校にいっているのかバイトなのか・・・

でも おのれをないがしろにするような
乱れた生活をおくったり へんな行動をとるようすもない。

次女が、帰りが遅くなったとき、在宅の弟に
「駅まで迎えにきて」と頼めば、
イヤな顔ひとつせず迎えにいく。

一時、次女が、いつもとおる道のとちゅうで 
知らない男に連日まちぶせされ、尾行される不穏なできごとがあった。
このときは、彼女の毎朝の通勤に際し、末っ子が駅まで同行した。
次女が家を出発するのは毎朝6時半。
末っ子にとっては いつもの自分の生活リズムとかけ離れた
かなりきつい時間帯だったはずなのだが、
彼はこれにも 不平一つこぼさず、寝坊もせずに2週間つきあった。
(まちぶせ男は 数日後に、いなくなったそうだ。)

次女が、怪談話を聞いちゃって怖くなったから
きょうは一緒に寝て!とたのめば、
「考えとく」と返事をする笑。

まあ、こういうのを、
「姉思いのやさしい弟だ」とか単純に言えるかどうかは
人によって意見がわかれるところだろう。
単に 頼まれて、イヤじゃなければやる、というだけのこと
というか
彼の行動に、いちいち理由なんかは ないのかもしれない。
人の行動に、いちいち理由なんか求めてもしかたがないことが多いし。

だが、わるくない気性のもちぬしだ。ふつうにいいやつだ。
クスリも酒もタバコもやらない。
ふにゃふにゃしているだけだ。

この3人きょうだいはそもそも 
全員20代のいい大人でもけっこう仲が良く、
そろってディズニーランドにいったりもしているらしい。

もうずっと前のことだが 
やはりわたしが叔父宅をおとずれたときのこと、
当時 中学生~高校生あたりだったこの3人きょうだいが
わたしのもってきたケーキを 
大人とべつのテーブルにすわらされて
おとなしく たべていたのだが・・・
なにを話していたのかしらないが 突然
3人そろって爆笑しだした。

その光景がわたしにはきわめて新鮮だった。
わたしども きょうだいには、こういうことは起こらない。
きょうだいどうしにしかわからない 何か楽しいことを話して、
そろってゲラゲラ笑う・・・なんてこと、
わたしは 自分のきょうだいとしたためしがない。

わたしの所属する家庭ではそうしたことが発生する余地がなかったし、
(子どもは大人のじゃまをせず静かにしているもの。
きょうだい間の会話などは原則つつしむもの。)
もし仮に起こったとしても、
異常事態として見とがめられたとさえ考えられる。
いやいや、真実はたぶんそんなことはなかった。
つまり きょうだいと話したければ別に、話してもよかったし
笑ったら叱られるなんてこともまさかなかったとはおもう。
だがしかし、
そんなことが起こりうる、あるいは許される空気の家庭ではなかったと
わたしが認識している、ということだ。

ところで、
きょう、叔父宅でみんなで話していたとき、
ずっと自分の部屋にこもっていた末っ子が 
のそっと居間に はいってきた。
「新聞・・・(は ないかな?)」と聞いてきた。
叔父が夕刊をさしだすと、
そいつを丸め、しずかに台所へ。
流しの食器入れを裏返して、何かやっている。
叔父がようすをみにいくと
「さっき下に(Gがはいっていったみたい)。」

別に誰に何をいわれたわけでもないのに
発見したから、自分で退治しようとして、
もくもくと作業をしていたのだ。

叔父は
「(駆除剤を置いてあるんだけど)古いのかな・・・」
と つぶやき
新しいG駆除剤をもってきて 開封していた。

それをみて、
ああこういうのが なんというか
家族として正常に機能するっていうことなんだろうな、と。

叔父は父親として、
しっかり者の長女や 聡明な次女からすると、 
ちょっとふにゃふにゃしているように見える、この末っ子を
心配していると思う。
言いたいことは山ほどあるだろう。
たまに遊びにくる程度のわたしには到底わからない
父子のいろんな心の葛藤がある、と想像している。

でも、末っ子がふにゃふにゃしていても、
叔父はけっして彼をあたまから否定しない。
〇〇をすればふにゃふにゃしなくなるに違いない、
などと自分の意見を押し付けて ムリヤリ何かをさせ、
本人の意思の発露を、制限することもない。
彼が自分でいつか決めるのを、待っている。
当人がどうおもっているかはわからないにせよ、
叔父のほうは、末っ子の状況がどんなであっても
末っ子が家庭内において居場所を保つことを承認している。
末っ子が「G退治」という、家族の運営に関する作業をはじめれば、
G駆除剤をもってきて、その作業に参加するという行動によって、
おれはおまえのやっていること、居場所を承認しているぞと
ちゃんと知らせるのが 叔父だ。

そういうのが、この家族にはちゃんとある。

なにかをしなければ居場所が保持できないとか
そういうふうに 家で思いたくはない。
家の外では、そういうこともあるとおもうけど。

だが、家で思わなくてはならなかった。それは かなしい。

生育環境を憎悪しない。
いろいろわかったとしても
どうにかできたような頭のいい子どもではなかった。
惰弱な子どもであった。
らくなほうを選択したのは わたしだった。
あとあとになって動きづらくなると察知できる頭はなかった。

居場所を確保させてくれたのは 叔父夫妻。
わるいとはおもうが わたしは自分の母のもとではなく
叔父夫妻のもとで それをはぐくんだ。
わるいとはおもうが、という意識、
でもこの人たちは自分の家族ではない、という意識、
ほんとうは母にこそ受け入れてほしい、という気持ち、
それらがあったから叔父夫妻のもとでさえ はんぱにしか
居場所をつくれなかったけど。

母は傷ついたかもしれない。でも奪わなかった。行くなとは言わなかった。
わたしを正常に愛せないことにおそらく悩んでいて、
でも正常に愛そうとすると苦しくて、ときには逃げたかっただろう。
わたしが叔父夫妻のところにいるあいだは
単純に、わたしと向き合わずにすむので、
助かっていた部分もあったのかもしれない。
でも、
わたしがもし人の親で 同じ立場なら、
母のようにできたかはわからない。
だからその点でやはり深く感謝している。

陣取り合戦。-180707。



・・・


自分の人生は
自分自身のものではないのかもしれない。
棄てたも同然のやりかたを
わたしはしようとしているのかもしれない。

自分の人生の主人公になれ、と
わたしに言った人がいたが、
自分には 荷が重い。
荷が重い・・・いや、どうだろう
自分でそれを持ちたくない?というかんじだろうか?
荷が重い、は 重いながらもいったんは自分で
持ち上げてみて、そして重かったと
感じてから言うことだろうから、
適切ではないようなかんじがしてきた。
わたしの場合
たぶん、持ってない。自分で自分の人生を。
棄ててしまおうとしているかもしれない。

わたしに主体性とかいったものはなく、
希望も展望も意欲も正直言うとほとんどない。
まえはいまよりはすこしは
あったかもしれないが、
または、あるとおもいこんでいたかもしれないが、
今はもううしなわれている。
あるいは、ないと 自覚している。

こうして人のなかで生きていると、
陣取り合戦だなとおもう。
既得の立場とか地位とか持ち物を守らなくちゃならない。
より息がしやすい場所を確保するために
おたがいをおしのけてすこしでも上にいこうとする。
より身動きがとりやすくなるように
両腕をふりまわし腰をおとし、ヒザにぐっと力をこめ
自分の立っている場所を死守しようとする。
そういうふうにみんな、ちゃんとやっている。
でも自分はやっていないという気がする。

わたしのように意欲や覇気に欠ける人間が
なんの力もなく頭もわるい人間が
おっかなびっくり
でも 僭越ながら自分にも自分の人生がありますし~
・・・とか
小声でつぶやいてみたところで、
なんとみっともないことだろう。
かといって じゃあもっと大きな声で
皆に聞こえるように言ってみよう
そうしたらだれかが聞いてくれるかもしれない
とも あまり思っていないふしがあり
始末におえない。
大きな声をだしている自分をみたくないのだ。
そして信じていないくせに信じている。
やさしい人やよゆうのある人がいるかもしれない。
そういう人が自分をたすけてくれるかもしれない。
よゆうのある人ならおこぼれをくれるかもしれない。
余剰人員でももしかしたら運よく
自分の居場所を主張する権利が
あたえられるかもしれない。
そんなふうに。
すごく傲慢で、利己的であると思う。

自分の力でやる気がないのに 息だけはして、
二酸化炭素を排出しているだけ、
ほかの人のめいわくではないだろうか。
みんないっしょうけんめいやっている。
きれいな空気は、ちゃんとやっている人のものだ。
わたしはとてもみっともない、
さもしい人間だ。

大雨/死刑執行がなされたことについて。-180706。

ゆうべは地元でも、かなり雨がふった。

夕方、2時間ばかり、雨が弱まった。
これなら大丈夫だろうとおもった。
涼しいし、運動不足の解消のために・・・と
出先から自宅まで3駅分(約8キロ)を
歩いて帰ることにした。
しかし、2駅分くらい歩いたところで、
雨が急に激しくなってきた。
駅のすぐ近くであったので、
もう1駅分 歩くのはやめておこう、
雨がもっと降るとまずいからとおもい、電車に乗った。
案の定というかなんというか、最寄り駅で降りてみると、
滝のような降り方となっていた。
駅から自宅までの徒歩15分で、
カサをちゃんとさしていたにもかかわらず
全身ぬれねずみのようになった。
空からカサにたたきつけてくる雨の音がものすごくて、
ただの雨なのだが、なにか
「歩くのをやめたい、これ以上動きたくない」
というような
心底おじけづいたきもちになった。
電車に乗ってしまってよかったとおもった。
もし、あと1駅歩いたとすると
晴れているときで30分くらいの道のりだが、
これでは、とても歩きとおせなかったような気がする。
歩かなくちゃ帰宅できないことはわかるのだが・・・

なにか、足がすくむかんじ。

ただ、買いかえたばかりの新しいレインシューズを
はいていたのは、いまかんがえると
よかったような気がする。
心強かった。
夜道で足元が見えづらく、
ちょっとぎょっとするほど深い水たまりに
何度かはまったのだが、それでも水がしみてこなくて。
ちゃんとした装備、という いちるの安心感が、
自宅まで歩きとおす気力にかわってくれたようにおもう。
買い替え前の、中敷きなどがぼろぼろで
どこからか水がしみてくるようになっていた
古いレインシューズであったなら、
もうすこし早めに心が折れて
しゃがみこんでしまったかもしれない。

集中豪雨の被害のさなかにある地域のかたがたに
おみまいをもうしあげる。
正常バイアスという心の作用があるはずなので
「そうはいってもまさか」「うちにかぎって」という
お気持ちになることは もちろんあるのだろう。
だが、そこは、
変な言い方ではあるが、だまされたとおもって
気象庁や行政のアナウンスをよく確認し
なんとしても御身の安全を確保すべく
行動していただきたいとねがう。
大丈夫だったね、で おわれば、それでいいのだから。

・・・

死刑を執行した日にちについて
「なにもいまこんな時期でなくても」
といった意味の発言をした著名人がいたと、きいた。

「死刑を執行する日をいつにするか考える」
作業が、この世に存在する という事実について
これまで、まともに考えたことがなかった。
「今じゃなくてもよかったのに、
そういう発想がありえるのか。」と
はっとさせられた。

でも
「本日はお日柄もよく貴殿の刑執行におあつらえむき」
な日、とかいうのも、あるわけがない。

わが国は、「こっちのつごう」で、
他人を死なせる日にちを決められる。
なんとなれば その人が自分のつごうで
他人を死なせる日を決める罪をおかしたのだから。
ということなのだ。

それだけのことをしたのだから、それだけの目にあって当然
という考えかたは、わかる。わからないことはない。
でも
あなたは死んで償えといわれてもしかたのない
ことをしたけれども、
それでもわれわれはあなたの命を奪わない。
から始まる罰というのは、たとえば・・・、
あってはいけないのか。

このことについてどう考えればいい。
死刑についてどう考えればいいのだろう。

わたしは
宅間守の死刑が執行されたとき
加藤智大の死刑が確定したとき
それでいい、とおもった。この人物をゆるせないからと。
でも、いまは
それでいい、ってなんだ。ゆるせない、ってなんだ。
なぜそれでいい、のか。他人ではないか。
犯人と会ったことも話したこともない。
なにもしていない。されていない。
ゆるせないなどと、被害者や犠牲者や
そのご遺族のようなことを なぜ自分がおもうのか。

正しいことを言おうとおもえば言える。
でも、正直にいえば、
わたしは宅間守を、加藤智大をゆるしている。
彼らのしたことは間違ったことだが、
でも彼らのしたことを、わたしはゆるせる。
というか、いうほどなんともおもっていやしない。
被害者がかわいそうとか 人なみにはおもったが。
なのに正義みたいなものを大仰にふりかざして
「言ってみた」。そんなところだ。

ただ死刑については
なにかの思考を自分がしているから、
この感情がわいてきているはずなのだ。
死刑をおもうとき、罪悪感がわく。うしろめたい。
「よくないことをしてる」と考えているからうしろめたいのだ。
死刑はよくないと、わたしは考えているのだ。
死刑のなにかがよくないと。なにがよくないんだろう。

複雑すぎる問題におもえる。が、
認めているのだから、間接的にわたしは死刑を。
だから 考えることをやめちゃいけないだろう。

2016年版ベルセルク-180704。

毎日暑くてつらい。
こんな日々がまだまだ続くのかと思うと
涙がでそうになる。

気温が 28度より上がらない土地に、引っ越したいかも。

・・・

2016年に放送されたアニメ「ベルセルク」を
放送当時は みなかったが、今、観ている。

このアニメは、最終的にどのように評価されたんだろう。

今の人たちに こうした物語がはたしてうけるんだろうか。

いろいろ言う人は、いろいろ言ったんだろうな。
いろいろ言う人が、おそらく言ったであろう箇所は、

CGの問題
音楽の問題
ガッツの顔が長すぎる
このあたりじゃないか。

フルCGアニメというやつだ。
人物の動きがぬるぬるとしてきもちがわるく
観慣れるのにかなり 時間がかかった。
あたまから否定するつもりもないけれど、
人間の「歩く」動作を自然に表現できるようになるまでは、
アニメの とりわけ人物に
CGを導入するべきではない、というかんじがする。
歩行の動きのあまりのしょぼさに
ああ まだまだまだまだ ぜんぜん・・・とおもわされる。

音楽は、
個性的で、1曲1曲をじっくりと
曲だけで味わってみたい気になるくらいだが、
「こういう路線」とはっきり言える曲調ではないので、
とらえどころがなく、また、覚えにくい。
そんな音楽が、いろんなシーンで流れまくるせいか、
物語がガチャガチャとして感じられる。

ガッツの顔だが、面長だ・・・ 
でも原作もこんなものだったかなあ?
黄金時代あたりのガッツはかわいらしかった。

だが、3話めくらいになってくると、
まずCGに、そこそこ慣れてきた。

音楽は、あいかわらずカオス感がすごいが、
物語それじたいが言わばカオスであるのだから、
いいではないか、という気がしてくる。
それに平沢進のテーマ曲はカッコイイ。

ガッツの顔のことは、もういい。
いまは、ドラゴンころしの鞘鳴りの音や、
敵の剣と、刃がぶつかりあったときの音が
自分のイメージとかけはなれていることが少し・・・。
いささか高すぎ、やや軽すぎの感がある。
わたしのなかでは、もう1オクターブ低く重く、不快な音なのだ。

・・・

このように あらたに気になる点が
少しばかり出てきてしまったものの、
10話くらい観た今、全体的には自分なりの落としどころがみつかり、
いまや すごく楽しんでいる。

画面におさまりきらない、
描こうにも描き切れない、そんな限界と
作る人たちがせいいっぱい戦っているかんじがして、
そこも いわばベルセルクらしく、いい気がする。

聖鉄鎖騎士団のところから話が始まる、と聞いたときには
当初おどろいた。
どうまとめるつもりなんだろう、と。
原作を読まずに初めて観る人には
たぶん(あるいは最後まで)
なにがなんだかわからないのであろうが、
原作を知って観てみると、
「こういう作りだったのか」
「別の場所ではこんなことがおこっていたのか」
多角的な理解のたすけになる。
マンガを3Dモデル化して、ひっくりかえしたり、
斜めからみたり、裏側からみたりしているような感覚だ。

・・・

ガッツの心の傷の深さを思うと胸が痛む。
「屈強」が人の形をとったような男なだけに
みためからはわかりにくいが、
彼のほど繊細で、深く傷ついてしまった心もない。
選ばれ、生き残ったために
ほかの者には決して代われないし理解もされない
運命を背負うことになった。
彼の心からは、血が流れつづけている。

たしか37巻、ガッツが傭兵をしていたころの
できごとが描かれていた。
囚われの身となった日の夜、
牢屋でみつけた花の精との交流の物語。

ガッツは、エルフが大嫌いだとつねづねいっている。
非力で弱くって、ひねりつぶしてやりたくなると。
なにか彼の性根の部分で、見るだけでいらいらしてくるような
そんな存在かのように言う。
でも、生まれて初めて出会ったエルフとおもわれる
あの女の子に、彼はけっして冷淡ではなかった。
それほど嫌いというのなら あのときだって、
無事に脱出できたら花畑に、などと 
約束をかわすこともなかったはずだ。
でも 約束した。彼女を出してやることはできなかったのだが。
ガッツが嫌悪するのは、エルフではない。
世界から憎まれていると骨の髄まで知ったつもりが
それでも求めてしまう
今度ばかりは信じてもいいのではとつい思ってしまう
そして残酷な現実に性懲りもなく傷ついてしまう
そんな自分の弱さ、ではないか。
花の一輪も守りとおせなかった、あの脱出劇の顛末は
おのれの弱さやうかつさ、甘えを痛いほど思い知らされた
ガッツにとって 苦い苦い記憶であるだろう。
ガッツは 自分への嫌悪を 丸ごとエルフの存在に転嫁して
やつらなんて大嫌いだ、と 言ってしまうしかないのだ。
おれは あきれるほど弱いやつなんだ、甘えていたのはおれなんだ、
ちょっとしたこともやりとおせなかった みっともない野郎なんだ
なんて、他人に 自己嫌悪や罪悪感を
さらけだして 語れるような男ではないんだから。

彼の心の傷はふとしたきっかけでうずきだし、休む間とてない。
彼が救われることを願っている。
ガッツにとっての救いとは何よ、
それを考えると わたしまで気分が落ち込むのだが。

そんなガッツにとってだけでなく この物語全体にとって
パックがいてくれることは、さいわいだ。
おしゃべりでちょっとうっとうしいが、
他者の心に敏感で、
人間ではないけれど人間的なあたたかみにみちた
心のもちぬしだ。
パックの存在が 日々ほんのすこしだけれども、
ガッツの心をうるおすように見える。
ガッツの心は、傷つきすぎていて
癒やしても癒やしても
そばから別の個所が裂けて血がふきだすが
でも、どんなにかパックによって、いたわられていることだろう。

九代目雷門助六師匠はお元気。-180703。

だめでもともとのつもりで 
九代目雷門助六師匠の近況をたずねるメールを 
所属の落語芸術協会に おくってみたところ、
事務局からすぐに、ていねいな回答があった。
師匠はとてもお元気で、「あやつり踊り」も
健在とのこと。
しかも、こうした内容のメールがきた、と
ご本人にもおつたえくださると
うれしいことを書いてきてくれた。

今月末には静岡県で、
お弟子さんといっしょに落語会をひらかれるそうなので 
新幹線で ちょっといってくるつもりだ。
師匠の生まれ故郷の横浜でも
この夏に何回か演芸会に出演されるみたいだ。
さっそくチケットをとった。

わたしが知るかぎり、
すくなくともおととしの秋ごろから昨年の前半までの約半年間は、
確実に、月2本は定席にあがっていた。
わたし20日に1回は会社をどうにかこうにか抜け出して
自転車で末廣亭にいっていたし、
浅草や上野にも週末に出かけていた。
それが、今年にはいってからこの半年というもの、
ほとんどでなくなっていることはたしかで、
それについては事務局のかたも
「最近は定席に出演予定がない」うんぬんと、みとめておいでだった。

寄席にはたくさんの噺家さんや芸人さんがでる。
1日中、入れ代わり立ち代わり 
いろんな芸を見せてくれるなかで
自分がすきなかんじの噺家さんをみつけたり、
二ツ目の若手の成長をみまもったり、
そうやってお客は、おもいおもいに楽しむんだとわたしは認識している。
わたしの場合は助六師匠の噺が 
なにか、なんとなく波長があったということなのだろうが、
ずっと できるかぎり 寄席にでかけては、聞いてきた。

70代・・・
 
師匠のほうは、でも、
本人としては、どうしていきたいのかな。
何をお考えなのかな。

桂歌丸師匠やすらかに。/九代目雷門助六師匠に会いたい。-180702。

桂歌丸師匠が亡くなった。
病気が重くなり 医療器具をつないでまで
落語の仕事をつづけていたのをみて、
そこまでしなくても お歳でもあることだし
体をだいじにして もうゆっくりすればいいのにと
おもったこともあった。
けれども それは他人だからおもうことで 
ご本人にはご本人の 願いや考えがあってこそのことだったんだろう。
落語をしてなくちゃ生きていたって死んでいるのと同じと
落語をしていたい、最後の最後までと 
お思いだったのかもしれない。
そうまでやりたいとおもえるものがあったということなんだろう。
そういうものがあってうらやましい。
もともとあんなに細い人が お歳を召してますますやせて
病気にもなって、あきらかに弱って、
はたでみていてつらくなかったと言えばそれはうそになる。
でも、とてつもなくカッコイイ。カッコイイ人だ。

・・・

九代目雷門助六師匠は 
桂歌丸師匠よりも ちょうどひとまわり下の年代のはずだ。

わたしの記憶では 昨年の暮れか 今年のはじめを最後に
末廣亭浅草演芸ホールの定席にでていない。

暮れというと、わたし 最悪に体を壊していた時期だった。
いろいろとでたらめなことが起こっていたときでもあった。
なんやかや もみくちゃのくたくたになり
落語なんてぜんぜん ききにいけてなかったのだが
ああひさしぶりに 聞きたいなとおもってみたとき
助六師匠が 落語芸術協会の定席に
ぱったり でなくなったことにきづき
いま とてもさびしい。

たしか、かつて男性更年期障害に何年も苦しんだことがあるとかで、
歌丸師匠ほどではないけど、やっぱりすごく線の細いかんじのかただ。

体調が、もしかしたらわるいのかもしれない。
お弟子の雷門音助さんのブログをみたら
今月末、地方で落語会を開くことになっており、
そこに助六師匠も出演予定と書かれていた。
ほんとうに出演するのだろうか。
どうしているかなーとおもう。
ききにいきたい。
元気でいてほしい。
まだ「あやつり踊り」をやっているといいんだけどな。
でもあれはぜったい見かけよりもハードな踊りだとおもうから
もう 師匠のお歳を考えると 封印してしまったかもしれない。

助六師匠はタレント活動的なことはしない噺家だ。
スターというかんじでもない。目立たないというか。
じかに 聞きにいかないことには彼の芸に触れることはむずかしい。

わたしは助六師匠が 引退をしたら
ほんとにさびしいだろうなとおもう。
引退したことが、ちゃんと知らされないのではないかとすら
おもわれて かなしい。