BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『鍵』-171002。

1日 本を読んでた。

本ばっかり読んでいたせいか
首がいたい。まわらない。
横になるのもしんどい。涙出そう。
それに おなかすいた。つかれた(^^)
本音をいうと きょうはもう 
あと1行だって読みたくない(^^)

・・・

さっき、
『鍵』を観てみた。
英題:Odd Obsession
市川崑監督
1959年、日本

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www.youtube.com


谷崎潤一郎の『鍵』の 
5本だかある実写映画化作品の
いちばん最初のものだ。
二代目中村鴈治郎(古美術鑑定家・剣持)
京マチ子(剣持夫人・郁子)
叶順子(剣持家娘・敏子)
仲代達矢(敏子の婚約者・木村)
などがでてる。

『鍵」』の基本的なすじを 
お知りになりたいかたは
Wikiなどをお読みになるといい。

みごとなもんだなとおもった。

原作小説がだいたんに換骨奪胎され
かんじんの「日記」の要素は
ほぼ全消えで ラストあたりに
申しわけ程度にでてくる程度
そのかわり「窃視」と
「公然の秘密」の要素が
映像と会話劇によって
ぐいぐい押し出される
映画ならではのつくりだ。
何を考えているのか
さっぱりわからない、
木村の頭のなかは 
すくなくとも 鑑賞者にかぎっては
ノローグによって
「窃視」できる仕組み。

原作とはかなりちがうけど
とてもよくまとまっているとおもう
徹底的なまでに様式的
かつシンボリックで、
それだけに 
人の心の謎や愛憎がにじみでて 
美しいと感じる。
蒸気機関の暗喩とか 
あんなのもう 
今の映画ではできない。

セリフにも動きにも 
ムダや飾りが感じられない。
セリフなんか 
1回でも通して映画を観れば
そらで言えそうなほどシンプルだ。
「演技とかそういうの 
この映画に必要ないんで!」
くらいのこと
考えていたんじゃないだろうか、
監督は。知らないけど。

女性陣の
お化粧が怖い(^^)
初登場シーンで 京マチ子の顔をみたときは
冗談でしょ、とおもった。
でも観ているうちに慣れてきて 
きれいだな、くらいのこと以外には
なにも思わないように
なってきたからふしぎだ。
お能の面のようなかんじかなと。

中村鴈治郎
とてもうまいとおもった。
目つきも手つきも 
きもちわるくて じつにいい。
最初はこの人がいちばんヤダなと
おもうんだけど
観ているうちに・・・。

京マチ子は いい。
彼女って 体をはって
「女」ってものを演じた女優なのに
いやらしくならなくて
いつでも品があるところが 
稀有だと感じる。

「はなさん、また間違えたのね」。

仲代達矢が 剣持夫人とその娘とを
みずからの出世のためだけに
とっかえひっかえする
不誠実なインターン生を 
うまいこと演じてた。
顔が腹立つ。

昔の日本映画はおもしろい。
こういうのだったら いくらでも観たい。

感想とかぜんぜん書けない最近の読書傾向-170930。

人さまにすすめて
喜ばれる可能性が
すこしでもありそうな
一般的な?本を 
最近読んでない。
書評とか してみたくても 
これじゃできない。

専門書ばかり。
専門書って 
ほんと 買うと高い。
図書館にたよりきりだ。

でも
宅間守(大阪池田小殺傷事件の)の
精神鑑定書(岡江晃 著)だけは
一般書として
扱ってもいいかもしれない。

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www.akishobo.com



これは衝撃的だった。
そんなつもりじゃなかったが
単純に 電撃的に 心にきた。
考察どころではなかった。
一度 どなたも 
お読みになってみる価値はある。
でも 読めばわかるが 
こうまではっきりと
彼は精神障害ではなかった、と
結論付けられていたにもかかわらず
それでも
彼の事件を あきらかにきっかけとして
医療観察法が制定された というのは・・・
 

あと、スリランカ(急に!!!)
とかは いまもいわゆる小乗仏教
生きているんだけど
その小乗仏教のルーツを
たどるための 
原始仏教の基本みたいなのの本を
6~7冊くらい 読んだけど 
すごくたのしかった。
小乗仏教のルーツをたどりたいと
べつに考えたわけではなく
単純になんとなく 
おもしろそうだなとおもって
読んだだけだが やはりよかった。
タイムトラベルしたきもちになれた。


あとは 
このまえちょっと書いたけど
宮大工の 故・西岡常一氏の著書も。
↓ 自分のブログだが・・・。

york8188.hatenablog.com




おもえば
マンガも読んでないし
(「銀河英雄伝説」の
刊行ペースの早さに
もはや ついていけない)、
アニメーションもみていない。
アニメーションときたら
進撃の巨人」Season2さえ 
みてない。
進撃はもともと
観るのを楽しみにしていたんだけど
あるとき、はっと、気がついた。
「話の流れでいくと
第2シーズン開始早々くらいに
ミケが死ぬんじゃないか?」。
原作において
ミケ・ザカリアスの最期は
じつにむごいものなのだ。
あれをカラーで、
音付きで観るのか・・・と 
考えたら怖くなり
ためらっているうちに 
みのがしてしまった。
観たら観たで 
夢中になるにきまってるのだが。
血界戦線」も 
こんな調子ではもしかしたら 
みないかもしれない。
そんなバカな・・・


映画は週に1~2本は
スクリーンなりDVDなりで
いちおう鑑賞しており 
これだけは
ぎりぎり いつものペースを
たもっている。
ダンケルク」ばかりだが。


本だ。
読む本の 傾向が 
すごくかたよってきた。
不健全だ。
悪食で鳴らした(いつ。)
バラエティゆたかにもほどがある 
わたしの読みかたは 
どこにいってしまったのか。
つい1か月くらいまえまでは
嘔吐物のほうがまだしも
内容に秩序があるね、というような
盛大にとち狂った本の読みかたを
やってた、ちゃんと。
なのになんか 最近は
がらにもなく 
おりこうさんな読みかたを。
同系統の本をきちーんと 
ならべて読んでしまってて。

だめなんじゃないか? 
わかんないけど。
前は前で 
こんな無秩序な読みかたしてたら
いけないと 
おもっていたんだけど。

それはおいといても
さすがにすこし 
やりすぎ感がある。
読まなくてはならない、
いまのうちに
読んでおきたい本が 
たくさんあるから
しかたないのだが
けど いきなり 
あまりに多く リストアップしすぎた。
日割りにしても 
1500~2000ページは
読まないとおっつかない。
スピードと量が 
どっちもひつようだ。
できないことはないが 
ムリはしてる。

1日 まあ・・・ 
600ページくらいが
ちょうどいいのかなとか
ようやくわかってきた。
そのくらいなら 
毎日やってもだいじょうぶ。
そんなことも いままで 
考えたことなかった。
あきらかに飛ばしすぎだ。

ただ 限界を知るために 
やってみてよかったのかも。
お酒の飲みかたを 
覚えるようなかんじで。

活字 見すぎ。 
コーヒー飲みすぎ。
こんなにコーヒー飲んだこと
いままであったろうか。

でも 
リストアップしたものについては 
もちろんなにがあっても 
完遂するつもりだ。

クレジットカードを生まれて初めて作ってみた

1枚たりとも持ったことがなかったクレジットカードを
このたび作った。

なんとしてもぜひともカードが必要と感じるシチュエーションを
実感としてあまり体験したことがなかった。
たとえば海外でとか そういう・・・。
自分は日本を出たことが一度もないのだ。

ただ、それでも、
支払い方法がクレジット決済であったために、
やりたくても(購入したくても)あきらめてきたこと、
というのが過去に何回かあった。
そのため、
1枚くらい 持っておくべきなのかなあと 
ここ数年 多少考えてはいた。

お金の計算が極度に苦手であることに加え
目に見えないところでお金が動くこと、
決済フロー的に(買いたいものを入手した日よりもずっとあとに
なってからお金が引き落とされる、というその仕組み)
お金をちゃんとつかってちゃんと買い物をしているかんじが
薄れるだろうな、ということが予想され、
それは 自分にとってよくないことに感じる。
カードを持って いいことよりも
悪いことのほうが多いように思われ 
所有がためらわれた。


数か月前、
となりのデスクで仕事しているデザイナーさんに
カードを持っていないが 作るべきか迷っていると
話した。
彼はわたしがカードを1枚も所有していないことを知って
見た目にはっきりわかるほど 引いてた。
しかし、
「将来フリーランスになってからとかだと 
カードの審査を通過しにくくなることがあるので、
会社勤務のうちに1枚は作っておいたほうがよい」
と 言い、
彼のおすすめのカードなどについてもアドバイスをしてくれた。
フリーランスになるかどうかはまた別だが、
自分は
審査に通るとか通らないとかそういうことがあることさえ
知らなかった。なに、審査って。
だが 会社員であるというだけで 
その審査とやらを通過できる可能性が高まるなら
やはり今 作っておこうかと 決意だけは固まった。

そしてこのたび
新幹線のチケットをできるだけ安くとりたいという
必要が生じた。
「安い」ことは絶対条件ではなかったが。
その できるだけ安くとれる手段を用いるのに
クレジット決済ができなければならないことがわかったので
オンラインで 申し込みを行って カードを作った。
毎日 通勤で利用する私鉄およびその系列百貨店が発行している
ものにしておいた。
正直なにもかも、まさしくなにもかも、よくわからないのだが
イメージ的に とにもかくにも
デザイナーさんが言ってた「審査」ってなんだろう、
なんか不安だなという かんじだけがあった。

しかし、
手続き完了ののち 40分もたたないうちに
審査を通過しました、原則4営業日後にカードを送ります
という内容のメールが届いた。
けっきょく審査とはなんだったのか。
皆目 見当もつかないが
なんにせよカードは発行されるようだ。
これで新幹線のチケットをとることもできるだろう。

デザイナーさんが出社してきたときに
カードを作りました!と なかば興奮ぎみに報告したら
「そうか。大人になったかんじだね!うれしいかい。」
と にっこり笑って 聞かれた。
「うれしいです!」
と 子どものように返事をしてしまった。

追って、発行されるカードの公式サイトをよく読み
クレジットカードというものについて
基本から勉強するつもりだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


携帯型MP3オーディオプレイヤーも
先日 生まれて初めて購入した。 
人類にとってはちいさな一歩でも
わたしにとってはおおきな飛躍だ。


外を歩きながら音楽を聴くとかいうことを
いままでほとんどしてこなかった。
都会では 耳がふさがった状態でいると危ない。
耳だけでなく目も両手もあけておくべきだ。
自分のようなぼんくらはとくに。

携帯型音楽再生機のたぐいで 自分が所有しているのは
「カセットテーププレイヤー」と「CDプレイヤー」。
カセットプレイヤーは驚くべきことにバリバリの現役で、
ずっと以前には外でも使っていた。
いまはもっぱら自宅室内で愛用している。 
しかし
かんじんの手持ちのカセットテープの劣化がはげしく、
まともにきけるものが あまりなくなってきたので
順次CDに差し替え中だ。
それをきくためのポータブルCDプレイヤーは
旧型すぎて重量がやたらあり 携帯型がきいてあきれる状態だし
音質の低さ、音飛びの頻度の高さともに顕著だ。

あたらしいCDプレイヤーを買おうかなと
おもわなくもないが
最近のCDプレイヤーは、
どうせ売れないからと考えているからか、
どのメーカーも
小型化・軽量化・高機能化・デザインのソフィスティケイトを
さぼっているのがまるわかりで、みるだに不愉快。
種類も貧弱だ。
これなら買いたい使いたいとおもえるものがまったくない。

本音を言えば 
できればカセットプレイヤーを今後も使い続けたいのだが、
だからかんじんのテープがもうないんだってばという話にもどってきてしまう。

ながらくパソコンも 持っていなかったので
CDなどの音楽データをとりこんで
MP3とかの高圧縮音源に形式変換して
携帯電話とかにとりこみ みたいなことをすることも不可能だった。

加えて わたしはガラケーユーザー だ。
高等種族であるところのスマホユーザーのみなさんとは
いろいろ事情が異なる、という点も申し添えたい。


さて
さすがにいまは パソコンを所有しているため
音声データを聴取する、そして持ち運ぶ手段の
選択肢は拡大している。可能性という意味では。

しかし
ここにきて今度は
「そこまでして音楽 外で聴きたいか」案件が発生。
音楽の聴き方が違う。 
音楽もラジオも職場で仕事をしながら聴ければそれでよい。
そもそも最初に言ったが、
都会では耳がふさがった状態で外をふらふらしていると危ない。
わたしのようなぼんくらはとくに危険だ。
目も耳も両手もあけていても 何か起こる。

それに、
外出時に必携の趣味嗜好品のたぐいがあるとすれば、
それは音楽ではなく、
わたしの場合は書物だったりする。

よって
デジタルフォーマットベースの携帯型音楽再生機
当面必要なし
と、こうなっていた。

しかし このたび 必要にせまられた。
MP3形式に変換して、携行できなくちゃまずい。
外を歩きながら聴くかどうかは別にしても
持ち運べなくてはならない。
ついでにPCM録音が必要だ。
携帯型再生機、もっといえば
録音機能搭載の携帯型再生機がないとまずいと
このようになった。
しかも可及的すみやかに必要だ。
オンラインショップをさがしまわり
トランセンド社から3500円ぽっちで
かわいらしいMP3プレイヤーが出ているのを発見。
このくらいなら
もう必要ないと、もしいつかなったとしても
惜しくはないであろうし
ネットでいろいろ調べたところ
数年前の型にしては
いまでもずいぶんユーザーに人気があり 買われ続けていて
評価も上々
自分が必要としてる機能はすべて搭載されており
申し分がなさそう
トランセンドといえば
以前働いていたことがある商社の大口の取引先でもあり
ドイツと中国の担当者はたいへんに親切で 話のわかる 
よいかただった。
わるいイメージ、まったくなし。
決定。
ということであさって 商品が届く。 
なかなか楽しみだ。

だがカセットプレイヤーも やはり使用し続けたい。
CDよりもむしろカセットテープ。
わたしはカセットテープで聴く音楽はすばらしいと思っているのだが。
すばらしいと確信してるのだが。
音がややスモーキーであたたかい。
カセットテープに慣れた耳だと
デジタル音源は薄い紙で指を切ってしまうときのような
ああいう危険な感触があり、なにか、痛い。
そのような感覚はおかしいのだろうか。
手持ちのCDの音楽をもういちどぜんぶ
カセットテープにふきこんでみるかなあ。
カセットテープそれ自体は TDKなどがまだまだ
出しているようだし。


それにしても 調べてみて初めて知ったが
MP3オーディオプレイヤーの
機能と価格帯の「幅」感があまりにもすさまじい。
ソニーウォークマンのハイエンドモデル WM1シリーズ
ハイレゾ対応  音声バランス出力 ±20段階のイコライザ
PDM出力から変換することなくDSDネイティブ再生
(どうやってそんなこと可能にしたのかわたしにはわからない)
最安でも25万円也。
わたしのトランセンドくんは3500円なのだが。
こだわるかたは とことんまでこだわるようだ。
(ただ WM1の筐体のデザインは ぜんぜんかっこよくなかった・・)

 

 



心理をやることはとりもなおさず自分を救おうとすること

どんなに心が傷ついても
心の傷そのものでは 命まではとられない。
負った傷の処理のしかたしだいでは
力をうしない 取り戻すこともできなくなり
その結果 死を選びたくなる、というようなことも 
あるんだろうが。

わたしはやはりいまは 死ぬことはない。
今回も。
でも傷つく。
死ねないのに傷つく。
死んだ方がましというほど苦しむが死ねない。
それはそれでしんどいものだ。

わたしがこれから心理を やろうとしているのは
困っている心 惑う心 弱った心を救いたいからとか 
人の心について知りたいからとか
そんなことでは断じてない。

自分自身を救いたい。
救う方法がみつかるならとおもうから、
やろうとしているだけのことだ。
哲学でも宗教でもなんでもいいと おもってたが。

わたしは生きたいのだとおもう。

死んでしまいたいとまでおもうのも
そんな気持ちにこうも何度も何度もさいなまれるのも
そのくらいつらい心境へと自分自身を追い込むことで
生きている実感をえようとしている といえば
いえるだろう。
自傷行為をくりかえしてしまう人と
根っこの部分はにたようなものだ
実際的な行為にけっして走れないだけ
甘ちゃんなのであり
そうした意味でさえ わたしはほんとに
とるにたりない 人間なのだ。

それに
被害者ぶってはいけない。
今回これほどまでに まいらされたことの原因は、
原因はわたし自身にある。
原因を今後にむけて とりのぞくことができれば
結果もかわってくるはずだ。

わたし自身以外のところにある原因については・・・
確認したいとすら いまは思えず
それではほんとうの解決にならないことは
わかるのだが・・。

でもいずれにしても前を向かなくちゃいけない。
生きていかないといけない。
道はまだのこされている。
まだぜんぶをうしなってはいない。
まだ使えるものがある。まだ削れる余地がある。
わたしが自分で 道をこうして作っておいたのだから。
これまでは こういうとき まだ子どもだったから
まわりにだれか みてくれている人がいたような
かんじがしていられたのが、
今回はたったひとりだけれど
それはたしかに なにかちょっと不安だけれど
自信もまるでないけれど
しかし この道をいかなければ
先はない という確信だけはある。
まだわたしは やっておかないと後悔する段階にある。

惰性に流れるのがいちばんまずい。

まず むこう半年。
来年の春まででいい。
とりあえず来年の春まで。
そのあと冬まで。
そのあとできれば
むこう3年半ないし4年。
それがおわったときに、まだ
死んだほうがましだとおもうくらい
わたしが 今とおなじことで苦しんでいたら
そのときまた どうするか考えればいい。

そのときになったら 
実際に死を選んでも
べつにだれにも責められないだろう。
自分自身、
やるだけやったとおもって いけるとおもう。



膠着状態/西岡常一氏の本/映画の感想-『鬼に訊け』-170922。

ありがたい。
どこのどなたが 
こんなにたくさん 
読みにきてくださっているのか。
びっくりだ。
ユニークユーザーカウントなのか
その対義語
(なんだかわかんないんですが)に当たる
カウントなのか 
わかりませんけど
どちらにせよ 
どなたであるにせよ
ご自分の人生の貴重な時間を 
ほんのいっときでも
このブログのために割いてくださり 
ありがとうございます。

・・・

 

先日書いたとおり 
事故きっかけで発声に問題をかかえ
治療をうけている。
小声なりに がんばれば1日中 
話したいときに話すことは
できるようになったので
通院は週1回から2週に1回になった。
訓練士さんと
すっかり仲良くなったので
会って話せる回数が減って
ちょっと残念だ。

しかし いうなれば
膠着状態だ。
がんばれば1日中 
弱よわしい声でも自由に話せる、
のではあるが
話しているとちゅうで 
突然ぶつっと 
発声が断絶することも。
コンセントを引っこ抜かれるように。
自分の身に起こっていることながら
なんなのかよくわからない。

ただ、よく観察すると、
そうなる直前にいつも、
「途切れるかもしれないな」
「調子が悪くなってきた気がする」
などと なにかしら 
つまんないことが
ふっと頭をよぎるか、
その よぎったのを 
捕まえてさらに、
あれこれと思考を拡げてしまってるのを
自覚している。
息の吸い方とかなんとか。

いつも考えずにやっていることを
考えてしまうと負けのようだな。

考えなくてもやれていたことが
できなくなってしまうと、
なぜそれまでできていたのかが 
わからないだけに、
どうやって元に戻せばいいのかも 
わからず、
右往左往することになる。

舞台で楽器を演奏してる最中に
心の持って行きかたを
一番ヤバく間違えると 
こういうかんじになるものだ。
「あー、間違える。間違える。」
「あと4小節で苦手なところがくる」
「指が転びそうだ」
「低音重視のリードにしたから
高音がぶらさがるだろう」
そんなことをちょっとでも思うと
図ったように 
そのままの ヘマをする。
何百回となく あったことだ。

いろいろつまんないこと考えているのに
不思議なほど問題なく演奏できるのは
すなわち十全に練習し、
楽器もリードも体調も
イスの高さも完璧に感じ
それだからこそ心のバランスも
とれているのを感じるときだ。
やや興奮してはいるが 
まわりの音がちゃんときこえていて
「あ、3rdホルンがやや高い。
あとでSoliがある。
こちらのピッチは問題ない。
ズレをカモフラージュするために
どのくらいの波形・波高の
ビブラートをかけるべきか」
とか 正確に判断できてしまう。
だが そんなことはまれだ。
綱渡りだ。

いやいや
楽器のことはどうでもよかった。

あれと
同じようなことなのかなあ。
考えすぎてヘマをする。
声でそこまでのことになるのは
困ったものだ。
声は生活用品だから。

正直に言うと
声を出して話すことが
かなり怖い。
「考えが頭に浮かぶ」
「それを言葉にする」
「声にのせる」
「人につたえる」
という一連の接続が
ふらふらしている。
「声にのせる」のところで
ぽっきり折れて
崩れ落ちそうだ。
声にのせる、じゃなく
「パソコンで入力する/紙に書く」
なら 問題ない。
ただ声を出すのが
ちょっと怖い。

考えすぎだ。
こんなに考えてるのは 
妙だ、とわかるのだが。
でも際限なく考えてしまって 
ときどき参る。
いったいなにをやっているんだ。
なんかこれ
心因性失声症」ってのの枠から
はずれてない(^^)?
うまくいえないんだけど
なぜだかわかんないけど
単純にあのときから声がでない!
みたいなのじゃないの。
声を出すのが怖いと 
これほど悩むのも症状のうちなの?
それって心の病系のことに
なってくるのではないの?
単にわたしの 
思考がつっぱしりやすい性格が
長期戦に耐えかねて 
出てしまってるだけ、
ってことならいいのだが。
ああ、またいつものやつか。
とおもえるので。
もうあとちょっと。
というかんじもするんだがな。
また病院に行ったときに
訓練士さんと
カウンセラーさんに話そう。
それしかない。

・・・



西岡常一氏(宮大工)の
著書がおもしろい。
なんで読もうとおもったか 
わすれたけど。

・「宮大工棟梁・西岡常一『口伝』の重み 」
 (日経ビジネス人文庫

『宮大工棟梁・西岡常一「口伝」の重み』に河合隼雄の対談が収録されています


河合隼雄氏との対談が
載っているのがなにしろ熱い。
好きだとおもうものって 
やっぱりつながってるよね。
必ずどこかで。



・小川三夫、塩野米松共著
「木のいのち木のこころ―天・地・人 」
新潮文庫

www.shinchosha.co.jp


・・・西岡氏はすくなくとも
3代つづいた法隆寺棟梁一家の生まれで
本書ではその法隆寺時代のエピソードが
おもに紹介される。
木への尊崇と 仏さまへの素朴な信仰とが
感じられてとてもいい本だったとおもう。
お弟子さんへのインタビューも深い。
内容をわたしが紹介するよりも
実際に読んだほうがよい。



・青山茂共著「斑鳩の匠 宮大工三代」
平凡社ライブラリー

www.heibonsha.co.jp


・・・毎日新聞の美術部門の記者、
青山茂という人との
対談形式で構成されている。
この青山という人、
文化財や古代建築に詳しいみたいで
西岡氏が彼を信頼し 
安心して話しているのがわかる。
法隆寺の改修工事の大幅な設計変更や 
図面を書くにあたって行った
数年にもわたる調査などについて
これ以上はないというくらい 
きめこまかく解説されていて 
門外漢でも興味深い。




・宮上茂隆共著「法隆寺 世界最古の木造建築」
草思社

honto.jp


・・・挿絵がすばらしい。
一見の価値あり。
西岡氏が復活させた工具
「槍鉋(やりがんな)」
の解説もわかりやすい。


・寺岡房雄共著「蘇る薬師寺西塔」
草思社

蘇る薬師寺西塔 / 西岡常一/寺岡房雄 - 紀伊國屋書店ウェブストア

・・・法隆寺を辞して
薬師寺再建工事の棟梁に
就任してからの話。
300点もの写真とともに、
西塔再建の経緯と工程を解説している。
読み飛ばしていいところが1行もない、
と感じるくらい含蓄ある内容。
徒弟制度についても考えさせられる。
この制度も、人間が考えることなので
いろいろ欠陥や問題はそりゃあろうが、
技術を伝えていくためには
理にかなった制度であるんだろう。
36年も前の本なので
もうなかなか買えない。
図書館の書庫からだしてもらって読んだ。



・あと『鬼に訊け』という
ドキュメンタリー映画も観た。

『鬼に訊け 宮大工 西岡常一の遺言』
山崎佑次監督、2012年、日本
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www.youtube.com


生前の西岡氏が
インタビューにこたえて
だいたいこのようなことを。
薬師寺の再建工事のときに 
建築学者の人たちにどうしても 
木組み全体に鉄骨補強を組み入れろ、
といわれたんだけど 
鉄骨がかえって木組みを弱らせ、
長くもたなくなるから、
鍛造した鉄ならいいが、
そうじゃないならダメ、と突っぱねた。
すると
『鉄骨入れないなら工事を辞めろ』
とうるさいので、
やむなくボルトだけ鉄製のやつをね(いれといた)。 
建築学者どもは(再建工事中も)
1か月に1回しかこないので。
『ちゃんと鉄骨入れとるか』
って裏をのぞいたりしないので。」

笑ってふりかえっていたが 壮絶(^^)

似たようなことが 
やはり薬師寺の 別の工事のときに
こんどはコンクリートコアを
入れるかどうか、というので。
こちらはどうしようもなくて結局 
コンクリートを入れたというが
氏の読みでは 
鉄骨やコンクリートで補強した以上 
再建した薬師寺は200年 もたない。 
200年後に 
また工事をしなくてはならないだろう、
とのこと。
完全木造建築を旨とする宮大工である 
あの西岡常一
コンクリートの工事をすることを受け入れた、
これは当然のことながら 
同業者にも後進にもよく思われなかった。
しかし、西岡氏は
コンクリを入れなくてはならなかった
事情をその人たちに説明することよりも
胸をはって現場に立ち、
仕事をすることで
態度を示していったという。

また、薬師寺再建のための木材が
もはや国内では
入手できなかったため
台湾から輸入したそうだが
現地で木を検分する際に氏が語る
「木材を買うときは山そのものを買う」
「土地の空気・湿度・風向き、
方角・土質などで 木のくせがかわる。
木のくせにあわせて木材を組む」
という話が 
簡潔にして真髄をついており 
何度もくりかえして聞いた。

20年以上にわたって 
彼を追ったドキュメンタリーのため
氏自身もそうだが 
彼のお弟子さんも 年を経るごとに
面変わりしていくのが 
はっきりとわかる。
終盤では お弟子さんが
すごいりっぱになってた。
色が白くてヒョロヒョロだったのに。

「リーダーズハイ」とかあるの(^^)?

ちょっと新規事業に
片手?片足くらいつっこむことに決めており
それが始動する10月が
はやくこないかなー、と
いまや 待ち遠しくてしかたがない。

来月に備えて
事前に目を通すことが可能な本については
すすめられたもの、
自分でこれかなーとかおもって適当に買ってみたもの、
図書館の書棚の はじからはじまで著者名順に
かりまくっているもの、
すでに着手しており そして あと2週間くらい?で
とりあえず一巡する。

本を読むことがこんなにおもしろいとおもったこと
これまでなかった。
とか言うと
わたしをよく知る人たちはきっと
「は????????!!!!!!!」
っていうリアクションをするだろう。

わたし自身もこんなふうに 自分が感じてることに驚いてるが
しかし おもしろいもんは おもしろい。

本を読むのがおもしろい(^^)!!
なに このきもち(^^)!!

いままで 「おもしろいから」という理由では
本を読んでなかった。
あらためて考えたことさえない。
おもしろいからという理由で友だちとつきあってないのと
だいたいおなじような意味で。
しいていうなら
読んであたりまえで 生活の一部だから 読んできた。
それか 仕事で必要だから 読んできた。

内容がおもしろいおもしろくないは 個別にもちろんある。
でもいま 言っているのは
読書それ自体がおもしろいかどうかの話で、
とにかく 
すごく新鮮に、すごくゆかいなきもちだ。

わからなければ何回でもおなじところを読み返せばいい。
1ページ読むのに5時間とか かかることもあっていい。
そんなことはだれにもなにもいわれない。
速く読むこと、大づかみにしてつめこむことが
仕事ではとにかく要求されるため
本の読みかたが(もともとザツなうえに)すごくザツに
なってしまってたみたいだが
今は 心からおもしろがってて
だから逆に 平時のさらに1.5倍速くらいで
すいすいいける。
わからないことがわかるのがたのしい。
知らないことを知れるのもたのしい。
内容を理解するまでの道のりがたのしい。
活字を追うこと。
わかんない単語を辞書でしらべること。
それらが頭にしみとおってくるのを感じること。
たのしくてしょうがない。
いくらでもいける。
しょせんベースが自分では 
それがどこまで実効につながるかでいえば
たかがしれてるのかもしれないが
こんなおもしろい思いができるとわかっただけで
しかも読書なんて 自分にとってあたりまえの行為に
新しい発見があったというだけで
もう ねがいの3分の1くらいはかなったようなもの、
えらい収穫 っていうかんじがする。

わたしはいま 本を読むとき 
確実に顔がニヤニヤしている。

ほんとうはもっと
いろんなことやってみたい・・・
でも 周囲は 最初はとりあえずやめとけ、
慎重にいけ、自重せよと 
異口同音にわたしに言う。
人さまのアドバイスが耳にはいってくるうちは
ちゃんと聞いといたほうがいい、というの
もちろん 
経験上 骨身にしみている。

体力的なことも考えにいれておかなくちゃいけない。
いまはさいわい めずらしいほど平穏無事だが
たとえば 秋が深まりもっと寒くなってきたらどうか。
そんなにめちゃくちゃ丈夫な人間てわけではないことを
ちょっと調子にのると すぐ わすれる。

だいじなのは 自重の精神だ。
最初はそれでいこう。
いちおうわかっている。

映画の感想-『三度目の殺人』/ごく一部のシーンについての感想と解釈-170919。

※公開中の映画の内容に触れています。

『三度目の殺人』
是枝裕和監督
2017年、日本

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www.youtube.com

主人公は
刑事専門の弁護士、重盛(福山雅治)。
たのまれて、しかたなく、 
弁護側にとって不利な案件
すなわち死刑がほぼ確実視されている
案件を、引き受ける。
被告人は三隅という男(役所広司)。
勤め先の工場をクビになった直後、
工場長を川べりに誘い出して殴り殺し、
ガソリンをまいて死体を燃やした。
被害者の財布も盗んでいる。
自白ずみ。
三隅は、30年前にも殺人をやっている。
そこへもう1件やったとなっては、
しかも金目当ての強殺とあっては
これはもう死刑でカタいのだが
重盛は 引き受けた以上は
・・・というので
無期懲役を狙えないものかと、
事件をもう一度 慎重に調べ始める。
この三隅、どこかおかしな男だ。
会うたびに供述が二転三転し、
そもそも動機もはっきりせず
なにを考えているのか 
いまいちよくわからない。
しまいに三隅は 
工場長殺害は、被害者の夫人
斉藤由貴)から頼まれてやった、
と 新事実をほのめかし始める。
被害者夫人と不倫関係にあり、
工場の経営がかんばしくないから
夫を殺してくれないか(保険金目的)
と、依頼されたというのだ。
それがたしかなら被害者夫人が
殺害を指示した主犯ということになり
三隅の量刑が軽くなる可能性は
でてくるのだが・・・。

そんななか、
被害者の娘・咲江(広瀬すず)の存在が
クローズアップされてくる。
じつは三隅と咲江には、交流があった。
ふたりの関係を探るうちに、
重盛はある 重大な秘密にたどりつく。

三隅はなぜ工場長を殺したのか。
本当に工場長を殺したのか。
彼でないなら 誰がなぜ殺したのか。
三隅のいうことの
どれが本当でどれがウソか。
被告人の心に迫るうちに
三隅がかかえる大きな闇に
のまれていく重盛。

・・・

<感想>
是枝監督の作品では
あまり多くの人には 
好いてもらえないほうのやつだろう。
クライムサスペンスのようでありながら
だれがやったか、
なにがなされたか、
なぜなされたか、
ではないことを 表現してた、
法廷を舞台に。 
そうである以上 
好かれないことがあっても
しょうがない。

おもに反射を利用した
シャドーの表現が、
きれいだったし、うまかった。
どちらがどちらの
シャドーなのかについてもふくめ。

さいしょは、
「三度目の」ではなく
「三つめの」のほうが
適切ではないかとおもったが、
自分の理解のまちがいにあとで気づき、
三度目の、でよかったと考えなおした。
でも 三度目の殺人が 
どれを指すにせよ
前の2回とはやっぱりあきらかに
質がちがうとおもうけどな。

役所広司福山雅治斉藤由貴が光ってた。


・・・

<自分なりの解釈>

咲江は父を殺してない。

さいしょは、
咲江にもなにか 
贖うべき罪があるらしいことを
確信してた。
というのも、
まず、
物語のなかで
印象的につかわれるマークとして、
十字架があった。
三隅・咲江・重盛の3人で
雪遊びをする
ファンタジー的シーンがあった。
彼らが地面にねころぶ姿を 
上空からとらえていた。
重盛が「大の字」なのに対し、
三隅と咲江は両足をとじて 
「十字架」の形でねていた。
そのシーンは 
まだ、
三隅が工場長を殺した線で疑いない、
という段階で でてきた。
だから
十字架=殺し=罪 
だと 理解した。このときは。
咲江をめぐる ある事実が
あきらかになったとき
じゃあ 咲江もあのシーンで
十字架の形で寝てたから、
彼女もなにか罪を犯したんだな。 
とおもった。
すなわち、
工場長殺害の真犯人は
工場長の娘である咲江。
咲江をかわいがっていた三隅が
その罪を肩代わりした。
または ふたりで協力しあって
工場長を殺害した。
そのように考えた。

でも、もう少し観ていくうちに
この物語における
「十字架」の意味付けが
もっと多岐にわたる
可能性に気づいた。
はっきり言うと
「十字架」=「死」
じゃないかと。
「罪」じゃなく、
「贖い」でもなく。

タイトルが意味するものが
三隅の
「死刑を利用した自殺」 
「塀の内側にこもることによる社会的死」
だと したとき
物語における「十字架」は
イエス・キリスト以前の
十字架の意味であるところの
「死」、とおもえた。

十字架、十字架による磔刑
痛いし 長く苦しんで死ぬ。
また、ユダヤの律法において、
極めて重い罪を犯した者か、
悪事をはたらいた奴隷に
適用される刑だったそうだ。
極めて重い罪を犯した者、とは
当時でいえば政治犯
政治犯、とは 
ユダヤの律法を犯した者、
瀆神行為をはたらいた者、
に、ほぼ等しい。
ユダヤ教は生活密着型・民族型の
伝統宗教なので 
当時のパレスチナでは
「あなたはユダヤ教徒ですか」
とかいう問題じゃなく 
ユダヤ教こそ生活であり文化だった。
だからイエス・キリストも その意味で
ユダヤ教徒だった)
十字架による磔刑
死刑なので、死ぬ。
それに、
律法を犯した者や 
奴隷という存在などは、
生前から社会的に死んでいたようなものだ。
したがって磔刑にかかることは
「死」そのもの、という共通認識が
当時の(十字架刑があった地域の)
人びとの心にあった、と聞く。
イエス・キリスト
十字架刑によって死んだとき、
この世のすべての人の罪を
その一身にて贖ったことになったので
あとから 十字架=贖い、という
意味付けもなされたが、
イエス・キリストより前の十字架は、
贖いとかではなく
まず 死、という意味だったようだ。
もちろんそれにほぼかぶる形で 
罪、の意もあったろうが。

で、
三隅と咲江が
十字架にみえる形で寝転んでいたことに
見られる意味とは

「三隅も咲江も罪を犯した
(→十字架刑に処されてしかるべき人間)」
ではなく、
「三隅も咲江も
(それぞれの理由で)
死を求めている、
あるいは死者(同然である)」
ではなかろうかとおもうのだ。

「生まれなかった方が、その者のためによかった」
という言葉が聖書にあったとおもう。
イエス・キリストがユダを指して
言ったんだったかな。

生まれてこない方がよかった人間だと
三隅は自分のことを思っている節があった。
咲江も 14歳を境に 
そのくらいおもいつめても
しかたのない日々を
強いられるようになったことが 
わかっている。
幼時はそんなこと思ってなかっただろうけど
虐げられると 人は自罰的になるのだ。

十字架の意味が 
イエス・キリスト以前のものなら
「生まれてこない方がよかった」
またはそれに類する作中頻出ワードを
イエス・キリスト以後と
つなげるのはおかしい ということに
なるかねえ。
三隅がクリスチャンかわからないし。
三隅の借家にお仏壇か
それに近いものがなかったか・・・

でも、
もしあの十字架が「罪」を表すなら、
小鳥のお墓に十字架つけないとおもう。
小鳥は悪いことをしてないんだから。
くわえて、
十字架イコール贖い、赦し
(あなたの罪はゆるされた)だとなると
工場長の死体を
十字架型には意地でもしなかったはずだ。
やったのが三隅だとしても、咲江だとしても。
だけど「死」そのものの意ならば、
小鳥のお墓に十字架を付したのも
被害者の死体をわざわざ
十字架型にととのえたのも
三隅と咲江が十字架の姿勢で寝転んだのも
ある程度、納得がいく。

三隅がクリスチャンか
わからないと さきほど述べたが
クリスチャンではないとしても 
それだからこそ
十字架に付す意味合いを
うろおぼえ 初歩程度の教養 知識により
気分で使い分けてみた
(という設定)、
と考えることも可能になる。

小鳥→死んだ→お墓に十字架=「死」
三隅→死にたい→十字架=「死」
三隅→罪人→十字架=「罪」
三隅→咲江を救って罪を贖う?→十字架=「贖い」
咲江→心が死んでいる→十字架=「死」
工場長→悪いやつ→十字架=「罪」
こんなふうに 
同じ十字架でも全部意味がちがう
・・・ということであっても
べつに ありといえばありだ

たぶん正解がないから 
わからないね(^^)

また、
三隅の多面的なキャラクター。
自己韜晦か、素か。
発言とその意味との狂的変動。
ヤバそうに見えるが 
まともにも見える。
人を殺すけど守ろうともする。
救いたかったのか、
助かりたかったのか。

彼がどうしたかったのかもあるが
まわりが彼をどう見たいかも からむ。

これらをはっきりさせることも
難しいことに
あとで気がついた。
つまり三隅とはこういう男です、と
わかりやすく評価することはできないし
そうすることにあまり意味がない、
という点こそが
この物語のポイントだ。
なぜなら両立するから。
真逆の思いも 
ひとりの人間のなかで両立する。
もちろん、段階により境遇により、
いろんな思いのどれかひとつが 
一番だいじなもの、というかんじで
当人を形づくるように
見えることが おおいのだが。
両立し、表に見える面が 
くるくる変わるから
見えかたも変わる。

本人が見せたい面と 
まわりが見たい面とが
マッチすれば・・・
「自分はこう=この人ってこう」
と 一応なって、オーライ。
なのかなあ。
それもちがうか。


三隅が一羽だけ
逃がしたという鳥は
咲江、だろう。
退廷する三隅が、
傍聴席の咲江には目もくれず、
両の手のひらを お椀にして上にむけ、
いましも そこに包んだ小鳥をはなったように
空をみやる姿が印象的だった。

容疑者Xの献身の 
あの数学者のように、
三隅のなかでは 今や咲江だけが、
光であり花でもあった、と
一応 いえる。

でも咲江さえも、
三隅にとって 
いつも最重要事項でなかったとしても
べつに おかしくはない。
変わるのだ。人は。

三隅は控訴しないんだろう。

咲江も闇が深い子だ。
広瀬すずちゃんは
そう おもわせる演技が上手だった。
自分の罪を他人がかぶってくれている、
というとき
そう平気でいられるもんじゃない。
それもあって わたしは
咲江は父を殺してないはず、
とおもっている。
だが 殺しててなお 
あのように平静でいられる子、
と おもわせなくもない演出だった。

北大志望であることを
におわせてたが
母がまだ志望校を知らない
設定にしておいたほうが 
よかったんじゃないかなと 
わたしはおもう。
進学は、咲江の 
生きよう、という
最後の意欲のあらわれに
ほかならず、そこにはギリギリまで 
母が からまなかったほうが
よかったかんじがした。

咲江は 法廷でついに話さなかった
あの重大な秘密を
このままずっと 
だれにも明かさないのだろうか?
それで彼女が救われるのか
気がかりだ。

咲江の足のハンデの真相が
「生まれつき」なのか
「高所から飛び降りたことによるケガ」なのか
が ゆれたままなのが 
少し気になった。

ほんとは飛び降りたのに
生まれつきとウソをいうなら
なにかわかる気もするのだが、
生まれつきなのに 
飛び降りてケガをしたとウソをいう、
というのは解せんな と。
どちらのウソも 
状況が状況なら無意味なのだが。

しかも咲江は
「え? ウソじゃありません、
ほんとに飛び降りたんです」。

「ほんとに飛び降りたんです」。

飛び降りたのはなぜ。

うそを言う子キャラ という
ブラフってことでいいだろうか。
うそを言う子も
ほんとうのことを言うことは
もちろんあるし。

まだまだほかにも
理解のしようがありそうだ。

小説を読む気にはならない。
こういうとき小説を読むと
小説がほんとにつまらなく
おもえてしまう。
何度それで悔やんだか。

もう1回くらい 観ようかなあ。
もう1回観たら観たで 
先入観がはいってしまうからなあ・・
虚心に観られたら一番なのだが。