BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

多くのかたに読んでいただいてありがたい/なけなしの技能の発動条件

ブログ読んでくださるかたが 
ほんっとに 増えたなあ。
1年前くらいは1週間で10人とか来てくれれば
すごーい!! だったんだけど(^^)!!
ありがたいですわ。
偶然にせよ ちょっと一瞥なさったにせよ
ガッカリなさったにせよ なんにせよ
おいでくださり ほんと心から感謝申し上げます。
いーですねえ。
自分の存在が客観的に認められた感じしますね。
この感覚は 自分が確実に もとめてやまなかったものです。

といっても ほんと大したこと書いてないので
わるいなあ~とおもっています。
今後も大したこと書かないんでしょうが。
自分がほかのとこで書いたものとかもぜんぶ
ここに集約してしまおうかなあ。
そうすればもうすこし、
内容が多彩になりますから、
これだったら読んでやるか・・・と 人によっては
思っていただけるものも 増えようかと 
予想できますので。

いやあ それにしてもなんですけど、
利用する媒体によって なんか 
書きたいことって変わりますよね。
あー つまり そう・・ あれだ
使うペンによって 書く文字がかなり変わりませんか、
紙に書くのか パソコンで書くのかによっても
気分が大きく変わるし・・
わたし 変わるんですよ。相当。
そんなかんじそんなかんじ。
ブログだと こういうこと書けるけど
Facebookだとなんか書きたくない・・・みたいな
その逆バージョン、別パターンもまたしかり みたいな
微妙な 自分だけの利用媒体別ラインが生じるんですよね。

まあ どうでもいいか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あと、わたし、
自分の傾向に関して最近 
気づきと、確証 に近いものを得たのですわ。
どうも、
生活と健康状態をできるだけ
ダメな方向へダメな方向へと
落としていかないと、
まともなものが 書けないみたいなんですよ。
(まともっていっても たかがしれてはいますよ。)

仕事の情報あつめや 勉強のために
けっこうSNSを利用するのですが、
そんなとき 自分が過去に書いた記事とか
保存した記事とかを ひっくりかえして読み直す
場合があるわけなのです

自分が過去に書いたものなんてね、
9割9分がた、もう すぐにも削除したい。
どたんばたん のたうちまわりたくなるような
はずかしいのばっかり
おまえ これでよく編集者を名乗れるねみたいな
あったまわるい幼稚なことをね、 さも良いことかのように
まーーーー かっこつけて 平気で書いてて
最悪なんですけど

たまに、たまになんですが、
おどろきますね たまに。
え なに おまえ こんなちゃんとしたこと書けてたの!
こんなの書けるんなら なんで今書かないのみたいな
もう 今だと絶対にむしろ書けない みたいな
あるんですよそういうの。
(たまにね。)
3年とすこし前に Facebook
ラディゲの「肉体の悪魔」と 恋愛について
ずいぶん真剣に論じてるのを発見したんですけど
(なにやってんすかね・・・。)
それとか ちゃんとしてて びっくりしました。
覚えていないんです 書いたことを。
でも、たしかに読みました、当時、
肉体の悪魔。
書いたことの内容を確認すると
たしかにこれは かりものではなく 
人さまのものではなく
自分の思考だなと 理解もできます
自分が書いたものなのです。

あまり 推敲をしないもんですから、
まあ それなりにちょっとは これで通じるかなーとか
考えもするんですけど 基本 おもったことを
おもったままの言葉で書いて
直さない場合も多いので
あとで読み返すと なにいってんだかわかんねえな 
みたいな 読みにくいものが 非常に多いんですけど、
その記事は 異様に・・
なにこれ 自分が書いたの、マジで? みたいな。
まぎれもなく 書いたんですよ。 
自分でいうのもなんですが
断章にすぎないものの
なかなか筋の通ったおもしろいことを 
ひきしまった けっして悪くない文で書いているんです。

こんなちゃんとしたもん書けたんなら
さぞかし当時、生活が充実してて、
体も健康で、頭もそれなりにまわる、
よいコンディションだったのだろうと 
おもうじゃありませんか。
よっぽど調子いいときだったんだなと。
ラディゲなんてもの 読むひまがあったんですし。

ところが、
真逆なんです。
3年とすこし前っていいますと、
いまの仕事につく直前、
1年にもおよんだ失業・就職活動の 
終盤の終盤でした
わたし、そのころほんとに やばくて。
客観的にみて過労状態でしたし、病気。
即入院の診断をうけながら なんと 
いや休んでいられないんでと
バカをいいはって 病院をとびだし 
面接にバイトにと 動き回っていたのです。
たちどまることが怖かったのですね、死よりも。
とんでもない話です。
ダメなときでした。

当時の自分に言ってやりたいことは山ほどありますが
(そして さらに約1年後 このときに輪をかけた
最悪バージョン・改を体験することになるとは
当時の自分はまだしらない・・・)
しかし 書いたのです。
自分にしてはすこぶるマシな文章を。

だから やはり、あれだと 考えるのです。
まえにも似たようなことに
思い至った覚えがあるのですが、
やはりそうだと 確証をもつに至りました。
わたしは 環境・状況・心身の健康の状態が 
悪ければ悪いほど、
否、
状態を限界ギリギリまで悪いほうに
みずから もっていきでもしないかぎり、
まともなものが書けない。
ヤバい それ!! 
けどそうとしかおもえないんですよ。
いってみれば
堕ちるところまで堕ちたときにはじめて
いわゆるゾーンに入れる的な。

それ ヤなんですけど。
ゾーンとか 別にいいよ・・・。入らなくて。
でも そうだというのなら しょうがないのかなとも。
悪いものしか書けないよりは
いいほうがいいに決まっていますから。
だとすると わたしはもう 
ホームレスにでもなるべきなのかもしれない ということに。

この「こうでないとちゃんとしたもの書けない」というのの
発動条件を 変えることはできないものか・・・

自分で自分の傾向に気づいて
その よりにもよって?! な結論に
今かなり クサクサしています。

まあ でも あれですね。
ごたくは いーんだよ。
とりあえず書いとけ、って話です。
生きろ。










Truth is stranger than fiction. 事実は小説よりも。

およそ1か月半前に 
不慮の事故に遭遇した。
その影響で
声をほぼ完全にうしなっていた。
が、あくまでも一時的なものであり、
幸運にも 回復しつつある。

事故直後は まわりのかたが呼んでくださった
救急車の人や 警察の人と問題なくしゃべってた。
翌日、朝起きるといったん まったく声がでなくなっている
ことに気が付いた。
その日の夜くらいになると、また話せるようになったので
なんだったのか・・・とおもいつつ 経過観察。
次の日から、出たりでなかったりかすれたり戻ったり
1日なんの問題もないかとおもえば翌日はささやき声ひとつだせない
そんな波状変化をくりかえし、くりかえししながら
1週間くらいかけて だんだんと
「出ない」方向に固まっていった。
約1週間で、完全に声をうしなった。

最初の段階で 医師には相談してた。
様子見を続け
「出ない」で確定したころ 治療が始まった。

現状としては
発声できる時間が徐々に延びてきた。
時間が経つと なぜだか かすれてきて、
声量もちいさくなってきて、そして出なくなってくるが
現在、3時間~4時間くらいは 
小声ながら ほぼ問題なく話せる。
まったく話せなかった期間が3週間以上もつづき
先週末くらいになって ごくごく短い時間
突如として発声が可能になり
今週に入って、
より厳密にいうと9月5日の夜になって
おどろくほど急激に改善されてきた。
なにがどうしてこうなったのか
改善方向にスイッチがきりかわったきっかけは
ぜんっぜん わからない。

というか 基本なにもわからない。
わかるのは 事故きっかけで声が出なくなりました
ということに尽きる。

この 声がでない、っていう状態についても
うまい説明がおもいうかばない。
発声の1秒前までは
声の出しかたを わかっている・・というか 
出せないなんて 夢にもおもっていないのに
いざ発声となると あれ、どうやるんだっけ。
とか 急に頭で考えてしまうようなかんじ・・・・
というのも あまり的確じゃないのだが・・。
まあそんなようなかんじが近い。かも。
口のなかから出ていく寸前で
言葉が急に消えるというのか・・
いな、言葉は消えてない。
筆談は可能なのだから。
うまくいえない。

うまい説明が思い浮かばないのは、
感覚を捕まえることが難しいからだとおもう。
こんなかんじだ、と説明できるようにするために
「声を出そうとするのに出ない」ときの
身体感覚や 気持ちの状態を
キャッチしようと身構えているのだが
じっさいには 困難だ。
捕まえられないし、忘れてしまう。
これまでまったく考えてなかったせいもあるかもしれない。
声を出すとはどういうことか・・・ とか考えないわ。

それに つくづく奇妙なことに
ときどき 
ほんとうに ごくまれにだが
ぽろっと
ふつうに口をついて声がでてくるのだ
ふいに話しかけられたときや、
まわりがさわがしく自分の声がまぎれて
聞こえないくらいのときなどに。
「あ、出た!」と思いきや
つぎの瞬間にはもう 出ない。

さらに、場面によって、また時間帯によっても
その 「たまに声出る」の
発生確率が異なる。
わりと職場で、わりと夜に、起こりやすい。
わたしが 声を失っていることを
把握してない同僚すら いるんじゃないかとおもう。
もともと 忙しいときは 朝から夜おそくまで
みんなパソコンにむかって 無言でひたすら仕事してるし
わたしは 社員のほとんどがいる部屋とはまた別の部屋に
いるから 距離もはなれており
数週間まったく顔をあわさない同僚とかもいるわけで。

もう こうなると わけがわからない。
場面によって変わるとか わけがわからない。
けっして、望んでそうしているわけではない。

おかしな話だ。
こんなことあるか????

でも事実だ。
このまるまる1か月の間。
なが!!!

診断は
心因性失声症とのこと。
そんなのあるんだね。
くだんの事故で階段から転落したときに 
首をぶつけ(死ななくてさいわいだった。)
声帯に軽い外傷をおったことも 
声が出ないことの原因ではないかと
さいしょは検討されたのだが、
それが治っても、声はもどらなかった。
そもそも 声帯の外傷はごく軽度だったようだ。

あんまりショックなことがあると
まれに こうなるんだそうだが
しかし・・・ 感覚的にはまったく
得心がいかない。
起こったことと それによって受けたダメージのバランスに
納得がいかない。

自分はあの事故を しかたのなかったこと、
おわったことと もう受け止めたつもりでいる。
夢にまでみたりしない。
べつにだれをうらんでもいない。
体の一部とか欠損したわけでもないし
(歯は1本折れたし 肋骨にヒビもはいったが。
しかし差し歯ってほんと高いんだね!!)
一生残るような傷を負ったわけでもない。
そんなに大きいできごとだったと 認識してない。
ちょっとばかり負傷はしたものの
昔から やたらとケガばっかりしている自分にしてみれば
正直、規模としては この程度、なれっこでもある。

なのに ショックで声がでなくなるとか
そんなマンガみたいな。初めてだ。
まさかこんなことになるとおもわなかった。
でも、まぎれもなく事実だ。
おこってしまったことはもうどうしようもない。

職場の近くの病院で 週1~2回
発声訓練やカウンセリングを受けている。
訓練を担当してくれる女性の先生が
とてもおもしろい 優秀な人だ。
なかよくしてくれる。
病院外で出会っていたら きっと友だちになれたろう。
わたしが音楽がすきであると把握すると
音楽を積極的に取り入れた訓練プログラムを組んでくれた。
じっさい彼女は音楽に造詣がふかく、電子ピアノで
わたしが好きなロックバンドの曲とか弾いて
いっしょに歌ってくれる。
しかも演奏も歌もじょうずだ。
いっしょに歌うといっても
自分はほぼ「口パク」だが
このかんじだと そのうちちゃんと歌えるんじゃないかとおもう。
曲を弾いてもらうと 
自然と歌いたいきもちがわいてくるんだよね。
(子どもみたいな反応ではずかしいんだけど。)

声がでないだけで ほかにはなんの異状もないため
(たとえば耳が聞こえないとか頭がはたらかないとか)
仕事もふつうにしている。
職場仲間や取引先との連絡は
もちろん精一杯 努めるが だめなときには
メールがある。 なんの問題もない。
わたしの職場はみんな コミュ障だからな。
声がでない程度では どうということもない。
みんな話せたって コミュニケーションが成立しない、
それがわたしの職場なのだから。
むしろ 書いて残すほうがいろいろ安心・確実だから
文字をもっと活用しまくろうと
改めて考えているところだ。

友人などもふくめ 周囲の人はみんな 
こんな状態でも こだわりなく
受け入れてくれて 心から感謝している。
たすかっているし、救われる。

でも 同時に このうえもなくつらい。
なによりも、
強烈に、いらいらする。
自由に話せないことにたいして。

心は毎日 たえまなく激しくゆれうごくが
やはり声を出して話したいという気持ちのほうへ
声を出して不自由なくしゃべりたいという気持ちのほうへ
欲求の針がおおきくふれる。
そんなかんたんなことがなぜできないのかと。

本音を言えば 
声を出して話せない自分と 周囲との関係
というのをめぐっては、
おもにふたつのことで
めちゃくちゃに葛藤した。
葛藤してる。

自分の世界が
望まないのに 変わることをまずおそれた。
話せないというただその一点によって、
今の自分の交友関係や
世界そのものを 手放すのは
たとえ一時的にであっても イヤだ。
手放さなくちゃいけないとか、
世界が変わるとかいうことを、
思いたくない。だから
むしろすすんで外にでて人と関わりたいと。
まわりに面倒をかけてでも。
しかし その一方で、
話さなくていいし説明も要求されない
たったひとりの環境で
ボケーっとセミの声でもききながら過ごしたり
近所をふらふら散歩したりなんてのが
じつをいうと 一番 
心の安定につながってることにも気づいてる。

そして医師は 
あせるな、リラックスしろという。
話せないことを気に病むと良くないという。
そのへんのことはすべて、なにもかも、
いわれなくても理解はしてる。よくわかってる。
それだからこそ めちゃくちゃに いらいらする。


これは自分にとってすごくふしぎな感覚だ。
わたしはこうなった当初
しゃべれないなら むしろ 面倒がなくていい
とか おもってた。
そのくらい 自分にとって
コミュニケーションツールとしての声は
大切ではないもの、
二次的なものってかんじだった。
自分には ほかのもっと使いやすいものがある、とおもってた。
はずだった。


でもそのへんのことについては
まだあんまり考えがまとまってない。
もっと 考える必要があるとおもう。


事故それ自体は 自力で回避できたものではないし
自分に責任のないできごとで
(正直言うと思い出したくもない というのもあるのだが)
おわったこととして片付けてしまった。
しかし、
声がでない というできごとは おおきかった。
決定的な影響を受けたとおもうし
まだいまも 向き合わざるをえない問題として残ってる。
ほんとにまったく話せなかった期間は
自分の今後のことをいろいろ考える期間にもなった。


正直つい先週あたりは ほぼ絶望してた。
感情が乱れに乱れて コントロールできないと感じ
なにもかも投げ出してしまいたいと
おもったことも 一度や二度ではなかった。

でもいまは 浮上してる。

完治がいつになるかはわからない。

が、もう ここに立ち止まるのはやめる。
動き出す。




映画の感想-「ワンダーウーマン Wonder Woman(2017)」-170827。

ワンダーウーマン
原題:Wonder Woman 
パティ・ジェンキンス監督
2017年、米

movie.walkerplus.com

 

f:id:york8188:20170827225840j:plain



ワイルドスピード」のジゼルが主演するので、観てきた。

物語の主人公は、ダイアナという女の子。
不思議な力で 現実の世界と隔絶された
女だけ、単一民族の島国の 王女として生をうけた。
島の女たちはみな屈強な戦士であり、
自分たちの力で国を守って長年、平和にやってきた。

彼女たちがなにから国を守っているのかというと・・・
この島のなりたちには 古の最高神ゼウスとその子アレスの
世界を巻き込む骨肉の争いがからんでて、
かつて父に大敗した 忌まわしきアレスが
力を増していつかよみがえると見られているため、
それに備えて守りを固めてる、ということらしい。

ただ ちいさなダイアナは そんなこととは関係なく
できるだけ 戦いとかとは遠ざけられて育てられてきた。
しかし、じつのところダイアナには
ある重大な出生の秘密があったりする。
どんなに母が彼女を戦いと無縁に育てたくても 
血はあらそえない。
やがてダイアナは 比類なき戦士としての才能にめざめていく。

そして、平和だったダイアナの生活が 一変するできごとがおこる。
むこうがわの世界から戦闘機が1機 島に不時着してきたのだ。
救出されたのは 米国兵のスティーブ。
彼によると、現実世界は第一次世界大戦のさなか。
むこうがわの世界で むごい戦争がおこっていることを
知ったダイアナは
果敢にも、自分が世界を救ってあげなければと決意。
島をでれば二度と帰ってはこられないことを知りながら、
ティーブとともにむこうの世界の戦地へと旅立つ。
・・・・
というストーリー。


ひとことでいうと
かなりひどい(^^)!!!
最後まで観るのに相当な忍耐を要した(^^)
なぜだろう・・・
つかれた(^^)

でもいままでにわたしが観て すきだった映画
(たとえばトレインスポッティングフォレスト・ガンプ一期一会、
エージェント・ライアン、21グラム、トーク・トゥ・ハー・・・)
にでてた役者さんが ぜいたくにも うなるほど出演していて、
しかもどの人も、けっこういきいきと演じていたように見えた。
(イヤ、いいじゃないですか。エージェント・ライアンが
すきだって、べつに(^^))

監督が「モンスター」の あの優秀な人だから・・・
雰囲気のよい 働きやすい現場だったのかもしれない。
かんがえてみればたいしたものだ、
「モンスター」とはぜんぜんちがう映画なのに。
ちゃんと作品として成立はしていて 
いわんとしていることもよくわかるつくりにはなっていた。
きわめて善良な映画ではあったとおもう。
(悪気がなければなにをしてもいいかというと 
そういうわけでもないだろうが・・・(^^))
映像とかすみずみまで きれいだったし。

なにが具体的にまずかったのか だから 
不思議だが よくわからない。
だがわたしの心がかなり一生懸命 訴えている、
駄作であると(^^)

主演のジゼルの健康的な美しさが炸裂してて
彼女をながめているだけで2時間 いちおう 
もつことはもった。
ルイーズ・ブルゴワンみたいな、好きにならずには
いられないといったかんじの 美しさだった。

ジゼルが(ジゼルじゃないけど(^^))うまれてはじめて
アイスクリームを食べるシーンと、 
泥沼の最前線と化した寒村のバトルシーンはよかった。
ジゼルが(ジゼルじゃないけど(^^))
装甲車をひっくりかえしてた。

あの2シーンだけ もう1回観たい(^^)

Twist&Jams 世界に変化をもたらしてくれた音楽

上野水上野外音楽堂で行われた
野外音楽イベントを、
第2部の冒頭までで切り上げたあとは
またべつのライブイベントに行くために
電車で神奈川県まで移動した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

近距離らしかったが大事をとって駅からタクシーに乗り
ライブイベントの 会場に行った。
ペットホテルやドッグランなどのペット対象サービスの
複合施設のようなところだった。
お客さんたちのおおくが 愛犬を連れてきていて
みんなかわいらしかった。
小型犬がおおかった。 
頭や体をなでても どの子も怒らなかった。


aozorun.com

 

8月19日ライブイベントのお知らせ |

 

ここで催されたライブイベントに
Twist&Jams が出演した。
とちゅうから 笑えるほどの豪雨にみまわれたものの
とてもよい演奏がきけた。

f:id:york8188:20170820234415j:plain

 

※あ、失敗した写真 添付しちゃった(^^)
なにもこれでなくても。 
まあ このままでいくか。


え、いきなりなんの話だよ、
というかんじなのだが
じつをいうと
あんまりこういうことをするのは ガラじゃないながら、
以前から 何度も このグループのことを
ブログに書こうと トライしてた。
なのに、
どうしても うまく文章で表現できなかった。

自分の文章能力の 現時点における限界と 
言葉というものの「正しくなさ」よ。

ほんとうに文章にしたいとおもっても
できない、なぜなら文章だから。
ということもあるようだ。
へどがでるが しょうがないんだとおもう。

いったん かれらの音楽の文章化は 
あきらめることにする。

ここは、動画と音声で かれらの音楽に
ふれてみていただきたい。

動画制作は2作品とも
KUROMUSIさん(掲載許可いただきずみ)。

www.youtube.com

 

www.youtube.com


・・・この動画もまたこれ 涙がでる美しさだな。


Twist&Jamsは 
ギター2台による
ジプシースウィング・ユニットだ。

自信がないから説明はもうしないが、
かれらをめぐっての
わたし個人の経験だけ 話させてもらう。

わたしはかれらをとおして、
それまで聴いたことがなかった音楽を
かなりたくさん聴くようになった。

そもそも
わたしは 長らく 
弦の音への苦手意識が ものすごく 強かった。
クラシック音楽には ずっとかかわってきたくせに、
管弦楽はまだしも 小編成やソロになると
ものすごく限定的な
一部の演奏家の一部の盤でないと
弦楽器の音を 受容できなかった。

わたしが卒業した高校には 
公立ながら音楽の専門クラスがあり
弦楽器専攻の生徒がおおぜいいた。
高校生だったわたしは この弦への苦手感が
とくにひどい状態にあり
生徒たちが教室で 楽器を取り出して練習しているところを
たまに耳にするのさえ 正直なところ
総毛だつほどイヤだった。
あんまり不快を覚えるもんだから、弦楽器専攻の生徒
(つまり同学年の別のクラスの子、ということだが)に
そうとう しんらつなことを平気で言い放つことも
しばしば。
何さまだ・・。


この 演奏者サイドにしてみれば 不当といってもいい
偏見的な苦手意識、こだわりは 
人が聞けばおそらく驚くであろうほど 長くつづいた。
この手の神経症的なやつは
たいてい根拠というものが希薄だ。
それに、それがどんなジャンルのものでも、

「これは大丈夫だけどこれはだめだけどこの場合のこういうのならいいけど
でもやっぱりこれだけはだめ」

みたいな、細かい「自分ルール」があるのが常で、
人さまに説明しても うっとうしがられるのが
せいぜいだろう。
わたし自身も 自称潔癖症の人や偏食家の人の
自分ルールなんて 正直聞いちゃいられない。
だから ここでもあまり 詳しく書くつもりはないが、

ともかく 音楽にはかかわっているくせに
弦楽器の音がやたらに苦手 というのは
ゆゆしきことだとの 自覚はあった。
おおっぴらにしにくい分、
自分のなかで むだに問題が凝固し肥大化していった
かんじは否めない。

クラシックはまだそれでも 
自分のフィールドみたいなきもちがあったから
自力でこっそりすこしずつ 許容範囲を広げていき
20代くらいにもなると
「バッハの無伴奏チェロ組曲がすき」とか
いっちょまえなことを言い始めたが・・・、

それ以外のジャンルの弦楽器は
なにか未知すぎる感があり 
怖くてほとんど 近づけなかった。


それが、縁あってTwist&Jamsに出会い
かれらの音楽をとおして 弦の世界をながめたところ
あの病気レベルのこだわりはいったいなんだったのかと
おもうくらい 急激に広く 深く
弦の音色を愛せるようになった。

さきほど、
こだわりにはたいてい根拠ってものが希薄、
と 言ったが、
わたしが弦の音を
受け入れられなかった原因はひとつだけ。
楽音になりきれずに残る いかにも水分不足の軋音が
耳に はりつくように感じること。
だが これこそが
なまいきにも イヤでイヤでたまらなかった。


しかし よい弦楽器の演奏家
そのような 軋みの音をほとんど出さない。
気にさせない。
むしろ積極的に自分のものにしさえして、
美しく、かつ自由に、昇華していくものだということを
もう 明確に学んだ。

それからというもの
弦の演奏を聴こうとおもうとき
おっかなびっくり 指でつまみあげるかのように
えりごのみする必要を 感じなくなった。


すこしまえまではほんとに 
絶対に無理な気がしていた
ジャンゴ・ラインハルトにはじまって
グラッペリ、ビレリ・ラグレーン
ストケロ・ローゼンバーグとかまで
楽しめるようになっており、
職場で ききながら仕事をしている。


それに、音楽とは関係がないにしても、
収穫はほかにもあった。
かれらを知り かれらを追いかけるようになったことで
わたしは おおくの 新しい友だちや
しらなかった優秀な演奏家たちとの出会いにも 
めぐまれたのだ。


わたしの文章能力では
かれらTwist&Jamsの音楽については
とうてい解説できない。
でも かれらの 自由でゆたかな音楽性が 
いろいろな意味で
わたしの世界に おおきな変化をもたらしてくれた
ということだけは 
自信をもって言える。

だからいちど 感謝をささげたかった。
大人になってしまったいま
自分の世界がこれほどまでに
おおきく、鮮烈に
変わることがあるとは
予想もしてなかったから
それを与えてくれた人たちに
感謝しているということをつたえる必要はあるとおもった。
できれば自分の言葉で。



Twist&Jamsは
都内と神奈川あたりを中心に
活動をしているので
ぜひ いちど ライブを聴いてみていただきたい。

Twist&Jams(Facebook

https://www.facebook.com/TwistJams-236575353178532/


※ページに入るのにセキュリティチェックを要求されるかも。

YouTubeでも
Twist&Jams」でキーワード検索すれば
もっと多彩な演奏動画を閲覧することができる。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ずっとのどにつっかえていたものが
これですこし とれたかんじがするかな。

ほんとは恥ずかしいから できれば
こういうのは 今後書きたくないけど

かれらの音楽そのものの文章化を断念したことが
これからは またのどにつっかかりつづけるんだろう。
力をつけ、また、かれらの音楽をもっとよく聴いて
いつか 文章化することを目指したい。
その努力って べつにだれにも求められてないけど(^^)




別冊UTA-KAI 20170819。

きのう、
上野恩賜公園野外ステージ(上野水上野外音楽堂)で開催された
音楽イベントを 聴きに行った。

別冊UTA-KAI official web site


f:id:york8188:20170820162126j:plain


ずっと 疑っていたんだけど、
みなかみ野外音楽堂 ではなくて
すいじょう野外音楽堂 かも。
漢字でみたとき みなかみと思い込んでしまった。
じっさいに行ってみたら
不忍池のうえに建てられたというていのステージだった。
かんじんの水が(不忍池は確実に水をたたえていたけど
音楽堂のしたに引き込まれた水は)ほぼ枯渇していたから 
自信はないけど。
だとすれば みなかみ野外音楽堂ではなくて
すいじょう野外音楽堂なんだろう。


夜から別の場所でほかの予定があったため
第1部をすべてと、第2部のさいしょの出演者の歌だけ聴いた。
 
正直な感想をいわせてもらえば、

ごく一部をのぞいてほぼすべて、
わたしにとっては
おせじにもよいとはいえないステージだった・・・。
 
まず、
ほとんどの出演者が打ち込みでパフォーマンスを
おこなっていたことに かなり落胆させられた。
あんなにおおきな会場で演奏できるのに、
ライブイベントであるのに、
ドラムでもなんでも 持ってこようとおもえば
できないことはないのに、
なんでフルメンバー、フルバンドでこないのか
ちょっと理解に苦しむ。

生音じゃないとライブは絶対ダメ、と
まさか法律できまってるわけもないし、
べつにいいのだろう。
ミュージカルとかバレエの公演なんかでも
オーケストラピットに楽団がおらず、
打ち込みの音楽でパフォーマンスする場合は
いくらだってあるし。
ただ欲をいえば
打ち込みなら 打ち込みで
音響的にもその音楽の質的にも
文句なしのものが聴きたい。
「なんでフルメンバー、フルバンドでこないんだ」と
わたしが感じた時点で 
わたしのなかではもうダメということに、そりゃなるだろ。

とくによくわからなかったのが、
その打ち込み音楽と、
ステージにじっさいにたっている演者とが 
あまりにも なにもかも
かけはなれた出演者が いたことだった。
音楽は 97年くらいを思わせるような
ユーロビート/クラブ系なのだが
演者がアコースティックギター1台&ボーカルの2人組
というのがでてた。

もちろん 流れている音楽とまったく無関係の音楽を
2人が演奏していたわけではない。
ギターは流れている音楽のギターパートを演奏してたとおもうし、
ボーカルは音楽にあわせてその音楽の歌を歌ってた。
けど、音楽と演者の見た目があまりにもちがいすぎていて
違和感しかなかった。
あそこまできたらもう ギターいらなくないか。
ふたりで歌って踊っちゃえばいいのに。

あの2人組はいったい・・・・
一晩たったいまでも 謎だ。

あとで彼らの公式サイトを見てみたとき、
アコースティックポップユニット、
と紹介されていたのを読み
いやいやそれもどうなの、と おもわされた。

わたしはあのアコースティックギター
ギターの形をした完全オリジナルのシンセサイザー
あのギター型シンセからすべての音を出してるのかな、
もしかしてそうならスゴいな! とか
おもいたいような気がしたが
ありえない。
演奏中の指の動きが、そういうかんじじゃなかったし。

でも この2人組、
ふしぎなことに
パフォーマンスそれじたいは 
みてて たのしかった。
ボーカルの人は歌がうまかったし高音が美しかった。
2人が 歌っててとてもたのしそうなのが
見ているこっちにとっても 気分がよかったし
観客もずいぶん協力的で
(固定ファンもおおぜいきていたんだろう)
多くの人がたのしんでるようにみえた。


あとはEXILEのような歌をうたう
5人組の男声ボーカルグループや
男性のシンガーソングライターが出演していたのが
第1部だった。
全体的に
音の聞こえ具合が強すぎて
あまり歌声が楽しめなかった。
歌詞が聞こえないこともあった。
もしかしたら、
歌っているほうもやりにくかったのかも。

EXILEのような」とか露骨に形容されると
本人たちはさぞかし いやだろう。
 EXILEサイドからも 場合が場合なら
刺客が送り込まれるだろう。
でもそれ以外に連想されるものがなかったので、
こっちとしてはいかんともしがたい。
ゴスペラーズのような とか言うべきなのかなとも
おもわなくもないが
あの人たちほどの個性、技量は 
きのう聴いた5人にははっきりいって なかった。
みんな似たり寄ったりの歌声、歌いかたなのが
素人の耳にも 聴いてて変化に乏しく退屈だった。
ダメだとかおもったわけではないものの
とりたてて よくもなかった。

第2部のさいしょに出演した人は
バンドで演奏していた。
ピアノ(キーボード)がうまかった。
MCがおもしろかったような気がするが
ちょっとよくおぼえていない。
ファンがすごく多くて愛されているミュージシャンだった。
第2部のさいしょなのにアンコールがかかったほどだった。


演者の推定年齢と、
歌の内容とが 合ってない出演者が
少なくなかったのも
気になった。
(総じて 年齢のわりには歌の内容が幼かった。)


1部のトリは 自分もよく知る中里学だった。
わたしはこの人の演奏が聴けるからというので
このイベントに行った。

中里学 official website

 

ameblo.jp



彼にとって このイベントに出演することは
長年の悲願であったらしい。

彼が出演をそうまで 熱望したからには、
このイベントにはよほど 優秀なバンドや
シンガーが せいぞろいするのかなーと想像していた。
しかし ふたをあけてみれば、
まあ第1部しかわたしは聴いてないわけだけど
第1部の白眉こそは 中里学だった。

鍛えぬかれた声は美しく、 
音程は小憎らしいほど安定し、
(本人が弾くギターのピッチは
なんか微妙にずれてたけど(^^)、)
高い技量を示すサポートメンバーとの連携はきわめて密。
さして力みもしないのに
観客席のいちばんうしろの方まで
音楽がまっすぐ突き抜けていくかんじは
ほかの出演者の演奏には 
なかったものだろう。

音楽性、音楽的傾向という意味で、
中里学よりこっちのほうが自分はすき と
感じた出演者は ほかにいなくもなかったが、
それはいいからちょっといまは こっちにこいよ!と
ひきずりこもうとしてくる パワーが
彼の演奏には たしかに あった。

わたしが中里学のファンで ほかの出演者のことをひとりも
知らなかったように、
ほかの出演者のファンでその人を聴くためにきていて
中里学を知らない観客はおおぜいいたはずだが
その人たちの体が じゃっかん前のめりになっていき 
だまりこくって聴き入る
あの数分間の 雰囲気は・・
肌で感じたときなかなか異様だった。
そんな雰囲気があの短い時間で構築されてしまうとは。
中里学が演奏を終えたときの
幻がきえて元の世界に戻ってきたような
あのヘンな体感はなんだったんだろうな。


こんなことは できればいいたくはないが、
いまひとつなにかが足りない映画や
わるくないけど いまいちよくない音楽にふれたとき、
「よくない」という事実と 向き合いたくない、と
感じるものだ、観客は。
それだからこそ、いい面をわざわざ「探そうとして」しまう。
ほとんどないとしても、何か良いものを
かろうじてでも感じようとする。
絞り出すように。
良きものになろうとしているもの、
いうなれば可能性?みたいなものを。
でも あたりまえだが そんな無意味な努力は
本来ぜんっぜんしたくない。

やはり絶対的によいものにふれたいと思って 当然だ。
あまりよくないものばかりが集まったところにただひとつ、
絶対的によいと言えるものがまざっていた場合、
観客の反応は まったくもうしわけないくらい
正直かつ残酷になる。



誕生日によせる。

まあ
これから生きていくうえで
いちばん自分に必要なのは
感じすぎない心。
心。もう いらないくらいだ。
これだけが重い。
生きるのに じゃまなだけにおもえる。
あんまりにも重い。
感じすぎない心さえ手に入れば。

そう思い切れたらどんなに楽だろうな。

でもやっぱり そのようにはおもえない。
性懲りもなく心は痛む。
痛まないことなんて 生きているかぎり ありえない。
いかんともしがたく苦しい。
棄ててしまいたくても棄てられない。
ほんとにつらいものだ。

わたしがこのように思うのは
けっきょくのところ もう傷つきたくないからだが
でも わたしも 気をつけているつもりでも、
どこかでだれかの心を傷つけていることだろう。
きょうも、きのうも、数日前、数年前にも。
自分の傷には敏感でも
人さまのそれには気づけない。
ならば 人さまがわたしを傷つけたとき
その人がそれと気づかなくても 当然だ。

傷つけてしまったときに
あなたの言動によってわたしの心は傷ついた、と
はっきり わたしに伝えてくれたらなあ。
そうしたらおわびでも釈明でも
必要を感じれば すぐにさせてもらうし、
やりとりの やり直しが可能になるのだが。

たのむから わたしに何も告げないまま
その心を 閉じてしまわないでほしい。
なにをいってもどうせ通じない、とか
真意を聞いてもしかたがない、とか
その心のなかだけで なにもかもあきらめてしまうのを
あと一回だけでいいから 待ってほしい。
あきらめるまえに 
なんとかその気力をちょっとふりしぼって 
わたしに聞いてみてくれないだろうか。
なぜだったのかと。
どうしてそうおもったのかと。
どんなつもりでしたのかと。
意外となにも考えてなかったかもしれない。
ましてあなたのことを 傷つけるつもりなんかでは
なかったかもしれない。

そんなふうに食い下がるのは 
うっとうしいだけなんだろうか。

けれども
わたしにとって大切な人であればあるほど
やっぱりそう願わずに いられない。
うしないたくないとおもってしまうんだ。

慎重にやっているつもりだ。
なのにそれでもまちがえてしまうことが 
まったく うんざりくるほど多すぎる。
だから話すことがイヤになる。
話さなければ弊害も生まれないとか
つまらないことを考えてしまう。

わたしはそのとき 
たしかに無神経だったかもしれない。
でも、そんなつもりじゃなかった可能性が高い。
そのことを
もう一度 話す機会がえられればなあ。

でも
わたし自身が だれかの言動によって傷ついた時
傷つきました、と相手に伝える気力も意思も
たしかに ないわなあ。
すこし時間がたてば 違ってくることもあるけれど。
人には人の そのときにはそのときの
タイミングってものがあるから
そりゃたしかにしょうがない。
相手には相手の 
受け止めて意思決定をするだけの
時間というものが必要なのだ。
つまりわたしにも。


ある音楽に関する素朴な疑問。

音楽的に成立させないことを目的として作られた
音楽、というものが あるのかなと。
それってそもそも音楽なの? といわれると
ウーンって 一瞬 迷うんだけど
でも、音楽なんだわ どう考えても

スキかキライかでいえばキライ?であり
ついていけるかいけないかでいうと ついていけそうにない。
受け入れられるかどうかでいうなら
受け入れられない。

そうおもうのは、
聴いてると疲れるから。
音楽的に、破壊を旨としているとしか思えない構成をしている。
聴いていて それがおもしろくないと言ったらウソになるが
おもしろいけど しかしすごく疲れる。
頭のなかで 聴きやすいように 勝手に編曲してしまいたくなるから。
頭のなかで 聴きやすいように 勝手にミックスしてしまいたくなるから。
でもそういうことってするもんじゃない、という気持ちがあり
そこでせめぎあって苦しくて、
こんな思いをするために音楽を聴くつもりではないのだが、
という気持ちが湧き上がるから。

でも
良いか悪いかでいうと 
これはたぶん、良い。
良いだけに 耳にはいってくると心をそらすことがどうしてもできない。
すごくまいった。
そんな変なライン上の音楽にでくわすことになるとはおもわなかった。
聴けば聴くほど理解できなくなってくる。
あまり深くかかわらない方がいいんだろうか。